カーテンから、朝日が差し込む。
 ……いつのまにか、眠ってしまったのだろうか。
 目はすっきりとしているのに、気持ちは陰鬱だ。
 着替えずに、シャワーも浴びずに眠ったためか眠りが浅い。
 身体は、まったく休めていない証拠だ。
 上着と下着を脱いでシャワーを浴びようと立ち上がる。
 母のピアノが、どうしても厭なものに見えた。

「――」

 希望は、持たないといけない。
 そう、人はいう。
 それを裏切られた時にどんな気持ちになるかなんて考えない。
 だって。
 考えてしまうと、動けなくなってしまうから。
 シャワーの湯が白い肌に弾かれる。
 両親にとって、私という存在はこの弾かれて排水される水のような存在だったのだろう。

 それならそれでいい。
 もう、希望を持たずに済むから。


 シャワーからあがると、斎藤が息詰まった表情をして立っていた。

 こんな顔、今まで見たことがない。
 どんな時でも冷静だった斎藤が、明らかに取り乱している。
 私の姿、下着姿の私にもなにも言わない。
 ただ、急いで出かける準備をしてほしいとだけ。

 部屋からも出ない。
 とにかく、落ち着かない。
 私を時折見ては時計を見る。
 そんな繰り返しを5回ほど続ける。

「どうしたの?」

「……奥さまが」

 ――母が?
 なにかあったのだろうか。興味はないけれど。

「交通事故にあわれまして、現在意識不明ということです。
 ですから、急いで病院へと向かいます。よろしいですか?」

 反論なんてしない。
 琴吹の娘として、いかなければならない。

 母が、どんな人なのかを見てみたい。
 不謹慎ながら、そんなことを考えてしまった。


interlude

「これはひどいですな」 

「でしょう? 中型トラックにぶつかって内臓破裂。全身骨折。出血多量。即死じゃないのが
 不思議ですよ」

 薄暗い白い部屋にいるのは二人の男。
 一人は白衣を着ている。どうやら、医者のようだ。医者はハンカチで汗を拭きながら、レン
 トゲン写真をもう一人の男に見せ、説明している。
 もう一人の男は、黒いコートを着ている。
 冬だから、寒いからだろうと予想できるが。どうやらこの男。夏であっても南国であって
 も、このコートを脱がないのである。
 白髪と黒髪、ツギハギだらけの顔。黒いコート。彼を変人だと思わせるには、十分すぎる条
 件が揃っている。

――というより、実際彼は変人なのである。

 通称『ブラック・ジャック』は、このナリであるながらも医者であるのだから。
 医者といっても、正当なものではない。いわゆる、無免許医だ。
 無免許なのだが、腕は世界一と言っていいほどなのだから始末が悪い。警察の調べにも、
 毎回潜り抜けてしまっている。
 今回、彼がこの桜中央病院にいたのも、一人の心臓病患者を手術するためだったのだ。手術
 料は『一億円』。法外といっても余りある金額である。


「ただし、この患者(クランケ)には、ちと金を払っていただくことになりますがね」

「ブラックジャック! お前はまた患者から――!」

「おっと、先生さん。人の命っていうのはカネよりも重いんだ。命のために、なんとかしよ
 うって人間が、私は好きでね」

 レントゲンの端には患者の名前。
 琴吹。
 その字を見て、ブラックジャックはにやりと嗤った。

「いいでしょういいでしょう。私が勝手にやらせていただきますよ」

 椅子から立ち上がった黒い影は、死にかけの病室へと消えていった。

interlude out


――病院へは家から20分程度だ。
 だが、私にとってそれは永遠にも感じられた。

 母が意識不明?
 それはいつ?
 昨日? 今日?

 なにもわからない。
 ただ、私は走っていた。
 会った覚えのない母の為に、私は知らぬ間に走っていた。
 病室『3402』号室。

「おまえさん。面会謝絶の字が見えなかったのかい?」

「――あなたは!?」

 長身だが、顔はツギハギだらけで白髪と黒髪がミックスした髪。まるで死神のような
 男が、そこに立っていた。


「私かい? 私はブラックジャック。この患者の主治医と言ってもいい。
 もしかして、おまえさんは琴吹の娘さんか?」

「はい。私が、琴吹紬です」

「そうか。
 ならいい。母親のそばにいてやればいい。でもね、このお人は今夜には死ぬ」

 ブラックジャック医師から出た言葉。
 死。
 それは、冷たいもの。
 当たり前のように、彼は言った。

「――お母さん」

 そうして、私は初めて母の顔をしっかりと目にした。

 私が見た母は、半分死んでいた。

 呼吸なんて、本当に虫程度で体中にギブスが嵌められていた。
 もう、それは人の形ではない。
 少なくとも、こんな状態ではすぐに人としての生涯を終えてしまうだろう。
 そんなことは、医学のいろはも知らない私にもわかった。

「恐いかい?」

「――」

「おふくろさんは、今、8割死んでいる。故に、これから手術を行うのだが――そのために君
 か君のおやじさんに言ってもらいたい言葉がある」

「……なんですか?」

「それは――」

 ブラックジャック医師が口を開いたその瞬間。
 病室の扉があき、スーツ姿の男が入ってきた。
 眉の太い、背の高い男性だ。

「……貴方が、ブラックジャックですか。悪評高いモグリ医師の」

 声を聞いて理解した。
 この人が、私の父親だということを。

「悪評高い。それは褒め言葉ですかい?」

「そう聞こえるのならそう捉えるがいいさ。
 とにかく――あなたに妻を触らせることはない!」

「え?」

 父の言うことが、理解できない。
 ブラックジャックのことならば、私も知っている。
 法外な手術料をとり、医師免許も持たない。
 それ故に、医師の間では悪魔と罵られていること。
 だが、その腕前は神の如く。
 治せないものはない、と評される医師だというのだ。
 そのブラックジャックが診ているということは、母は助かるかもしれないのだ。それな
 のに、そのチャンスを、どうして父はフイにしようとしているのだろうか。
 理解が、できない。

「そうですか。なら、そうさせていただきましょうか」

「ああ。出ていってくれ。この病院には名医の山本先生がいるんだ。私はその先生に頼む」

「クク……。その山本先生ってのが私に頼んできたんですがね」

 そういって、ブラックジャックは母を一瞥して、コートを羽織って出ていった。

 残された私と父は、母を眺めることしかできないのだ。

「どうして……」

 声が、漏れる。
 ため込んでいた、不満が。
 抑え込んでいた、感情が。

「どうして、貴方はいつも利己的なんですか!」

「紬。子供が生意気を言うな。山本先生ならきっとなんとか――」

「違う! 貴方はお母さんの命ではなくお金を取った! ブラックジャック先生が、お金を
 たくさんとるから、それに怯えて――なんのための琴吹の金なんですか!?」

「紬!」

「いつだってそう! 貴方は、私がコンクールで大賞を取ったことも知らないんでしょう!」

「――!」

 父の手が上がる。

 ――叩かれる。

 そう、覚悟した。


「……畜生!」

 父がゴミ箱を蹴る。
 彼は、結局私を殴ることができなかったのだ。
 親は、子供を撫でてやった分だけ叱ることができる。
 叱ることしかしない親など、虐待と変わらない。
 いつかは子供が擦り切れてしまう。
 それを、父は本能的に察したのだろう。

「お父さん。
 ――私が、ブラックジャック先生に頼んできます」

「子供に、なにができる」

「もう子供ではいたくない!
 私は――私は、琴吹財閥12代目当主。『琴吹紬』です!」

 走りだした。
 母が、持ちこたえられるまでの時間はわからない。
 だから――私は走った。

「ブラックジャック先生!!」

「……決めたかい? お嬢さん」

 冷たい中に、温かい笑顔がそこにある。

「ええ、決めました。母を、お願いします」

「そうか。よく決断したな。ただし、それ相応の金は貰うぞ。なんといっても、死にかけだ。
 そうだな十億円だ。びた一文まけないね」

「――払います! いつか私が琴吹を背負う身になったら、十億円くらい――!
 だってそうでしょう? たった1人の母親の命ですもの! 十億円くらい安いものです!」



「――その言葉が聞きたかった」



 黒いマントは看護師に指示を出す。
 その瞬間、この病院が一気に騒がしくなる。

 母は手術室へと運ばれ、手術中のランプがともる。

「お父さん。私、決めました。私が、大人になったら絶対に子供にさびしい思いはさせません」

「……そうか。私たちのようにならないように、してくれよ」

「はい」

 ――それから22時間もの間。手術室のランプはともっていた。
 その間、私と父は今までのことを話していた。

 それからの話になるが、母は命を吹き返した。

 そして、今日はブラックジャック医師の診察の日だ。

「……よし。順調に回復している。ただ、まだ動いたりはできないうえに苦しいリハビリがあ
る。それに耐えられるように頑張らないといけませんな」

「大丈夫ですよ。私が傍にいますから」

「そうですか。それなら安心だ。ところで、支払いの件なのだが。いかんせん私は気が短いの
でね。会計はできるだけ早くにしたいのだよ」

「で、でも今は――」

「君は、以前ピアノのコンクールで賞を取ったと聞いた。
 その賞状とトロフィーを譲ってくれ」

 ……絶句した。
 ブラックジャックは、法外な手術料を請求して、なお且つ必ず支払わせている。その彼が、
 どうしてコンクールの賞状とトロフィーなんていう下らないもので――

「理由を知りたいかい? 未来の琴吹財閥当主が、中学生のころにとったコンクールの賞状
なんて、いい値打ちになると思わないか?」

 そんな理由。
 確証のない、後付けじみた理由。
 それでいいんですか、と問う。
 それでいいんだ、と答えられる。


「でも――」

 あの日、私は斎藤に捨てろと命じた。
 斎藤は私の指示に従ってきた。
 故に、今回も――

「紬お嬢様。これを――」

「え?」

 私の手に握られていたのは賞状のケース。
 それと、あの日受け取ったトロフィーだった。

「斎藤――」

「申し訳ありません。命に背きました。どうかなんなりと処罰を――」

 涙が、溢れる。
 どうしてだろう。
 母がいて、父がいる。
 斎藤もいる。
 嬉しい筈なのに……。

「わかりました。では斎藤……。ずっと、私の執事でいてください」 

「今回は、紬に教えられたよ。
 いいや、私は君になにも教えてあげられなかったな」

 病院近くのファミリーレストランで父と食事をする。
 ブラックジャック先生の診察の日は、決まってこれだ。
 ハンバーグ海老フライを口に運ぶと、父がそんなことを言ってきた。

「私は、お父さんとお母さんから何も教えてはもらえませんでした。
 身を守る手段も、音楽も、勉強も――なにもかも、斎藤に教えてもらいましたから」

 ドリンクバーから持ってきたメロンソーダで喉を潤す。
 ……そうだ。私にとって、親というのは斎藤だったのだ。
 私を守ってくれた。
 私を助けてくれた。
 私を見ていてくれた。
 彼がいなければ、私はきっと死んでいただろう。

「でも……。家族と命はお父さんとお母さん、それとブラックジャック先生に教わりました。
 このまま、距離を取ったままでもいいけれど、出来るなら……たまには食事を一緒にしたい
 です」

「……そう、だな。なんとかするよ。可愛い『娘』の頼みだからな」

「琴吹紬ではなくて、紬としてのお願いです」

「紬……。お母さんの怪我が治ったら、三人でここに来ような」

 ――それが、1月のこと。
 高校進学をどうするか。それを、私は考えていた。


「それで、琴吹さんは他の高校に行きたいのね?」

「はい。私は、もうお人形ではありませんから」

「……そう。でも、もう願書の提出をしなきゃならないの。どの学校がいい?」



「私は普通の女の子になれる学校に行きたいです!」


 それが――私が桜高に来た理由。
 電車通学をしたい。
 バイトをしたい。
 部活をしたい。
 友達と遊びたい。
 だから、私は――ここにいる。

 ――永い。あまりにも永い昔話は終わった。
 口の中が乾いてしまった。
 紅茶を飲んで喉を潤す。

「ムギちゃん……」

「え?」

「私たち――親友だからな!」

「ムギ……今度一緒にアイス食べような!」

「私もです!」

「――ええ」

 ほんの少しだけ、予定は狂っちゃったけど。
 私は部活をしている。

 友達もできた。
 かけがえのない親友。

 バイトも始めた。
 憧れのファストフードのお店で。


 私は――普通の女の子になれたかな。


Epilogue

「ねえお母さん! 今日のご飯はなに?」

「今日はハンバーグよ。柚(ゆず)の大好きな海老フライも一緒よ」

「でもお母さんは社長さんなんでしょ? 忙しくないの?」

「何言ってるの真(まこと)。お母さんは二人のお母さんなんだから、ご飯一緒に食べましょうね」

「そうだね! だって家族だもん!」

 大きなお屋敷。
 彼女の立場ならば家事なんて不要だ。
 だというのに、彼女は厨房に立って料理をする。
 我が子と一緒に、食事をするために。

 笑顔が溢れる、家庭が普通なのだから。

 彼女は、普通の女性になれたのだろうか。

 きっと、なれたに違いない。

 ――彼女はもう、お人形ではないのだ。



FIN



最終更新:2010年03月08日 02:49