――その日から、私はドラムの勉強を始めた。
 澪も一緒にベースの勉強を始めた。

 幸い、今年のおとしだまは一切使っていなかったためこれを温存。
 ドラムセットとはいかずとも、電子ドラムを購入しようと考えたからだ。
 ……とはいえ、ドラムとベースではバンドにはならない。
 最低でもギターは必要だからだ。

「ねえ栗山ぁ……。ギター、やらない?」

「ごめんね律。私たちも今年から受験だからね。そういうのはちょっと……」

 そうだ。
 中学三年生とは、それ即ち受験のシーズンなのである。
 私も、澪も例外ではない。
 一緒に、桜が丘女子高に行こうと決めた。
 男にひっかかるのは、もうごめんだからだ。
 福山は、夏にあった陸上の全国大会で優勝していたため高校は三年生になるまえには
 すでにほぼ決まっていた。

 ――そうして、春が来た。
 それぞれの思いは交錯する、春がやってきたのである。


 ――さて、困った。

 国語 34
 数学 45
 英語 2
 理科 56
 社会 89

「恐ろしい偏り方してるな」

 澪の言うこともまったくだ。
 桜高は普通科だ。社会科なんていうモノはない。
 昔から社会は好きだった。戦争だとか、戦という単語に魅かれたからだろう。
 ただ、いかんせん英語が駄目だ。

「This is a pen.」

「僕はペンです」

「違う!」

 まったく理解できない。
 国語も、数学もボロボロだ。
 三年の夏で、これは厳しい。

 そんなときだった。

「ねえ、田井中さんは桜高の特別入試は受ける?」

 担任の山田に、そんなことを訊かれたのは。


 説明を受ける限り、どうやら特別入試というのはこういうことだ。

 身体能力を活かして合格しろ。

 ようするに体育学部のようなものだ。
 スポーツ推薦ともいう。
 勉強が駄目だが、運動ならば得意な私にはうってつけのシステムだ。
 無論、これを受けない理由はない。

「でもな、澪」

「わかってるよ。陸上部で練習しなきゃならないんだろ」

 その通りだ。
 私のように、思いつきで受けるような人間を最も効率よく鍛えられるのが陸上競技だ。私に
 してみれば、澪と同じ学校に行くためなら数ヵ月の練習なんてなんとも思っていない。
 ただ――

「福山君、か」

 そう。
 特待生として東京の学校に行くことが決まっている福山は、勉強をする必要がない。
 つまるところ、彼は8月を以て一般生徒が部活を引退していても、当たり前のように部活を
 することになるのだ。
 その彼と同じ部活で練習をする。これ以上気まずいことはない。

「でもさ。私はもうアイツのことなんかなんとも思ってない。だから――心配すんなって」

 笑って、私は部活の練習に出かけた。


「……」

 福山は速い。
 100メートルを、まるでチーターのように走り抜ける。
 中学生で11秒台フラットをマークする速さは、今や世界中が注目しているジュニアらし
 い。
 顔もよく。頭もいい。
 その上、人望もある。
 下級生の女子が多いのも、福山の存在があるからこそだ。
 私のような途中参加者は、彼女たちの名前を知らないが間違いなく福山が目的だろう。

「福山さんまじかっけー!」

「アイトー!」

 ――それは、女だけではない。
 男にとっても、彼は憧れなのだ。
 ……期待を両肩に背負わされている。

 私には、それが悲しいことにも思えた。


 家に帰ると、澪はエプロンをしていた。
 どうやら両親は出かけたらしい。二人目の弟妹なんていらないというのに。
 聡は澪の手伝いをしている。
 小学5年生のくせに色気づいて、高いところの皿を取ろうとしている。

「澪の方が背、高いのに」

 少し笑う。
 結局は届かずに椅子を使っている。我が弟ながら可愛い奴め。
 体操服を洗濯籠に放り込む。
 鏡に映った自分の肢体を見ると――

「貧相だなあ」

 口から出た、素直な感想。
 澪と風呂に入ったとき、それはもうすごかった。
 バインバインだ。
 揉みしだいて吸収してやりたいくらいに半端じゃなかった。

「先に風呂入るぞー!」

 少し早いが入ってしまおう。
 ……うむ。さすがは澪ちゃん。いい湯加減でございます。


「あれ? ご飯がないぞ」

「何を言ってるんだ。チャーハンはお前の係りだろ」

「え? そうだっけ?」

「澪姉と俺が他のを作ってるんだから察してくれよ」

「なんだと~!」

「聡も私も食べたいんだよ。律のチャーハン。
 略してりっちゃーはんをさ」

 ……ああ。
 なるほど。

「お前たちさ」

「え?」

「それ言いたかっただけだろ」

「……」

 なにも言わないで椅子に座りやがった。
 わかったよ。作ってやるよ。りっちゃん特製キャベツチャーハンを。
 りっちゃーはんを。
 語感がいいな。この言葉。


 それからも、私は練習に励んだ。
 澪は勉強をして、私は練習をした。
 それも一つの努力の形だ。
 同じ目標を目指すのに、同じ努力は必要ないのだ。

「姉ちゃん。はい、アクエリ」

「さんきゅ。――かあ! 旨い!」

 ランニングから帰ってくると、聡は決まってアクエリアスを渡してくれる。
 夏の熱帯夜で絞られた水分が補充されていい気持ちになる。

「姉ちゃん。俺、澪姉も姉ちゃんも大好きだからさ」

 月を見上げて、聡はそんな恥ずかしいことを口走った。

 それ見て、聡は続ける。


「俺が小さい頃、空地で絡まれてたよな。
あの時、姉ちゃんが助けてくれてホントに嬉しかった。俺のピンチに、姉ちゃんはいつだって来てくれた。プールで溺れた時も、自転車で転んだ時も。でもさ、それじゃあ駄目だ。俺はいつまでも弟のままなんだ。……田井中聡は、ずっとずっと、田井中律の弟だけど。子供じゃない。いつまでも守ってもらってばかりじゃあ、俺の気が済まない」

「ハハ、それは前にも聞いたな」

「病院で、初めて思ったんだ。まだ11歳の子供かもしれないけどさ――姉ちゃんも澪姉も、守れる存在に、なるからさ。 たとえ、相手がだれであっても」

 月の光が眩しく感じる。
 今日は満月。人の本心が露わになる日だ。
 だからだろう。
 聡が、ずっと子供だと思ってた弟の姿があんなに大きく見えたのは。

「だな。いつかお前が大きくなったときは、お前が私や澪のヒーローになってくれよな」

「ああ。必ず、さ」

 うん。約束だからな。
 破るんじゃないぞ。お前は、一生私の『弟』なんだから。


 ある日のことだった。

「あれ? 私のシューズがない……」

 陸上部の部室は、そんなに広くはない。
 女子専用という名目のため、とりあえずは整理整頓はなされている。
 故に、ものがなくなるなんてことはない筈だ。少なくとも、ロッカーの鍵を持ってるのは私
 だけなのだから。そんなことは起きない筈だ。
 でも。
 実際には起こっている。
 私のシューズがなくなっているのだ。

「どうした? 田井中」

「ああ、福山か。
 いやさ、私のシューズがなくなってるんだよ」

「どんな色?」

「オレンジ色。私、色を選べる時は基本的にオレンジ色にしてるんだ」


「……へえ」

 含みのある言い方。
 ……まさか
 ありえない。
 でも。
 そんな――

「それは――もしかしなくても、これでしょ?」

 福山は、その手に私のシューズを持っていた。


「え?」

「とぼけないでよ。これ、田井中のでしょ?」

「う、うん」

 どうして?
 福山の目は――私を蔑んでいる。
 私のことが、嫌いな目だ。
 足が震える。
 どうして、私はいつも福山の前では足が震えているのだろうか。

「おいおい福山ァ。まわりくどいことしてんじゃあねえぞ」

「そうだぜ。こいつが福山さんの恋を邪魔してんだから、よ」

「梅原に大貫か。確かにな。こいつは邪魔なんだよ」

 ……耳を疑った。
 福山は、私を邪魔といった。
 手に握られているのは、澪と一緒に選んだシューズだ。
 それを、福山は知っているのだろうか。
 福山が好きな、秋山澪が選んだ靴を――

「……つまんねえな。おい、こいつ好きにしていいよ。俺は問題起こすわけにもいかねえしな」

「……は? 何勘違いしてんの天才君。
 俺らがムカついてんのは田井中じゃなくて、てめえだよ」

 瞬間。梅原の膝が、福山の腹部を蹴り抜いた。


 福山は不意を突かれた攻撃に対応できず、仰向けに倒れる。
 倒れるさなかに、大貫が叩き伏せる。
 福山も抵抗じみた攻撃をするが、それも無駄に終わる。
 二人は、この学校でも札付きの不良だ。いくら運動神経がいいとはいっても、喧嘩慣れして
 いる二人に勝てるわけがない。
 加えてこの状況。一方的に倒れた福山を蹴り、殴っている。
 ――これは喧嘩ではない。
 一方的な暴力だ。 
 こんなことを、認めるわけにはいかない。

「……あ」

 でも。
 止める必要があるのか、と考える。
 福山は私のシューズを、澪と一緒に買ったシューズを盗んだのだ。
 これは彼の報いなのだ、と握った拳を解く。
 ――わからない。
 誰が悪いのか。
 誰が悪くないのか。
 私は福山の邪魔をしている?
 そんなつもりはない。澪は男が嫌いなだけだ。

「答えろ福山! 澪が、私がお前になにをしたっていうんだ!」


「おいこら、訊かれてんぞ」

「……うう」

 梅原と大貫は一旦殴る手を止めて、私の方へ福山を向ける。
 顔は腫れて、立つこともままならない彼は、私が知っている彼ではなかった。
 そこにいるのはボロ雑巾じみた、情けない男だ。

「おまえは……俺の気持ちを知っているのに。
 知っているのに! どうして協力しなかったんだ! 俺の気持ちを――」

「……なにを、言っているんだ? お前は」

「協力しろよ! 好きな男が恋に悩んでるんだから!」

「だとよ。
 要するに、こいつは秋山が自分に振り向くように動かなかったお前を恨んでるんだと!」

 そんな。
 そんな、逆恨みがあるか。
 私も澪も関係ないじゃないか。
 自分の中で都合のいいシナリオ作って、実行されないからって――

「卑怯だ! お前は与えられるのが当たり前になってるんだ! 足が速いから、頭がいいから、だから、世界は自分を中心に回ってなきゃ気が済まないんだ。他者とは、自分に都合のいいものを与えるためにあるんじゃない。どんなことも共有するためにあるんだ!」



 澪は、私にとってそうだった。
 嬉しいことがあったら二倍になって。
 悲しいことがあったら半分になった。
 それが、友達だ。親友なんだ。
 ――期待が重かった? そんな言い訳なんて聞きたくもない。

 私は――そんな人でなしを背にその場を後にした。

 後ろで、人が殴られている音なんて聞こえない。

 それがお前の報いなんだと知れ。


 私にとって、男というのはそういうものなのだ。

 利己的で。

 自分主義で。

 わがままで。

 家に帰ってくると、いつものように澪がリビングでテレビを見ていた。
 まるで、新婚生活みたいだ。
 澪が私の頭を撫でる。
 突然にだ。

「な、なんだよー」

「……なんか、律がさびそうだったから」

 流石は親友だ。
 鋭い。
 話をしてもよかったが、澪が怖がるからやめておこう。
 風呂に入って、澪と母の美味しい食事を食べよう。
 そうだ。普通が一番。

 そんな日常を繰り返していくと――入試の日が近づいてくる。

 二人が、違った形で同じ目標にたどりつく日だ。


 ――試験は怖いくらいにつつがなく終了した。

 100メートル走も幅跳びも、ほとんどすべての競技で私は一番の成績だった。
 つまり合格確実っていうコトだ。
 澪も同じく、5教科の自己採点は合計にして479点。まず落ちない点数だ。
 試験会場で、やたらととぼけた女の子がいた話を澪から聞いた。
 今どき、そんな奴がいるのかと思ったが澪が言うのだから実在しているのだろう。

「さて、これから始まるな」

「……ああ。私たちの高校生活」

「あ、そういえば。スポーツ推薦の人は部活に入らなきゃいけないんじゃ……」

「……やべえ」

 そんなことがあって、高校生活は始まった。
 合格発表の日、帰り道はやっぱり夕暮れの中だった。



「みーおー! クラブ見学行こうぜ!」

「私は文学部に入ろうかなって」

「なんでさ!」

「だって、律は運動部に……」

「いや、部活ならなんでもいいんだってさ。だから軽音部行こうぜ!」

 澪の手をとって廊下を走る。
 憧れの学校を、走る。
 憧れの人の手をとって。
 私は、今でもきっと男まさりだ。
 それでもいいさ。
 私は、私なんだしさ。

「もしかして、あなたが平沢唯さん!?」

 ――あの日、幼稚園で会った子はこの子だったんだ。
 とぼけた子。だけど、私が夢見た理想の女の子像。

 ――まあ、それも関係ない。

 私は――得るものがあったから。
 失ったモノは小さくはないけど。 
 私は、幸せなのだから――それで、いいよ。



「……と、まあこれが私の過去ってやつさ!」

 つまらなくも永い。独白じみた昔話だ。
 みんなは退屈そうに聞いているだろうに、と思った。
 だが、皆は椅子に座って私の話に聞き入っていた。

「それで、福山って人はどうなったんですか?」

「奴なら去年膝を壊して陸上辞めたんだとさ。栗山に聞いた」

 期待を言い訳にして、人を思うがままにしようとしてた彼は、結局は自らの重みに負けたの
 だ。一つのことしかできない彼は、これから先どうやって生きていくのか。
 私には関係のないことだ。興味もない。

 ただ、少しだけ可哀想なのかもな。


「りっちゃんと私って、昔に会ってたんだね~」

「私も、どうやらみんなに会ってたみたいよ」

 紅茶を口に運ぼうとすると、カップにはもう紅茶はなかった。
 いつのまにか、飲みほしていたようだ。

「律、飲むよな」

 澪がお代わりを淹れてくれる。
 笑顔で感謝を言うと、澪は――

「――!?」

「み、澪ちゃんがりっちゃんに――」

「キスしましたですー!!」

「あらあらうふふ」

 そんなこんなで、私は今日も頑張ってるよ。
 お茶とお菓子の香り漂う、いつもの音楽準備室で、さ。


Epilogue

 彼女がつけているのはピンクのエプロン。

 今までは、たまにしか見られなかった。

 あんなに可愛らしい姿を、毎日見られなかった。

 でもさ、今日からは毎日見られるぞ。

 新しい住まいと、新しい生活。

 ――そして、新しい同居人。

 ずっと支えてくれた。

 ずっと支えてきた。

 二人だから――出来るコトだ。

「よっしゃ! 今日はりっちゃーはん作ってやるぞ!」


                                                    FIN



最終更新:2010年03月08日 03:38