彼女が生まれた時のことを、今でもぼんやりと覚えています。
当時の私は、まるで玩具を欲しがるように、兄妹が欲しいと御母様にねだっていました。
そんな時、使用人の一人が妊娠しました。
大人たちは、彼女が生まれる前から、私達を姉妹のように育てるつもりだったそうです。
だから御母様は「紬はお姉ちゃんになるのよ」と言ってくれました。
その言葉を聞いて、私は嬉しかったと同時に、
少しくすぐったい思いをしたのを覚えています。

生まれたばかりの彼女は、とても小さく愛らしかった。
私は彼女の顔を見るために、頻繁に彼女の母親の元へ行きました。
音の鳴る玩具を振ると、笑顔でこちらに手を向ける彼女を見て、
自分はお姉ちゃんになれたのだと実感しました。

もちろんお世話だってやりました。
ミルクの温めを手伝ったり、離乳食をかき混ぜたりする作業はもちろん。
何度かおむつ交換をやったこともあります。
このことを彼女は知りませんが。

彼女の名前は斎藤菫。愛おしい妹の名です。


少し話は飛びます。
私が7歳の頃、初めてピアノコンクールに出場したときのことです。


演奏がひと通り終わった後、役員さんに呼ばれて舞台裏に行きました。
しばらく待つていると、ステージに行くよう指示されました。
役員さんが「最優秀賞、17番、琴吹紬」と言うと、大きな拍手が沸き起こりました。

初めて出たコンクールで私は優勝してしまったのです。
他人に評価される喜びを味わったのはこれが初めてでした。
とても刺激的な経験でした。

しかし、表彰式が終わった後、こんな呟きを聞いてしまいました。

「うちの子のほうが絶対上手いのに」
「ほらあの子、琴吹さんのとこの子だから」
「そういうこと…」

最初にそれを聞いた時、自分の家が褒められているのだと思いました。
琴吹の人間だから優秀だ、と。

しかし何度もコンクールに出て、似たような呟きを聞くにつれ、
本当の意味がわかってしまいました。


「琴吹さんのところの子だから、お金の力で優勝している」


あの人達はそう言いたいんだと。


その意味を理解してしまった時、
私にとってのピアノは、純粋に楽しいものではなくなっていました。

英才教育としてピアノをやらされていたわけではありません。
ピアノをやりはじめたのはあくまで自分の意志でした。

きっかけは両親に連れられて行ったピアノの演奏会。
当時3歳だった私は、そこで見てしまいました。
黒鍵と白鍵の上で十本の指が軽やかに踊り、メロディを奏でる様を。
指先から一つの世界を作り出し、大勢の観客を魅了する様を。

演奏会からの帰り道、私は両親にピアノをねだりました。
二人はとても喜び、高価なグランドピアノをプレゼントしてくれました。

私はピアノに熱中しました。
最初は「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」と鳴らすだけで楽しかった。
自分の指がひとつのメロディを生み出したという事実だけで、
何かを成し遂げたような気になれたのです。

「チューリップ」や「あかとんぼ」のような簡単な曲から初めて、
私は日に日に弾ける曲を増やしていきました。

弾ける曲が増える度、演奏会のあの人に近づけているような気がして嬉しかった。
いつか自分もスポットライトの下で、あの人と同じ様な演奏がしたい。
それが幼い私の夢でした。

だからコンクールで優勝したとき、凄く嬉しかったし、
優勝が「金の力だ」と言われたとき、凄く悔しかったのです。

今なら言えます。
私の両親は、本当の意味で私を愛してくれているから、
決してお金の力で賞を買ったりはしないと。
しかし、幼かった私は、両親をそこまで信じることができませんでした。
両親に訊ねて「そうだ」と言われるのが怖かったのです。

私は練習を決して休みませんでした。

誰にも文句をつけられないぐらい上手く演奏してやろう。
「金の力だ」などと言う人が一人残らず黙ってしまうぐらいの演奏をしてやろう。
そういう考えに取り憑かれていました。

その甲斐あって様々なコンクールで賞を獲得しました。
それはとても名誉なことでしたが、
私にとってのピアノが元に戻ることはありませんでした。
むしろ少しずつ練習は辛くつまらないものとなっていきました。


そんな私を救ってくれたのが菫です。


琴吹家には防音室があり、私はそこで練習しています。
ある日、その部屋に菫がやってきました。

ドアをちょっとだけ開き、こちらを見ている菫に向かって、
「入っておいで」と私は言いました。菫はおそるおそる扉を開きました。
練習中なので、遊ぶのは後にして欲しい旨を伝えると、
菫はひとこと「ききたい」と言いました。

ねだられるままに、私はピアノの演奏を始めました。
たぶん菫の言葉が嬉しかったんだと思います。
私は演奏にすっかり没頭してしまい、夢中になって鍵盤を弾き続けました。
あまりに熱中してしまったため、菫の存在をすっかり忘れてしまいました。
たぶん二時間ぐらいは練習を続けていたと思います。
その間、菫はずっと立ったまま私の曲を聞いていました。

慌てて私が「疲れたでしょ?」と問いかけたところ、
菫は「もっとききたい」と応えました。

さらに3曲ほど演奏した後、
私が「もういいかな」と聞くと、
菫は「もっと」と言いました。

このやり取りを3回ぐらい繰り返しているうちに、
自分の瞳が湿っていることに気づきました。
それに気づいてしまうと、自分でもどうしようもない想いが募り、
頬を沢山の水滴が伝っていきました。

私が声をあげて泣き始めると、菫まで貰い泣きしてしまいました。
防音室だったので、大人たちが来ることもなく、
私たちはとても長い時間泣き続けました。

菫は思い出させてくれました。
私は、大人たちを見返したかったんじゃない、
あの人みたいに、誰かを喜ばせたくてピアノを始めたんだ、と。

たぶん純粋にピアノを弾けたから、
ピアノで菫を喜ばせられたことが嬉しかったから、
あの時私は泣いてしまったんだと思います。

ひとしきり泣いた後、私はまたピアノを弾き始めました。
すると菫は笑顔になってくれました。


つい最近、菫にこの話をしたところ、全く覚えていませんでした。
けれども、私にとっては絶対に忘れられない、大切な想い出なのです。

これが、最も熱心な私のファンが誕生した瞬間です。
それから毎日、菫は私のピアノを聴きにきてくれました。


私は、誕生日プレゼントを前倒ししてもらい、
菫のためのソファを買ってもらいました。
赤い、小さなソファです。

菫はこの特等席に座り、私のピアノをにこにこしながら聴いてくれました。
私は菫を喜ばせたい一心で、沢山の曲を弾きました。
新曲に挑戦し、上手く弾けるようになると、菫は私以上に喜んでくれました。


菫のおかげで、私にとってのピアノ練習は、ちょっとした演奏会になりました。
たった一人のための演奏会。
幼かった私達の、とても大切な時間……。

私が中学に入学したあたりから、
菫に対する『侍女』としての教育が始まりました。

菫は『斎藤』という使用人一族の娘です。

琴吹の祖先がオーストリアから連れてきた一族で、
代々琴吹家の使用人として働いてくれています。
敷かれたレールを踏み外さなければ、
菫にも琴吹家の使用人としての未来が待っています。

菫の教育は、菫の祖父が担当したのですが、
これがなかなか厳しいものでした。
菫は練習が終わると私のところへ来て弱音を吐いていました。

この時、私の中で少しだけ打算が働きました。
かけがえのない大切な妹。
そんな彼女が、『侍女』をやりたくないと言い始めたら、
一緒にはいられなくなってしまうかもしれない。
琴吹の家から出ていってしまうかもしれない。

もちろん打算だけではありません。
辛そうにしている菫を見て心苦しかったというのもあります。
ただ、どちらかと言うと、打算のほうが大きかったことを告白します。

私は菫と一緒に『侍女』としての訓練をはじめました。
一緒に紅茶をいれる練習をしました。
お掃除も一緒にやりました。
一緒に包丁の使い方を勉強しました。
晴れた日は、一緒に庭に出て洗濯物を干しました。
既に習得していた礼儀作法については、私自身が菫に教えました。

すると菫はあまり弱音を吐かなくなりました。
積極的に練習をしようとはしませんでしたが、
以前よりずっと真剣に課題に取り組むようになりました。

そんな菫を見て、私はホッとしていました。
これならきっと大丈夫。
ずっと私の傍にいてくれるだろう、と。

高校に入って私に大転機が訪れます。
軽音部に入部したからです。
部活のなかで気の合う仲間を見つけました。
りっちゃん。
澪ちゃん。
唯ちゃん。
梓ちゃん。
彼女たちと一緒の時間は、今まで私が経験したことのないものでした。

それまで菫の前以外では素の自分を出したことがありませんでした。
しかし、軽音部では素の自分になれました。
ありのままの自分で体当たりしても受け止めてくれる仲間がいる。
自分を出せば出すほど楽しくなっていく。
それは、とても刺激的で充実した毎日でした。

私は軽音部に傾倒していったのです。


菫と一緒の時間も減りましたが、私はそれほど気にしませんでした。
軽音部で過ごす日々がとても楽しかったのに加えて、
菫とはいつでも会えると思っていたからです。

一緒の時間が減ることを菫がどう考えているのか。
それに想像を巡らすことさえしませんでした。

これは後に菫に言われたことなのですが、
私は自分自身を過小評価する傾向にあるそうです。
会えない時間が増えることで、菫が寂しがる、
という発想がそもそも存在しなかったのです

だからみんなと同じ大学に進学することが決まり、
寮に入るかどうかを決めるとき、それほど迷わず入寮を選びました。

決して菫のことがどうでもよくなったわけではありません。
菫とHTT、どちらか片方だけを選べと言われたら、迷わず菫を選びます。
それくらい菫は大切な存在です。

しかし私にとって菫の存在は当たり前になりすぎていました。
寮に入るかどうかを考えると時、私が気にかけたのは、
菫と会えない寂しさに自分が耐えられるか、ということだけでした。

大学に入ってからも仲間と過ごす毎日は充実していました。
菫についてはさわ子先生から、軽音部に無事入部した、
と聞いていたので心配はしていませんでした。

ただ、一つだけ問題がありました。
菫と会えない日々は思った以上に寂しかったのです。

いつも私の後ろについてきてくれたかわいい妹。
その菫と全く会えない。
菫の前でピアノを弾けない。
一緒に漫画のお話もできない。
一緒にお料理もできない。
一緒のお布団で眠ることもできない。

日に日に逢いたいという気持ちが強くなりましたが、なんとか我慢しました。
菫と「桜ヶ丘の学園祭で会おう」とメールで約束していたからです。

学園祭前日、私は実家に戻りました。
菫は学校に泊まり込みで練習をしているらしく、家にはいませんでした。

夜、私は菫の部屋に行きました。
誰もいない、ほのかに菫の匂いがする部屋。
不意に菫の顔が見たくなりました。
そこで、私は一冊の本を取りました。
菫の中学校の卒業文集です。

文集に載っていた菫の写真は三枚。
どれも笑っていましたが、私に見せるような自然な笑顔ではありませんでした。
そして、後ろのほうに「みんなの夢」と書かれたページを見つけました。


菫はそこに「お姉ちゃんともっと一緒にいたい」と書いていました。
「彼氏が欲しい!」「公務員!」「玉の輿!」などと書かれた夢のなかで、
「お姉ちゃんともっと一緒にいたい」という菫の願いは浮いていました。
たぶん、浮くとわかっていても、書かずにはいられなかったのでしょう。

それを読んで初めて、私は自分の愚かさに気付かされました。

高校時代、自分がどれだけ菫を蔑ろにしていたのか気付かされました。
大学に入寮すると決めたことがどれだけ菫を傷つけたかを知りました。

とても恥ずかしくなると同時に、
菫に対する申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

自分が浮かれている間、菫はずっと寂しがっていた。
菫がずっと自分の傍にいるように仕向けつつ、
彼女が傷ついていることに全く目を向けようとしなかった。

とにかく謝らないと――

文化祭が終わった後、菫と会いました。
久方ぶりの再開です。

私が何も喋れないでいると、菫が語ってくれました。
彼女がずっと感じていた寂しさを。
私が離れていったことで感じた苛立ちを。
そして新たな居場所を見つけたことを。

私は「ごめんね」と謝ることしかできませんでした。

しかし、菫の話はそれだけでは終わりませんでした。
菫は「もっとお姉ちゃんと一緒にいたい」と言ってくれました。
新しい居場所を見つけても、
「一緒にいたい」という気持ちは一層強くなったと言ってくれました。

その言葉に、私はまたしても救われました。

一度目は最高の観客として、
二度目は最高の妹として、
菫は私を救ってくれたのです。

私の心は温かい気持ちでいっぱいになって、
目から何かが溢れそうになってしまいました。

私はそれをぐっと我慢して、「ありがとう」とだけ言いました。

少しだけその後の話をしようと思います。

私は週末になると実家に帰るようにしています。
そして菫と一緒に遊びに行ったり、お料理を作ったりして、夜は一緒のお布団で寝ます。
帰る前には必ずピアノを弾きます。
HTTの仲間といる時間は少し減ってしまいましたが、
それ以上に充実した時間を過ごせているという実感が私にはあります。


ところで、私は菫に伝えないといけないことがあります。
自分が菫に会えない寂しさを感じていたことを。
菫に二度も救われたことを。
「一緒にいたい」と言われてから、菫のことが愛おしくて堪らないことを。

菫は私がどんな提案をしても絶対に拒まないと思います。
でも、押し付けるのは嫌です。

だから、菫自身に名前を選んでもらおうと思います。

「侍女」もいいと思います。
どんなに立場が変わってもずっといっしょにいられるから。

「姉妹」もいいと思います。
ずっと変わらない絆を得られるから。

「恋人」もいいと思います。
それならキスもできるから。

「ことぶきすみれ」もいいと思います。
彼女の小学校の卒業文集にはそう書かれていたから。


私がそれを伝えると、菫は真っ赤になって一言。


「ことぶきすみれ」



おしまいっ!






最終更新:2012年08月02日 09:10