「んー、多分悩んでたんじゃない」

「唯先輩が悩んでた……」


「その時はね。あたしが中へ誘導して、ケーキと紅茶を出してあげたんだ。で、嬉しそうにケーキを食べるんだよ、唯の奴。変わった娘だとは思ったけど、きっとギターが滅茶苦茶上手いんだって勘違いしながら、あたし達は好きなギタリストとか質問したんだよな」

「先輩が好きなギタリストって誰なんですか?」

「誰だと思う?」

「うーん、先輩が好きそうな人……」

「ヒントはジで始まるギタリスト」

「ジミヘンですか」

「ぶっぶー!」

「ジェフ・ベック!」

「ぶっぶぶー!」

「ジミー・ペイジ!」

「不正解!」

「えっと、じゃあ」

「実は梓」

「え?」

「唯が好きなギタリストは梓だと思う」

「どういう意味ですか?」

 先輩が好きなギタリストがわたし?
 じ、で始まってないし。

「唯はさ、音楽詳しくないだろ。だから、特定の有名なギタリストは知らなかったと思うんだよ。でも、近くに優秀なギタリストがいた」

「わたしはそんな」

「梓が入ったときも唯は見栄張ってただろ」

「え、そうなんですか?」

「気付いてなかったのか?」

 澪先輩が驚いている。

「最初は緊張してましたから、周りを見る余裕なんてないですよ」

「唯は梓に負けたくないって気持ちもあっただろうけど、尊敬というかさ梓を認めてもいたと思うんだ。梓を見て頑張ってたところあったと思うし」


 合宿のことを思い出す。

 夜中、スタジオから音が聴こえたので覗いてみたら先輩がギターの練習をしていた。

 あたしは先輩の練習に付き合った。

 普段全くといっていいほど練習をしない先輩が真面目に練習していたから、わたしも嬉しくなってしまったのだ。

「梓も唯のギターが好きなんだよな」とは、澪先輩。

「はい」

「相思相愛だな」

「素敵だわー」

 律先輩とムギ先輩の微笑ましいやり取り。


 わたしはそれを見て笑いたかったけど、出来なかった。

 今は泣きたかったから。

「梓、大丈夫か?」

 澪先輩が心配そうな声色で、声をかけてくれた。

 唯先輩がいなくなってから、澪先輩達の前で泣くのは何回目だろう。

 ムギ先輩がわたしの手を握りながら、背中を擦ってくれる。
 その手はとても温かくて気持ちいい。

 唯先輩の手はどんな感触だっただろう。

 思い出そうとしても、その感触は蘇らなかった。

 こんなことなら、もっと先輩と触れ合っておけばよかったな。

 忘れられないくらい力強く手を握っていればよかった。

 そしたら事故だって起きなかったのだ。

 ああ、思い出した。

 唯先輩の頬の感触。

 抱きつくと頬を擦り付けてくる変態さんな先輩。

 でも、それが意外と気持ちよくて、わたしはそれなりに好きだった。

 温かくて柔らかかった、どうして人と触れ合うと気持ちがいいのだろう。

 今のムギ先輩の手もそうだけど、とても落ち着くのはなんでだろう。

 わたしはいまにもでも唯先輩に抱きしめて欲しかった。

 そして、耳元で。

 ――あずにゃん。

 そう言って欲しかった。


「…先輩。律先輩」

「え、なに?」

「続きをお願いします」

 涙はまだ出てたけど、唯先輩が生きている話を聞きたかった。

「……わかった。えっと、どっからだっけ」

「ギタリストのところからだよ」

「えーと、それで唯が突然謝りだしたんだったかな」

「うん。申し訳ないけど、入部の取りやめを言いにきたんだって言ったと思う」

「なんで止めたかったんですか?」

「ギターが弾けないからだって、唯ちゃん言ってたわ」

「それで、どうして気が変わったんですか?」

「演奏を聴かせたんだ、あたし達の」

「演奏を…」

「翼をください」

 わたしを除いた三人全員が同じタイミングで声を重ねた。

 翼をください、わたしも中学校で歌ったから、どこか懐かしく感じる。

「それを聴いた唯の奴、なんて言ったと思う?」

 律先輩がまたしてもクイズを出してくる。

「普通に凄いとか言ったんじゃ」

「あんまり上手くないですね、だって」

「ええ!? そんなこと言ったんですか」

「たしかに初心者だったから、上手くはなかったんだよ」

 澪先輩から謙虚なコメント。

「でも、その頃から唯先輩は唯先輩なんですね」

「そうね。唯ちゃんはいつもどこでも笑ってたわ」

「わたしは律に加えて唯も相手にしなきゃいけなかったから大変だったけど、それでも唯がいて楽しかった」

「唯って案外泣き虫なんだよな」

「ライブの時も泣いてましたね」

 三人それぞれが、思い思いに自分の中で生きる唯先輩の姿を追っている。
 そんな気がした。

「みんな、演奏をやらない?」

 ムギ先輩がそう言った。

「演奏ですか?」

「そう、翼をくださいをやってみない」

「お! いいな、それ!」

 律先輩は明るく応える。

「でも、なんで翼をくださいなんだ?」

 澪先輩が聞いた。

「なんとなく、やりたくなったからじゃ駄目かな?」

「いいだろ、澪」

「うん、いいけど」

 先輩達が席を立ち上がり、楽器の置かれた場所へ移動し始める。

「梓も一緒にやろう」

 澪先輩がわたしを呼んだ。

「はい」


「おっ、じゃあ梓はボーカルもな!」

「ぼ、ボーカルって、そんなの無理です!」

「へーきへーき、別にライブじゃないんだからさ」

 律先輩は無責任にも、そんなことを言っている。

「み、澪先輩がやったほうがいいですよ」

「梓が歌うから意味があるんだよ」と、澪先輩。

「どういうことですか?」

「ドユコト?」

「ソユコト」

 またも律先輩とムギ先輩のやり取り、イントネーションが若干外国人みたいなのは気のせいじゃない。


「ほら、梓」

 澪先輩が真ん中の唯先輩がいたポジションを指し示す。
 わたしは後ろを振り返ってみた。

 誰もいない。

 唯先輩はいない。

 あらためて、この空間からいなくなったことを実感する。

「そうだ。梓、知ってたか?」

 律先輩だ。

「なにをですか?」

「この写真見てみな」

 そう言って、律先輩はホワイトボードに貼り付けられた一枚の写真を指差す。
 その写真は左からムギ先輩、唯先輩、澪先輩、律先輩の順に写った写真だった。

「これがどうかしたんですか?」

「これ、唯が入部した日に撮った写真なんだよ。あたし達がまだ友達にもなってなかった時。ある意味ここから軽音部が始まったんだよ」

「唯先輩、笑顔がぎこちないですね」

 写真の中の先輩は、まだなんとなく遠慮をしてる印象を受けた。
 それでもダブルピースをしてる辺りは流石と言うべきか。

「仕方無いよ、唯が入部するって言ってすぐに撮ったから、律が勝手にわたしのカメラで」
「別にいいだろー、カメラぐらい」

「さあ、早くやりましょう」

 わたしはもう少しこの写真を見ていたかったけど、仕方なく持ち場へ赴き、ギターを手にした。
 本当に歌うのかな。
 疑問に思い、改めて聞いてみる。

「あの、本当に歌わなきゃ駄目なんですか?」
「わたしも一緒に歌うからさ、梓も歌おうよ」

 わたしは律先輩に聞いたのに、何故か澪先輩から説得されてしまった。
 断ったら澪先輩はがっくりするかな。

「あの、笑わないで下さいね」

「笑わない笑わない、なあムギ?」

 既に笑っている律先輩がムギ先輩に振る。

「ええ、笑わないわ、ふふ」

「じゃあ、始めよう。律、お願い」

 わたしの心の準備を待たずに、澪先輩が急かす。
 部室にドラムスティックの乾いた音が響いた。

「酷いです…」

 演奏が終わると、演奏中は我慢していたのか終わってすぐに先輩方が笑い出した。
 澪先輩もわたしに背を向けながら、堪えた笑いを出している。

 はあ、やっぱり歌わなきゃよかった。

「梓ちゃん、ごめんなさいね」

「あ、いえ」

 ムギ先輩にまともに謝られると、許さざるおえない。

 律先輩は未だに笑っている。

 澪先輩は涙まで出てきたのか、目元を指で触っている。

 わたしはギターを下ろし、再びホワイトボードを見ようとした。

 あの写真以外にも何枚か張ってあるから、唯先輩の顔を探してみようと思ったのだ。

 わたしがホワイトボードから写真を選択しようとした瞬間だった。

 部室のドアが開く音がした。

「あ、先輩」


 わたしはそんなことを言った。
 唯先輩が入ってきたように思ったから。

「遅れてすいません、みなさん」

 先輩ではない。

 でも、先輩と少し似ている。

 姉妹だから当たり前か。

 それがなんだか羨ましい。

「みなさん、練習されてたんですか?」

「ううん。歌ってたんだよ」

 憂に一番近いわたしが答える。

「歌ってたの?」

「うん、歌ってた」

 そう、わたし達は思い出の歌を歌った。

 軽音部の始まりの歌。

 それは先輩達の出逢いの記憶。


……

       ☆

 わたしは梓ちゃんと仲直りをしました。

 梓ちゃんの家へ行って、わたしは必死に謝りました。
 梓ちゃんの顔は元気がなくて、それがわたしの罪の意識を一層と強くした。

 それでも梓ちゃんは、無理をして笑ってくれた。

 許してくれた。

 涸れたはずの涙が流れて、わたしの視界を濡らしました。

 梓ちゃんとわたしはいつの間にか抱き合って、一緒に泣きあっていました。

 小さな子供みたいに泣き疲れると、今度は笑いあいました。

 ちょっと前まで悲しいから泣いていたはずなのに。

 なんだか、これまで以上に梓ちゃんとの距離が近くなった気がします。

 ごめんなさい。

 何度も何度もごめんなさいって言いました。

「もう、いいよ」

 梓ちゃんがそう言ってくれたけど、どれだけ言ってもわたしの中の罪の意識は拭えませんでした。

 結局、わたしは楽になりたいだけだったのかもしれません。

 罪を背負うことが怖かったんだと思います。

 人間は誰しも正しいことばかりをして生きているわけじゃない。
 道を間違ってしまうことぐらいある。

 梓ちゃんはそんな風なことを言ってくれて、少し楽になれました。

 二度と同じ間違いは犯さないってわたしは梓ちゃんに誓いました。

 梓ちゃんは正に仏の顔で、わたしの言葉を受け入れてくれました。

 それが、仲直りまで。



 ――ふっと瞼を持ち上げると、講堂一杯に集まった人がわたしを、わたし達を見ているのがわかります。

 今、わたしはステージの上に立っています。

 お姉ちゃんが残した歌詞を元に作った曲。

 わたしはこの曲を歌う為だけにステージに上がりました。

 お姉ちゃんがいなくなってから、軽音部のみなさんは練習をしなかったみたいです。

 そんな日が続いたある日、高校生活最後の演奏機会を前に、さわ子先生が言ったそう。

「後悔しないように、今やれることをやりなさい」

 その時の先生の表情はいつになく真剣だったそうで、その言葉を聞いた澪さんが。

「これ、この歌詞、最後だからさ。……やりたいんだ。みんなで」

 澪さんが持っていたのはお姉ちゃんが残したという歌詞。

 わたしは事故が起きる二日前あたりから、お姉ちゃんの部屋に入ると恥ずかしそうになにかを隠してたのを思い出しました。

 きっと、あれはその歌詞を書いていたんじゃないかって思います。

 それから、わたしのもとにみなさんがやってきて、ボーカルをやって欲しいとお願いをされてしまい、わたしは戸惑いながらもボーカルをやってみることにしました。

 そして、わたしは自分の出番が来てステージに上がっているところです。

 とても緊張して手が少し震えてしまって大変。

 本当にわたしなんかが歌っていいのか少しだけ悩んだ時もありました。

 けれど、お姉ちゃんが見ていた景色を見れたことが嬉しくて、今は自然と笑みが零れてしまうほど。



 これはお姉ちゃんに捧げるラブソング。

 律さんのドラムを合図に曲の伴奏が始まる。

 お姉ちゃん、いまどこにいるの?

 わたしの声は届くかな?

 届いているのなら、耳をすましてわたしの声を聴いてね。

 お姉ちゃんの為に精一杯歌うから。

 どれだけお姉ちゃんが好きか。

 どれだけ大好きか。

 どれほどまでに愛しているか。

 伝えたい想いを声に乗せて歌うから。

 だから、おねがい。

 お姉ちゃんにとどけ。


 事故の日から、わたしの世界は非日常が続きました。

 けど、最近思うことがあります。

 日常ってのは非日常の積み重ねなんじゃないかって。

 明日なにが起こるかなんて誰にも分からない。

 わたしはそんな非日常な毎日を生きていくんだって、そんな風にちょっと背伸びして考えてしまいました。

 そう考えると、一日一日が特別な気がしてきて少し得した気分になります。

 お姉ちゃんがそれを聞いたらどう思うかな。

 首を傾げて呆けるお姉ちゃんの顔が思い浮かぶ。

 ふふっ、お姉ちゃんらしいな。



「憂! 見つかったよ!」

 梓ちゃんが慌しく部室に入ってきました。

 言葉から察するに、どうやら新入部員が見つかったみたいです。

 お姉ちゃん、じゃあまた後でね。

 わたしはホワイトボードに貼られた写真の中のお姉ちゃんに微笑んでみる。

 写真の中のお姉ちゃんは笑い返してくれた。

「うん、またあとでねぇ」

 笑顔で、そんな言葉を言いながら。


              お わ り



最終更新:2010年02月20日 00:44