「もう。そんな表情したいのは私のほうですよ」

 覗きこむ。
 昨日のあのときと、同じくらいの近さに律先輩の顔がある。

 昨日と同じで、驚いた顔。

 でも、今眼の前にあるのは、眉間に皺が寄っているわけでもなければ唇が強張っているわけでもない……なんてことはない表情だ。

 微笑ましいくらいに、愛しい表情だ。


「――律先輩」


 そんな表情は、どうやら顔を近づけたくらいでは固まったままらしい。
 だから、


「……んむっ」

 私は両手で先輩の頬を挟み込んだ。
 間の抜けた声をあげて律先輩の顔が崩れる。

「ちょ、あずさ……」

「いつまで固まってるんですか、もう」

「あ、うん、ごめん……」

「話、あるんですよね。私ならもう……大丈夫ですから。聞かせて下さい」

「うん……」


 つぶれたままの顔で律先輩は、「話ってほどのことじゃないんだけど」と続けた。


「――で?なんて言ったんだ、律は」

 澪の質問はさっきから矢継ぎ早に感じる。
 順を追って説明しろ、って言ったのは澪じゃないか……誤解されないように、丁寧に話してるつもりなのになあ。

 じゃあなんだ、ちょっと説明を大雑把にしてみようか。



「え、ああ、えーと。『じゃあ膝枕してくんない?』って言った」


「――はあっ?!」



 ……すごい形相で睨まれた。
 なんというか、まあ案の定ではある。省くにしてもタイミングが良くなかった。

 いやいや、でもふざけてるわけじゃなくって、

「そうしたほうがいいと思ったんだよ。お互い緊張しないためにもさ、リラックスしたムードっていうか」

「……そうしたかっただけって気持ちは?」



「……7割くらい?」

 拳骨が飛んできた。


 長椅子に腰掛けた梓の膝に頭を預ける。
 仰向けになると、少し恥ずかしそうな表情の梓がこちらを見下ろしていた。

「どした?」

「いえ、なんで膝枕なのか、とかはもういまさらですけど、恥ずかしいなって……」

「そっか」

 私は昔から澪にやらせてるから慣れっこだけど、梓は軽音部に入るまでこういうスキンシップって経験したことなかったんだろうな。

 ……ふふ、待ってろ、そのうち当たり前みたいにさせてやる。


「……ん」

 もそ、と、梓の脚が小さく動く。
 こつん、と、後頭部に骨の感触。

「……ちょっと硬いな」

 それはたぶん、梓が痩せ型なせいでもあるんだろう。

 でも……きっとこの枕が硬いのはそればっかりが理由じゃない。

「悪かったですね……硬くて。澪先輩みたいじゃなくって」

「お、拗ねた?」

「知りませんっ」

 瞬間、ほんの少しだけ硬さが和らぐ。




 ……緊張、してんだなあ。

 慣れない膝枕をしている状況もなんだろうけど、そもそも私たち……解決すべき問題にまだ触れてもいない。

 それが不安なんだろうな。
 きっと脚だけじゃなくて、まだ全身強張り気味ではあるんだろう。

「……でもさ、梓」

 寝返りを打って、横に。
 梓が小さく、ぴくんと跳ねた。


 目の前にはブレザーの紺色が広がる。
 そして、ぼんやりとした温度。

「り、律先輩……!」

 この体勢じゃ表情は見えないけど……それでも梓の声から困惑した様子が分かる。
 自分でやっといてなんだけど、こりゃ相当きわどいところに顔向けてるな、私……。

 さておき、だ。


「――私はこれがいい。梓のが、いい」



 色んなことがあった。

 心配させて、悩ませて、しまいには泣かせちゃって。


 考えた。

 私はどうするべきなんだ?
 私が一番に優先するべきことは?

 ――憎むよりも先に、悲しむよりも先に、怒りよりも先に、嘆くよりも先に。

 私のために。

 梓のために。


 面倒は無しだ。

 一番大切なことを今一度、確かめよう。



 再び寝返りをうつ。
 少しむすっとした表情の梓を仰ぎ見る。

 そして、言う。たったひとつの言葉に、ぜんぶを包んで。

「梓、好きだよ」

 梓が好きだ。大好きだ。

 それは、何にも代えられない私の気持ち。


 約束だとか、付き合うだとか……結局その必要性は分からない。

 初めは約束なんてないほうがいいと思ってた。
 でも、そればっかりじゃないってことも思い知った。一度は、梓が望むなら約束なんていくらでもしてやる、とさえ思った。

 それでも私の意地は立ちはだかった。
 本当にいいのか、と、自分に問いかけた。
 約束を交わすことで梓にあげられる安心なんて、その場しのぎでしかないんじゃないか。


 ぐるぐる、ぐるぐる。
 気持ちは堂々巡りを繰り返してまとまらなかった。

 ――そう、堂々巡りなんだ。答えなんて出せるはずがない。一人じゃ。

 だから、

「――ね、梓は?」


 ……そんなの。

 そんなの、そんなの!
 決まっている。ずっと変わってない。

 面と向かっては二度、口にした。
 ずっと胸のうちにあった気持ち。

 それが今一度、理屈や理由を考えるより先に、溢れ出す。

「好き――好き、律先輩のこと、好きです!」



 考えていない訳じゃなかった。

 ――私たち、これからどうなるんだろう?

 催促したかった。

 ――何を話すんですか、先輩?


 ……でも、この一瞬ばかりはそんなの、忘れた。
 まるで脊髄反射みたいにして三度目の告白を終えた途端に、気持ちがぐらりと角度を変える。





 ……記憶をさかのぼって、思い出すのはあの日。秋の終わりをその身に感じた、少し前の帰り道。

 律先輩と手を握り合って、私は確信したんだった。
 こんな風に、何を考えるよりも真っ先に出てくる気持ちが――好きだっていう想いが、何より大切なんだって。

 確信はもう一度私のなかで色を帯びる。
 そうだ、ぐるぐると……目が回りそうなくらい分からない事だらけ、自信のないことだらけ。
 でも、そんななかでも確かなものが、絶対に間違いのないことが、ひとつだけあった。

 それは、とてもあたたかくて、強い想いだった。


 ――頬があたたかい。視界が霞む。

 歪んだ視界のそのまま、眼下の律先輩は、私の頬へと手を伸ばす。

「……泣かせちゃうのは二度目だな」

 ぼんやりしたなかでも分かる。先輩は苦笑で私を見ていた。

 ……止まれ。止まれっ。

 私は制服の袖を握った。振り払ってやる。
 昨日の今日で、そう何度も泣いてるところなんて見せるわけには――


「ああこら、乱暴に拭うと目腫れるぞ。じっとしてろ」


 固い生地の袖がまぶたを拭うより前に――霞んだ視界が元通りになる。
 先輩の人差し指が、ゆっくりと私の眼の下をなぞった。

「昨日はなんで、なんて言ったけどさ。ひどい言い草かもしれないけど、今はいいんだ――好きなだけ泣いて。ありがとうな、梓」



 ――頬があたたかい。

 涙の温度は、きっと溢れ出す気持ちとおんなじなんだろう。

 私の想いが、律先輩の想いが、あたたかいから。

 感じられるその温度がただ嬉しくて、幸せで、私の涙は止まらない。


「……終わり?」

「うん」

「……それで、いいのか」

「うん」

「結局なんにも、変わってないぞ」

「分かってる」

「……そうか」

 そこでようやく澪はペットボトルの蓋を捻った。

「……じゃあ、もう私が首を突っ込むことはないよ」

 澪は橋の下を流れる川の、その行く先を真っ直ぐ見つめている。

 腕を跳ねて体を起こした私に目線を合わせようともしない。

「幸せにしてやれよ」

 そのまま澪が呟いた。

「おう、当たり前だ」

「……頼むぞ」

 もう一度短く、おう、と返事。

 ありがとうも、ごめんも……澪には言うべきじゃないと思った。澪はそんなこと、言ってほしくないだろうと思った。
 だから返事以外には何も言わない。その短い言葉に決意を込める。そうすることしかできない。


 蓋の開いたペットボトルは、傾くことなく握りしめられたままだ。


「ほら梓、鼻かめハナ」

 ……決壊した梓の濁流はなかなか止まらなかった。
 ポケットから出したティッシュを渡しながら、ここまでひどいのはこれっきりにしなきゃなと強く思う。

 甲高い音を鳴らして梓は顔からティッシュを離した。

「結局、目も鼻も真っ赤になっちゃったか」

「……誰のせいですか、もう」

 がらがらの声で梓が言う。
 まあ……悪態をつける程度には落ち着いてくれたか。

「止まったか?」

「はい……もう大丈夫です」

 最後に鼻をすすって。

 梓は枯れた声と真っ赤な顔で微笑んだ。

 その様子に私は思わず吹き出してしまう。

「ぷっ」

「な、笑うなんてひどいです!」

 ……泣けと言ったのは私なのにな。確かにそれを笑うなんてひどい話だ。

「あは、悪い悪い……かっこわりーなあ、って思ってさ」

「なっ……」

 謝った矢先に輪をかけてひどい事を言った私に、梓は絶句したみたい。
 違う違う、ただからかってるだけじゃないんだぞ?

「いや、カッコ悪いっていえば私もなんだよ。ほんと、そのせいで梓には……迷惑かけた」

 頭をかきながら梓の横に座る。
 ティッシュなりハンカチなりを出すために一度立ち上がったけど、もう梓は大丈夫そうだ。だからもう一回。

 ごろんと梓の膝めがけて倒れこむ。
 およそカッコイイなんて言葉とは無縁の行為だ。


「約束なんていらない、ってのはさ。私の理想だったんだ」

 また少し硬さのほぐれた感触に頭をあずけて言う。
 それとは別に、ちょっとだけ湿った感じがする気がしないこともないけど……。

「理想、ですか」

 相変わらずのがらがら声が頭上から聞こえた。

「うん。言葉でもなんでも、確かに交わした約束がなくったって何の問題もなくな関係を続けられたら、それってすげえカッコイイじゃんって思ったんだ」

「でも私の気持ちも律先輩の気持ちも揺らいだ……だからカッコ悪い、ってことですか?」

 半分あたり。

「そう、でもさ……そもそもカッコつけようって動機がどうかしてたんだよな。カッコイイ悪いじゃなくて、それが本当に良いことなのか、良くないことなのか。それを考えなきゃいけなかったんだ」

 理想なんかより大切なもの。そういう意味でもそれは自分の想いと、

「……で、それを踏まえて私たち二人にとって約束はあったほうが良いのかどうか。それは私一人じゃ分かんないからさ――梓に訊きたい。約束、欲しい?」

 そしてなにより、梓。

「……きっと」

 梓の想いだ。

「きっと、今すぐには決められないです。それに、私一人でも」

 その言葉は――私に重なる。

「あはは、そっか、梓も……おんなじか」

 私の想いと梓の想いは、そこで重なる。



「はい。だから私も――分かんない、です」


 そう言って梓は笑顔を見せてくれた。



 重なったらあとは、同じ道を歩いていこう。

 そうだ、私たち二人がどうあるべきかは――二人で、考えていこう。








「律先輩」

「どした、梓?」

「さっきは分からないって言いましたけど……私、今、約束の代わりに欲しいものがあるんです」

「へ?何?」

「……今なら、大丈夫だよね……」

「なんだよ、はっきりし――」



「――キス、してください。律先輩」







 梓「約束の話」 おわり



最終更新:2012年10月10日 23:43