ひょっとしたら、別れが辛いのはわたしだけではないのかもしれない。

 お姉ちゃんもまた、わたしと別れるのが辛いのかもしれない。

 考えもしなかった。

 お姉ちゃんにとって、自分がどのような存在なのか。

 唯一の妹であり、自分の姿形を見ることが出来る存在。

 声を聴き、応えられる存在。

 手を握り、温もりを感じ取れる存在。

 お姉ちゃんからしたら、わたしはたった一人の生きた人なのかもしれない。

 けど、その考えは主観を用いて作られた根拠のない認識という域を出ない。

 その所為か、心の隙間を埋めんとする衝動に駆られる。

 不安でしょうがない。


 わたしはどんな存在なのか。

 瞳を通して、わたしの何を見ているのか。

 わたしには分からない。

 都合よく、人間には言葉という意思疎通する為の表現法がある。

 そして、幸運にもお姉ちゃんと話しをすることが出来る。

 短い言葉だけでも、人はお互いを知ることが出来る。

 そう、だから訊けばいい。

 訊いて、自分の存在を確かめればいいのだ。


「お姉ちゃん」

 依然として、目の前の双眸はしっかりとわたしを見ている。

「わたしのこと好き?」

 わたしは訊かないでいられなかった。

 言葉で、声で、受け取りたかった。

 けど、お姉ちゃんはわたしの意には関せず、

「当たり前じゃん」と言い放った。

 当たり前。

 お姉ちゃんにとって、それは当たり前だった。

 いや、わたしにとってもそれは当たり前だったはずだ。

 長い間離れていた所為か、いつしか当たり前が曖昧模糊としたものになっていたのかもしれない。


「言ったでしょ、わたしは憂に会いに来たって」

 帰ってきて間もなく、お姉ちゃんはたしかにそう言った。

「憂はわたしのこと好き?」

「好き……大好き……当たり前だよ」

 そう、当たり前なのだ。

 わたし達はお互いを好いている。

「ねえ、お姉ちゃん。わたしのこと愛してる?」

「え、うん」

「愛してるって言って」

「ええ~、恥ずかしいよぉ」

 少し仰け反って、そんなことを言った。

「わたしはお姉ちゃんのこと愛してるよ」

 ずっと言えなかった言葉。

 言おうと思ったときには、お姉ちゃんはいなかったから。

 お姉ちゃんは崩した顔を僅かに戻して、微笑む。

 そして、

「愛してるよ、憂」と言ってくれた。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 わたしはたしかに愛されていた。

 そのことがたまらなく嬉しかった。

 わたしは立ち上がる。

 覚悟は決まった。

 悲しむのはもう止めよう。

 泣くのも、もう止めよう。

 わたしはお姉ちゃんの為に笑顔で見送るのだ。

「憂?」

「顔、洗ってくるね」

 さて、今日はなにをしようか。


 朝食後、話し合いの末に海へ行くことになった。

 お姉ちゃんのリクエストだったので、即決だった。

 海へは片道二時間と、近くもなく遠くもなくといったところか。

 泳ぐわけじゃないので、夕方前には帰ってこられるはずだ。

 駅に着くまでに真夏特有の炎天下の中を歩くことになり、気力、体力がそれなりに消耗してしまった。

「あづい……あづい……」

 お姉ちゃんのそんな呟きを聞いてると、余計に暑く感じる気がする。

 本当に暑い。

 けど、この暑さがなければ夏じゃないのだろう。


 海は海水浴に来た人で溢れ返っていて、静かに海を見られる場所を探す為に歩き回った。

 相変わらず、太陽の照りが強烈だったけれど、潮風や海の匂い、澄み切った青空を見ると、そんな不快な思いも気にならなくなる。

 それはお姉ちゃんも同じらしく、暑さをものともせず子供のようにどんどん先に行ってしまうから、追うのが大変だった。

 人気の少ない場所に腰掛けると、横一線に伸びる水平線を境に濃い青と薄い青に別れた風景が視界一杯に映った。

 それはまるで、この世と天国の境界のようだ。

 ざざあ、ざざあと波が寄せては引いていく。

 波音がくすぐるように耳に飛び込んでくる。


「お姉ちゃん。明日ね、お母さんとお父さんが帰ってくるんだよ」

「明日ぁ。タイミング悪いなぁ、もう」

「本当だよね。折角会えたのに」

 お姉ちゃんは膝に肘をたて、両手に顎を載せる。

「でも、最初から決まってたのかもね」

「最初から?」

「そう。つまり、運命っていうのかな。
 わたしが戻ってきたのは、憂に会いに来たからで、それ以外はしちゃ駄目っていうかさ」

 お姉ちゃんはそう言って、蹲るように顔を隠した。

「お姉ちゃん?」

「あづい……」

「うん。暑いね」


 わたし達はその後も海を見ながら様々なことを話した。

 その間にも刻々と時は過ぎていく。

 お姉ちゃんと過ごせる時間が減っていく。

 それでも覚悟が変わることはない。

 けど、何かをしたいと思った。

 やれることをやって、後悔しないように。

 やれることがあるはずだから。


 じっくりと海を堪能して帰宅した後、最後になるであろう昼食を作りながら鼻歌を歌っていると、わたしのものではない響きを持った音が聴こえてきた。

 それはお姉ちゃんの鼻歌だった。

 わたしの鼻歌に自然と重なり、終いにはユニゾンとなっていた。

 そこでわたしは思った。

 お姉ちゃんの声を残すことは出来ないかと。

 わたしは早速お姉ちゃんに提案をしてみることにした。

「お姉ちゃん。お昼を食べたら歌わない」


お昼を食べ終えると、わたしは直ぐにマイク付きのラジカセを探しに行った。

 ビデオカメラは試してみたけど、お姉ちゃんの姿は捉えられなかったから、ラジカセは唯一の録音機材と言っていい。

 ラジカセは最近はめっきり使っていなかった所為で埃を被っていた。

 埃を簡単に払い、カセットテープの差込口を開けてみる。

 中にはテープが入っていなかったので、テープを用意をしなければならない。

 だけど、今からカセットテープを買いに行くのは躊躇われた。

 外に出ている間にお姉ちゃんが消えてしまえば、そこまでだからだ。

 家に保管されているテープを探して、それを使うしかないだろう。

 テープを使ったことは一度や二度だったし、自分で積極的に使ったわけでもないので、テープの保管場所については知らないと言っていい。


 とりあえず、有りそうな場所として両親の寝室の押し入れを探ってみた。

 しかし、押し入れには大量の荷物が鎮座しており、隅々まで探していては時間が足りないだろう。

 やはり、外に買いに行った方が早いか。

 押し入れの前で跪きながら考えを巡らせていると、

「憂、なにをしてるの~」

 お姉ちゃんが寝室の入り口から顔を覗かせていた。

 わたしはまだ録音の企みを教えていない。

「お姉ちゃん、カセットテープの場所知らない?」


「カセットテープぅ? ……ん、ああ、カセットテープね。探してるの?」

「うん、どこかにあったと思って」

「ちょっと待ってて」

 お姉ちゃんは床をどたどたと音を鳴らしながら駆けていった。

 場所を知っているのだろうか。

 わたしも寝室を離れ、足音が向かった先の部屋を覗いた。

 そこはお姉ちゃんの部屋だった。

 机の抽斗の奥をなにやら漁っている。

「あったあったぁ!」

 抽斗から引き抜かれた手には、テープの収納ケースが握られていた。


「よっ。セット完了~、再生っと」

 お姉ちゃんがラジカセの再生スイッチをカシッと押し込む。

 ラジカセがそれに続いてアナログな音を響かせると、テープがたしかに回り始めた。

 スピーカーから流れてきたのは、お姉ちゃんの歌声だった。

「これ、お姉ちゃんの声だよね」

「そうそう。練習のときに録ってみようってことになってさぁ。いつのだっけなぁ」

 歌声と共に聞こえる雑音が、妙に声の存在感を際立たせていた。


「それで、なんで急にカセットテープなの?」

 軽音部の演奏が流れるなか、訊いてきた。

「お姉ちゃんの声を残そうと思って」

「声? 残してどうすんの」

「どうって……なにも残らないのって悲しいから」

「でも、わたしの声ならDVDに残ってるじゃん」

 たしかに過去の学園祭のDVDを観れば、声を聴くことはできる。

 過去と現在では違うものがある。

「今にいるから歌えるものがあるよ。お姉ちゃんが歌っていない歌が」


 カーテンを開けると、陽光が部屋内を舞う埃の姿を浮かび上がらせた。

 日色はもうじきオレンジになるであろう時間。

 時計の針が一秒毎にカチッカチッと音を鳴らして、時を刻んでいた。

 床の片隅にはテープがセットされたラジカセが置かれ、コンセントにはそのプラグが接続されている。

 部屋の中央には歌詞が書かれた紙を持ってお姉ちゃんが座っており、わたしはギターを抱えながら、いささか離れて座っていた。

 今から歌おうとしている曲を、お姉ちゃんは弾いたことも歌ったこともない。

 わたしはこの曲だけは必死に練習をして弾けるようになっていた。

 お姉ちゃんが生前に書き残した歌詞を元に作られた曲だ。

 だから、お姉ちゃんは歌詞を知っている。

 歌は先日のDVDで予習済みである。


「憂、準備オッケー?」

 問いかけに、わたしは深く頷いて応える。

 それを見て、静かに録音のスイッチが押された。

 人差し指と親指に挟まれたピックが、ギターの弦と触れ合って音色が弾き出される。

 刻まれるリズムにお姉ちゃんの歌声が乗る。

 まるで空を自由に羽ばたく鳥のようにそれは優雅だった。

 その声にわたしは自分の声をそっと重ねる。

 たった二人だけのアンサンブルが部屋にこだました。


 不思議な光景、不思議な感覚だった。

 今、この瞬間、この部屋はどこか違う世界に位置している、そんな感覚。

 橙色に近い鮮やかな日の光が部屋に差しこみ、お姉ちゃんがそれを纏いながら歌っている。

 お姉ちゃんが肩を左右に揺らす度に髪はふわりと揺れ動き、瞬きをする度に橙色の光を宿した瞳がチカチカと明滅し、口は歌詞を表現する為にその形を変えていた。

 その一挙一動から目が離せず、自分がちゃんとしたコードを弾いているかさえはっきりとしない。

 それでも楽しくて、嬉しくて、幸せで、自然と笑みが零れてしまう。

 歌うお姉ちゃんも柔和な笑みを浮かべていた。


 ガシッという音に続いて、テープは回るのを止めた。

 それと同時に静寂が部屋に訪れる。

 その中でわたしはほっと吐息をもらす。

 はちみつみたいに甘ったるい余韻が部屋には漂っていて、体中に浸透するように満足感を与えてくれる。

 ギターを下ろし、お姉ちゃんの表情を読み取ろうと試みる。

 けど、お姉ちゃんはわたしに背を向けている為に、表情を窺うことが出来なかった。

「――――ありがとう」

 そんな声が聞こえた。

「お姉ちゃん?」

 それはたしかにお姉ちゃんの声だった。


「ありがとう、憂」

「なにが?」

 感謝の言葉が何に対してのものなのか、わたしには解らない。

「……暑いね。窓開けよ」

 お姉ちゃんがそう言ったので、わたしは素直に従い、窓に手をかけた。

 窓をスライドさせると、生温い風が部屋に入り込んでくる。

「憂、会えてよかったよ」

 背後の声に咄嗟に振り返った。

 歌詞が書かれた紙が、床にひらりと落ちていく。

「おねえ……ちゃん……」

 呟いた声は行き場がなく孤独だった。


 お姉ちゃんが消えた。

 いなくなってしまった。

 とうとう時間が来てしまった。

 でも不思議と、感傷の気持ちはなかった。

 涙も出ない。

 喜びでも悲しみでもない、それ以外のなにか温かい感情が胸に湧き上がっていた。

 その感情は血肉に溶けるように体中に沁みていき、未知の力を漲らせた。


 わたしは床に落ちていた紙を拾い上げる。

 紙には黒い染みが模様のように点在していた。

「お姉ちゃん、泣いたんだ」

 わたしには笑顔でって言った癖に、自分はしっかりと泣いていたみたいだ。

 わたしはそれがなんだか可笑しくて、頬を緩めてしまう。

 紙を折りたたんで机の上に置き、窓の外を眺める。

 夕焼けと影を持った雲とが、絵画のように調和している風景を見せていた。

 わたしはしばらく風を浴びながら風景をぼんやりと眺め、幾何か時間を潰すとラジカセの前に座って、カセットテープを巻き戻した。

 次いで、再生スイッチを押す。

 そして、わたしは録音の結果に耳をすました。



 ――――これから夏が訪れる度に、わたしはこの年の夏を思い出すだろう。

 お姉ちゃんと二人で過ごした、あの一週間を。

 わたしはもうお姉ちゃんのことで泣くことはないと思う。

 それは後ろ向きなものではなく、前向きであり成長だ。

 お姉ちゃんのお陰で過去に手を振ることが出来た。

 忘れるのではなく、自分の中で消化することで未来への道はより確かなものになったと思う。

 けど、そのようなことよりも、わたし達二人にとって最も大事なことは――会えてよかった――その言葉に集約されるのだろう。

 愛する人に会えてよかった。


 夏休みも終わりが近い今日、家に元軽音部の皆さんを集めた。

 居間ではあの日のラジカセに視線が集中している。

 わたしは静かに再生スイッチを鳴らす。

 スピーカーからギターの音が流れ出し、続いてメロディーに乗った声が聞こえてきた。

 その声が誰のものなのか、それを聴いて皆さんがどのような顔をしたかは、ご想像にお任せしたいと思う。


            お わ り




最終更新:2010年03月03日 03:06