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 残響が音楽室を駆け抜けていく。
 余韻を拭い去るようにクラッシュに手を添え、深く溜め息を吐いた。

澪「ふぅ……取り敢えず今日はこのぐらいにしておくか」

唯「うぅ~……疲れた~」

紬「うふふ、すぐにお茶を入れるから、ちょっと待っててね」

唯「おぉ~、今日のおやつはな~にっかな~♪」

梓「まだまだ元気じゃないですか、唯先輩」

 アンプの電源を落とし、楽器の手入れを行うみんなを見るとはなしに見る。

律「………………」

 スティックを手の中でくるくると回しながら、そんな光景を一歩退いたところから見る。

律「………………」

 拭いきれない違和感が身体の中を、自身の感覚をちりちりと煽る。
 今まで感じたことのないその正体不明の衝動に、私の心は暗く沈んでいた。

律(やっぱり……私だけ……)

澪「律? どうしたんだ。お茶入ったぞ」

律「あ、あぁ。今行く」

紬「ダージリンのファーストフラッシュが手に入ったから、
  今日はシンプルにスコーンでいただきましょう」

唯「ふぁーすとふらっしゅ?」

梓「ダージリンの春摘みの茶葉って意味です」

 いつもと同じわきあいあいとした雰囲気のティータイム。
 だけど今の私にはそれを素直に楽しめるだけの余裕がない。

澪「律? りーつー」

律「ん、え? 悪い、聞いてなかった。なに?」

澪「だから今日もドラムが走ってたぞって話。
 グルーブのあるドラミングも悪くないけど、
 リズムの要であるお前がもうちょっとしっかりしてないと、
 まとまりに欠けるぞ?」

 聞き慣れた澪のお小言が今日はやけに耳に痛い。

律「……あっはは~、悪い悪い」

 いつもと同じように軽く流す振りをする。
 呆れたような顔付きの澪から視線を外し、ティーカップに注がれた紅い液体をじっと見る。
 そこにはいつもと同じように能天気な笑みを浮かべた私の顔が映っていた。

 煌びやかなネオンで彩られた夜の街を、浮かない顔で歩き回る。
 女子高生が一人で徘徊していたら、間違いなく補導されるような時間。
 そんなもの、お構いなしに私は当て所なく、街を彷徨う。

律(私じゃ駄目、なのか……?)

 夜を歩く自分とは別に、心はあの通いなれた音楽室にあった。

 ぽかぽかと暖かい陽が差し込むあの空間。
 心地好い音楽を紡ぎ、他愛の無いお喋りで仲間達と過ごす楽しい一時。

 今の自分にはひどく不釣合いに思え、それがまた正体不明の感情を刺激する。

 これは、そう───焦燥感だ。

 焦っていた。

 始めはそんなことにも気付かず、徐々に違和感を覚え始めてからも、
 気付いていない振りをしていた。

 だけどそれももう限界だ。

律(唯……)

 絶対音感と類稀なる集中力を持つ、天性の塊ような女の子。
 軽音部に入る前はほとんど音楽に触れたことのないような奴だったのに、
 気付けば驚くべき速さでギターを弾きこなし、ボーカルを務め上げ、
 今では名実共にバンドのフロントマンだ。

律(ムギ……)

 幼い頃から培ってきたピアノの演奏技術と音楽的センスは、
 もはや放課後ティータイムには無くてはならない存在だ。
 事実、楽曲のほとんどの作曲はムギの手によるものだ。

律(梓……)

 あいつが入ってきてから音の厚みが一気に増した。
 ジャズを愛好する両親を持つ梓のロックとは違ったインスピレーションは、
 時に私達には思いも寄らなかったケミストリーを引き起こした。

律(そして、澪……)

 同じものを見て、同じものを聴いて、共に音楽を志した幼馴染。
 誰よりもひたむきに音楽と向き合い、ここまでバンドを牽引してきた女の子。
 独創的な世界観の詞は始めのほうこそ戸惑ったものの、
 今では放課後ティータイムのカラーとして立派に確立されていた。

律「それに比べて、私は……」

 自身を彼女達と比べる。

 何もない。

 何もありやしない。

 『律、またドラム、走ってるぞ』

 聞き慣れた澪の言葉がリフレインする。
 始めはこんな癖、そのうち治るだろうと高を括っていた。
 だが実際は一年以上経っても治ることはなく、
 未だに私のドラムはバンドを引っ掻き回している。

律「くそ……っ」

 治そうと努力はした。
 だが彼女達についていこうと必死になればなるほど、
 スティックを握る手は逸り、リズムは焦燥感に支配された鼓動の如く乱れていく。

 もう自分だけではどうすればいいのか、分からなかった。
 こんな時、独りの力はなんと無力なのかと痛感する。
 だけどみんなにそれを打ち明けることなど出来なかった。

怖いのだ。

 きっとこの不安を打ち明ければ彼女達は我が事のように
 親身になって力になってくれるだろう。
 だけどそれは彼女達の足を引っ張ることに他ならない。

 それは、嫌だ。

 そんなことは許せなかった。

 きらきらと輝く少女達のあの光を遮るような真似はしたくなかった。
 だけど独り、取り残されるのはどうしようもなく怖かった。

 そして今日も心は乱れたまま、夜の街を彷徨い歩く。
 まるでそこに何か素晴らしい解決策があるのを期待するかのように。

 月の光も差さない暗い裏路地へと入る。
 うすぼんやりとしたネオンがぽつんぽつんと奥へと続いていた。 
 一瞬、薄ら寒いものを覚えるが、今の自分が身を置くには
 ぴったりの寂しい場所に思え、足を踏み入れる。

 どこまで続くか分からない細い路をそぞろ歩く。
 どれほど歩いたのか、ふと視線を上げると淡い蒼に輝く看板が目に入った。

律「ジャズ・バー……バードランド……」

 歩き通しで足が疲れていたというのもあったのだろう。
 気付けばふらふらと光に誘われる蝶のようにその店に入っていった。

 格調高そうな重い扉を押し開き、落ち着いた照明に支配された空間に身を滑り込ませる。 
 入り口でチャージ料代わりのチケット代を払い、奥へと歩を進めた。
 店の中では妙齢の男女が落ち着きを払って
 カクテルグラスやビアグラスを交わし、密やかに談笑していた。
 その場違い感ばりばりな雰囲気に一瞬、呑まれながらも、
 ここで引き返すのも癪に思え、カウンターの椅子に腰を掛ける。

律(え~と……)

 メニュー表らしきものに目を走らせる。
 が、見慣れない文字の羅列に気は焦るばかり。

バーテンダー「お客様、今日はどのようなものをご所望で?」

 メニューとにらめっこしていた私を見兼ねたのか、
 目の前のバーテンダーが声を掛けてきた。
 意地を張ってもしょうがないと思い、素直に不慣れなことを告白する。

律「実はこういうお店、初めてで……。お任せしちゃってもいいですか?」

バーテンダー「かしこまりました」

 そう言うや否や、バーテンダーはシェイカーに材料を入れ、
 リズム良く、宙に8の字を描く。

バーテンダー「どうぞ、インマイライフでございます」

 差し出されたグラス手にし、恐る恐る口を付ける。

律「あ、おいしい……」

 爽やかな酸味と甘み、ほのかなお酒の風味が口の中に広がる。
 咽喉の渇きを覚えていた私は、すぐさまそれを飲み干した。

 お腹の中に小さな火が灯ったような感覚。
 そういえばお酒を飲むのなんて初めてだ。
 少しだけ気分が軽くなったような気がして、
 もう一杯おかわりしようとメニューを手にする。

 メニューを眇め見ていたら突然、ステージの方が明るくなった。
 何事かと目を遣るとそこには楽器を手にしたおじさん達がいた。

律(そういえばここ、ジャズバーだったっけ)

 編成はピアノ、ウッドベース、ドラムにサックスなどのブラス隊。
 これぞジャズといった布陣だ。
 一時期、ドラムの研究のためにジャズも聴いていたことを思い出す。
 そんなことを思い出し、ドラムはどんな人かと見てみた。

律(なんというか、あれは……)

 良く言えばファンキー。悪く言えば胡散臭い。
 そんな風体のおじさんがドラムの前に鎮座していた。

ドラマー「1・2、1・2・3!」

 リズムを刻むライドに、ブラスが高らかに被さる。
 深みを感じさせながらも、どこか陽気なメロディに、軽快なリズムが華を添える。

 バディ・リッチの『Straight,No Chaser』

 所々に差し挟まれたアレンジが心地好かった。

 各パートにスポットが当たり、それぞれが思い思いのソロを奏でる。
 インプロビゼーションのソロが終わる度に、客席のあちこちから拍手や喝采が上がる。 
 私もそれに倣って控えめに拍手をしてみた。 

 いよいよドラムにピンスポットの照明が当たり、ドラムソロが始まった。

律(な、んだ、これ……っ!?)

 目の前で繰り広げられる即興劇に言葉を失う。

 トニー・ウィリアムスばりのシンバルレガート。駿馬の蹄の音のような軽快なリズム。

 イアン・ペイスのようなグラヴィティ・ロール。機銃掃射を思わせる抜けの良いビート。

 惚れ惚れするほどのフリーハンド・テクニックの応酬。
 パフォーマンスと実用性を兼ねた、魅せるドラミングの妙味が目の前の空間で繰り広げられ
 ていた。

律「凄い……っ!」

 感嘆の言葉が我知らず零れる。
 惹きこまれていた。
 同じドラマーとして───いや、比べるのもおこがましいだろう。
 ───目指すべき頂点の一つがそこにはあった。

 僅か数分の熱狂が終焉を迎える。
 ホールは奏者を褒め称える拍手で溢れていた。

律「凄い……凄いっ!」

 手が痛くなるまでバカみたく拍手を続ける。
 自分もあんな風にドラムが叩けたら、どんなに気持ちいいだろう。
 私にもあれ程のテクニックがあったら、ぐじぐじと悩んだりなんてしないのだろう。
 そうだ。あの演奏技術があれば───あいつらの足を引っ張ることもないのだろう。

 酒気が血管の中を駆け巡っているのか、身体中が熱い。
 その熱が私の中である一つの決意を促す。
 意を決した私はチェックを済ませ、バーを出た。

律「おじさんっ!」

おじさん「あん?」

律「私を弟子にしてください!」

 重い扉から出てきた見覚えのある顔に、有無を言わさず頭を下げる。

おじさん「……はぁ?」

 訳が分からないといったおじさんの声に下げていた頭を上げて、
 真っ直ぐにその瞳を見据える。

律「先ほどのおじさんのドラム、とても感動しました。
  ……私もあんな風にドラムが叩きたいんです。
  お願いします、私にドラムを教えてください!」

 思いの丈を相手にぶつけ、また深々と頭を下げる。

おじさん「……お嬢ちゃん、未成年だろ。
     そんな奴がこんな時間にこんな場所で何やってんの?」

 痛いところを衝かれる。だが今の私にはそんなこと、関係ない。

律「お願いします!」

 今の私にとって重要なことは少しでもドラムの腕を磨くこと。
 それ以外のことは些末なことだ。

おじさん「……話にならん」

 おじさんがこちらの脇をすり抜けて立ち去ろうとする。

律「お願い、します!」

 それを前に廻りこんで行く手を遮る。

おじさん「ふぅ……」

 苛立たしげに吐き出される溜め息。
 今の自分の行動が非常識極まりないことは承知だった。
 だけど形振り構っていられるほど、今の私には余裕がない。

律「お願い……します……!」

 ただひたすらに頭を下げる。これ以外の遣り方が思い浮かばなかった。

おじさん「……迷惑だ。子供はさっさとお家に帰んな」

 再び脇をすり抜けて立ち去ろうとするおじさん。
 そうはさせまいと廻り込もうとするが、一睨みされ、
 こちらの足が止まっている間に立ち去ってしまった。

 後に残されたのは、遠くから聞こえてくる喧騒とネオンの薄明かりだけだった。

律「………もんか」

 おじさんが立ち去った方向を睨み、自身を鼓舞するように呟く。

律「諦めるもんか……!」

 やっと見つけた光明なのだ。今更諦めるわけにはいかない。

 あいつらに追いつくためなら、今の私はなんだってやってやる。

律「お願いします!」

おじさん「……またあんたか、お嬢ちゃん」

 あれ以来、私はストーカーのようにおじさんに付き纏っていた。
 バーで演奏する日をチェックし、
 何か技術が盗めないかと食い入るようにおじさんの演奏を見て、
 出待ちをして拝み倒す。

 ストーカーのようにではなく、ストーカーそのものだった。


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最終更新:2010年01月22日 15:58