唯「むふー、いかぬいかぬ」
私は今、学校の廊下を走っています。
うっかり忘れ物をしてしまって、それを取りに行ってるのです。
それに気付いたのが家に着くギリギリだったので、もう外は夕日で真っ赤っかです。
テッテッテッテッ。
桜が丘女子高に入っておよそ二週間。この学校の事にだいぶ慣れてきた私は、迷わず自分の教室へ向かいます。
唯「うしっ、着いたぁ」
私は教室のドアを開けました。
ガラガラッ。
唯「……あれ?」
窓から差し込む夕日が、教室を赤く輝かせています。
そんな中、一人席に座り、腕を枕にして眠っているのは……
唯「ムギちゃん?」
この間入部した軽音部のメンバーの一人、
琴吹紬ちゃんです。
ついさっき駅で別れ、もうお家に帰ったはずですが……?
夕日に照らされて赤く染まる彼女に、私は思わず見惚れてしまいました。
唯(……綺麗だな)
──ハッ。
唯(えっと、何でムギちゃんが私の教室に??)
私は廊下側のドアの上を見て、プレートを確認します。
すると、ここは私の教室ではありませんでした。
唯(あ、あれ? 間違えちゃったのかぁ。
失敗失敗)
思いながらも、私は再びこの教室に足を踏み入れて、ムギちゃんに近付きます。
そして彼女の席の前まで来ると、その場にしゃがんで机に肘を付きました。
二十センチにも満たない先に、眠っているムギちゃんの顔があります。
紬「すー、すー……」
わずかに聞こえ、届く甘い寝息。
唯「…………」
どうしたのかな、私。
もう時間も遅くなって来ているから、こんな事してないで早く忘れ物を取りに行かなきゃいけないのに。
唯(ムギちゃんだって、起こしてあげないといけないよね)
でも、どう言う訳かそんな気になれません。
何か……もったいなくて。
ずっとこうして居たいなって。
唯(どうしてかな? すっごく……
安らぐよ)
もうほとんどの人が帰ったのでしょう。この静かな空間で、私とムギちゃんは二人きり。
何て言うか、周りの赤と静けさ、それに彼女の美しさがあいまって、夢の中に居るみたいです。
唯(楽園……)
私の頭に、そんな言葉が浮かびました。
唯(ムギちゃん……)
ふわふわで綺麗な髪の毛、長いまつげ、白い肌。起きていなくても伝わる、優しくて暖かな雰囲気。
私は思わず、彼女の頭を撫でていました。
ふわっ……
唯(……サラサラ)
紬「んっ……」
唯「!」
それに反応したのか、ムギちゃんが軽く体を動かしました。
紬「……すー……」
起きてしまったかなと思いましたが、大丈夫なようです。
唯「…………」
それを確認すると、私は彼女の
頭を撫でるのを再開しました。
サラサラ……
紬「……んふ、気持ちいい……」
ムギちゃんの寝言です。
そして……
紬「唯ちゃん……」
唯「!」
そうつぶやいて、彼女は微笑みました。
ドクンッ。
突然、私の胸が激しく高鳴り始めました。
唯(な、何だろコレ……?)
ドクン、ドクン。
周りの環境は変わってないはずなのに、今の私にはさっきまでの安らぎはありません。
紬「……うふふ……」
嬉しそうにむにゃむにゃと唇を動かしながら、彼女は眠り続けます。
唯(……ムギちゃんの唇って、こんなに柔らかそうだったんだ)
私はどこを見ているのでしょう? そして何を考えているのでしょうか?
唯(こんなの、変だよね)
でも、ふとした拍子に生まれてしまった願望と気持ちは、とても抑えられるものではなくて。
唯「……ムギちゃん」
私は彼女にそっと顔を近付け、ムギちゃんに……
……………………
…………
……
私は彼女からそっと顔を離し、人差し指で自分の唇を撫でました。
唯「…………」
紬「ん……?」
まるで、このタイミングを見計らったかのようにムギちゃんが閉じていた瞳を開け、体を起こします。
唯「あっ! ム、ムギちゃんっ、起きた!?」
紬「……唯ちゃん?」
彼女はまだ半分夢の中なのか、首を傾げながら目をしょぱしょぱさせています。
……よかった。これなら私の動揺がバレずにすみそうです。
紬「ん、う~ん……」
ムギちゃんは伸びをしてから言いました。
紬「……そっかあ、私寝ちゃってたんだぁ」
唯「う、うんっ、そうだよ」
紬「ごめんねぇ、待っててくれたのね」
唯「えっ?」
紬「……あっ、そっかあ。
私一人でこの教室に居たんだ~」
ぽわぽわムギちゃんが、こしこしと目を擦ります。
紬「うふふ、目が覚めましたー♪」
唯「ムギちゃんとは駅まで一緒に帰ったよね?
なのにどうしてここに一人で居たの?」
紬「あのね、電車に乗ろうと思ったら忘れ物したのに気付いて……」
!
唯(ムギちゃんも?)
紬「それでここまで戻って来たんだけど、真っ赤に染まった教室が綺麗だったからつい眺めていたの。
そうしてたらいつの間にか眠っちゃってたみたいです」
うふふ、とほっぺをかきながら彼女は笑います。
唯(ムギちゃんも忘れ物、したんだ)
私と一緒で。
別にこんなの、ただの偶然でしょう。
でも、私には運命的なものを感じました。
唯(だって……)
二人が同じ日に忘れ物して、それを取りに来たムギちゃんが長居をし、居眠りしちゃって。
その後遅れて学校に戻って来た私が教室を間違えて……
このどれか一つでも欠けてたら、こうして居る事は無かったはずですから。
……そうです。さっき私がしちゃった事だって……
ツキン。
唯(!)
さっきのもする事は無かった──ううん、出来なかったんだろうなって思ったら、胸が痛くなりました。
唯『何であんな気持ちになったんだろう? 何であんな事しちゃったのかな?』
あの後から今までずっと、ムギちゃんと会話をしながらもそんな風にぐるぐると考えが巡ってましたが、
私にとって『アレ』は、それだけ大切で大きな出来事だったみたいです。
それはつまり……
唯(そっかぁ。私……
……えへへっ)
そっ……
私はもう一度、自分の唇を撫でました。
今度は動揺や疑問の無い、純粋な嬉しさに手を動かされて。
紬「でも、うふふ♪
私とっても素敵な夢を見ちゃった~♪」
唯「夢?」
紬「そうなんです。
こことおんなじ、綺麗な夕日が見れるどこかの教室でぼんやりしてたら、唯ちゃんがやって来て頭を撫でてくれたの」
唯「私が?」
紬「うん。
それでね、その後……
優しくキス、してくれたんです」
唯「!」
……おんなじだ。
紬「その後唯ちゃんがそっと離れて行っちゃったから、『待って』って思って……
気が付いたら目が覚めてて、目の前に唯ちゃんが居たの」
唯「…………」
紬「頭を撫でられたのもキスされたのも、とっても気持ちよくて嬉しかったな。
……うふふっ。ごめんね? 変な事言って」
唯「ううん、そんな事ないよっ!」
むしろ、私だって嬉しいです。
気持ちまでおんなじだったなんて。
紬「それにね、二人で夕日を見れてとっても楽しくて……
何だか、私たちだけの小っちゃな楽園に居たみたいだったの」
唯「楽園……」
やっぱり、ここまで来たらもうただの偶然だなんて思えません。
私とムギちゃんは、別々の世界にあるおんなじ場所で、気持ちまで一緒にして同じ時間を過ごしたのです。
私は現実の、彼女は夢の中の楽園で。
そして目が覚めたムギちゃんは、こっちの世界の楽園にやって来てくれました。
紬「……もう遅くなってきたし、そろそろ帰ろっか?
そう言えば唯ちゃんも、どうしてこの教室に──」
ムギちゃんは言いながら立ち上がり、鞄を取ろうとします。
ぎゅっ。
でも、その手を私が掴んで遮りました。
紬「唯ちゃん?」
唯「えへへっ、もうちょっと夕日を見てこうよ。
二人でっ」
ニコッ。
紬「ゆ、唯ちゃん……」
ムギちゃんは私の方を見ながらつぶやき、沈黙しました。
唯「?
どうしたの?」
紬「……あっ、ごめんなさい。
今の笑顔の唯ちゃん、すっごく可愛いなって見惚れてしまいました……」
ドキッ。
唯「えっ?」
紬「あっ、ち、違うの。唯ちゃんの事はいつもかわいいなって思ってるんだけどね、それがもっと……
ってわ、私っ、何を言ってるのかな」
唯「ム、ムギちゃんっ」
私は恥ずかしくなって、目を逸らしました。
それは彼女に『かわいい』って言われたからだけじゃなくて、照れながらそう言ってくれるムギちゃんの方こそかわいすぎたから。
私の精神力ではとても、そんな彼女と目を合わせ続ける事は出来ませんでした。
唯「ふ、ふんすっ!」
ぐいっ。
紬「きゃっ」
照れくさいのをごまかす為にちょっとだけ大きな声を出して、立ち上がった彼女を再び座らせます。
そして隣に椅子を持ってきて、私はそこに座りました。
唯「えへへっ♪」
ちょこん。
そっと、私はムギちゃんの肩に頭を乗せます。
紬「唯ちゃん……」
……しばらくは言葉もなく、私たちはその体勢のまま、窓の外で輝く夕日を見つめ続けました。
唯「……ホント、綺麗だねぇ」
紬「そうね~」
唯(夕日だけじゃなくて、ムギちゃんも)
サラッ……
彼女の温もりを感じる、私のほっぺにちょっとだけ触れるムギちゃんの髪の毛。
唯(良い匂い……
……気持ち良いな)
私たちはまるで、静かで穏やかなこの時間そのものになったみたいで。
それはとてもあったかあったかで、幸せで。
この不思議な感覚を、私は瞳を閉じて味わってみます。
唯(ホント、楽園だ……
私とムギちゃんだけの、小っちゃな楽園)
そっ……
唯「ムギちゃん?」
彼女の手が私の掌にそっと触れたのを感じ、私は目を開けてムギちゃんへと視線をやります。
紬「うふふっ♪」
そこには……夕日のせいでそう見えるのでしょうか。ほっぺを赤らめ、まるで天使さんのような微笑みを浮かべる彼女が居て。
唯「……えへへっ♪」
自然と、私も笑顔を返していました。
この小っちゃな楽園で、私とムギちゃんは二人きり。
そして私は今日、この楽園で……
恋に落ちました。
おしまい。
最終更新:2012年07月29日 21:03