それから2時間ほど和ちゃんの家でもう少しお酒を飲んで、
夜中から、奥に布団を敷いて3人で眠った。
そのうち私は、寝る前にトイレに行かなかったせいか、
おしっこがしたくなって目が覚めてしまった。
体を起こしたところ、隣にいたはずのお姉ちゃんも、
隣の布団にいた和ちゃんも姿が見えない。
憂「……?」
眠った体で滞留していた酔いが、視界を揺らがせた。
きっと、すぐ戻るはず。
とにかくまずは、トイレに行かないと。
私はどうにか立ちあがって、襖の方へと歩いていく。
肩開きの襖の向こうから、明かりが漏れていた。
廊下を通って、トイレで用をたす。
そして、またすぐ眠ろうと襖を開けて、私は思いとどまった。
憂「……」
わざと少し音を立てて、襖を閉める。
その場にしゃがみこみ、そっと体を回転させた。
背後にあった居間への扉には、いくつものガラス窓が埋め込まれている。
やがてそのガラス窓は、みなぴかぴかと白く光った。
和「何だったの?」
唯「いいの、気にしないで」
和ちゃんとお姉ちゃんのひそめた声。
私に隠れて、何をしているのだろうか。
和「……はい、これでいいわよ」
唯「ありがとう、和ちゃん」
お姉ちゃんがバッグをぱちんと開いた。
和「それじゃあ、寝なおしましょう。……明日に響くわ」
唯「うん、ごめんね」
とんとんと足音が近づいてくる。
私はしゃがんだ姿勢のまま、動かずに待った。
お姉ちゃんと和ちゃんの驚き慌てる姿と、ことの真相を期待して。
静かに開いたドアが、私の方に向かってくる。
憂「おぺ」
唯「あっ、ごめん憂」
ドアは外開きだった。
――――
憂「それで、何してたの?」
鼻のじんじんするのがようやく収まって、私は言った。
唯「いやぁ……」
お姉ちゃんはぽりぽり頭を掻く。
唯「帰ってから話すよ。憂、もう寝よ」
憂「今話してよ。和ちゃんに何してもらってたの?」
落ち着きのない手をつかんで下ろさせて、問いつめる。
唯「その、ちょっとね」
和「話したら? 唯、このままじゃ変な誤解を生むわよ」
和ちゃんも、少し焦れたように言った。
唯「……わかった」
お姉ちゃんはごくりと喉を鳴らした。
唯「あのね、憂」
私は、お姉ちゃんが嘘をつかないように、じっと目を見つめた。
憂「……うん」
唯「実は、さっきね。和ちゃんに紹介状を書いてもらってたんだ」
憂「紹介状?」
和「私の先生への紹介状よ」
和ちゃんが横から言った。
和「この人は性同一性障害だから、手術を受けさせてあげて、っていう」
唯「うん、そう……」
身体が震えて、息を呑んだ。
憂「じゃあ、お姉ちゃん」
唯「うん。決めたんだ」
固く、ぎゅっと、お姉ちゃんが拳を握りしめた。
唯「……男の人になる。男の人の体になって、憂を守るから」
唯「だから……いいよね?」
思わず、頷きかけた。
一人、ソファにちぢこまって座るお姉ちゃんが、なぜか哀れに見えて。
そんなことで即断していい問題じゃない。
哀れむのもおかしな話だ。
私とお姉ちゃんとのことなのに。
憂「……だめ」
深呼吸をしてから答えた。
唯「憂……」
和ちゃんが、何か言いかけて黙る。
なにも言えなかった和ちゃんの目は、悲しそうに伏していた。
憂「お姉ちゃんは、性同一性障害じゃないでしょ?」
唯「……わかんないよ。憂が好きなんだから」
憂「お姉ちゃんっ」
正直に言ってくれないと、お話ができない。
少し強くお姉ちゃんを叱る。
憂「だめだよ、こんな嘘。本当の人たちに失礼だよ」
唯「……だったら」
ささやくように、お姉ちゃんは言った。
ぽつりと、雨が傘に垂れた音がした。
唯「だったら……私たちはどうやって幸せになればいいの?」
唯「どうやったら、憂は妹じゃなくて奥さんだって、会社のみんなに言えるの……」
憂「……」
どうすればいいの、は私のほうだ。
律さんに言われたこととか、
お姉ちゃんを説得する言葉はたくさん用意したはずなのに、
みんな、あつくなった心の中で融けてしまって、もう言葉に戻ってくれそうにない。
唯「みんな……必要もないのに、私たちを平気で踏みにじるんだ」
唯「なのに、私たちだけ誰も傷つけないで、馬鹿正直に、なんて……生きてけないよ」
憂「……けど」
けど。何だろう。
その先の言葉は融けていたか、
それとも涙にぬれた瞳の前で嘘はつけなかったかで、
喉より先に出ていくことはなかった。
憂「おね、ちゃん……」
収まったはずの鼻の痛みが、じんじん復活してきていた。
憂「ごめんねっ」
私はお姉ちゃんの胸に飛び込んだ。
今こうしたいのは、お姉ちゃんのほうなのに。
本当に情けない、
お姉ちゃんの、ただの、妹だ。
唯「……いーよ」
お姉ちゃんは、濡れた手で私の頬に一瞬触れたかと思うと、
きつく私を抱きしめた。
唯「私が悪いんだから……」
お姉ちゃんは本当に苦しそうに咳き込んだ。
唯「ごめんっ……」
和「じゃあ、いいのね?」
唯「……憂」
お姉ちゃんが私の背中を撫でた。
憂「うん……」
和「それじゃ、あとは唯と憂の責任よ」
和ちゃんは眼鏡を畳んだ。
和「私は寝るから、電気消しといてね。唯」
唯「うん。ごめんね、和ちゃん」
和「……平気よ」
扉が開いて閉まって、襖が開いて閉まって、
和ちゃんがいなくなった。
私はお姉ちゃんをひたすら抱きしめる。
もうこの体には触れられない。
愛しくなってしまうのは仕方なかった。
憂「お姉ちゃん……」
しがみついたまま、私はどうしても離れなかった。
唯「ごめんね、憂」
私の体を撫でながら、お姉ちゃんはずっと言っていた。
私は、だんだん心地よくなって、いつの間にか眠ってしまったらしい。
気が付けば布団の中、お姉ちゃんの腕の中、
和ちゃんのセットしたアラームの音を遠くに聞いて、
お姉ちゃんの少し蒸れた汗の匂いを嗅いでいた。
最終更新:2012年08月23日 00:50