この男は、どうして私を虐げるのか。
 それを聞かないと、私はこの男を殺せない。
 だから――

「起きてよ」

 思い切り、男の脇腹に蹴りをいれてみた。
 今までできなかったこと。
 この男に、危害を加えるコトなんて、考えたこともなかった。
 故に、今こそそれを行ってみた。今でないと、きっとチャンスなんて訪れない。

「……」

 のそり、と男は身体を動かして――私たちを見た。
 冷淡に。
 凶器を持った律を見ても変わらず。
 冷酷に。
 男は、口を開いた。

「なんだ。遅かったじゃないか」

 そう、言ったのだ。


「おい、どういうことだよ」

 律が語気を強めて言いよる。
 殺気は、先刻から全く萎えていない。
 いつだって、律は父を殺す気構えだ。
 父はにやりと笑って私を見る。

「――あ」

 その目は、駄目だ。
 身体が動かなくなる。
 父の目を見ると、体が言うことを聞いてくれなくなる。
 それは、きっと一生変わらないコトなのかもしれない。

「澪、俺を殺すつもりかい?」

 優しい口調で言う。 
 まるでアサガオを観察するような眼で、私を見る。
 今まで聞いた事のない調子に、恐怖心は煽られる。
 手が、震える。

「どうして……私を……」

「簡単だ。俺はキミが憎い」


「――てめえ!」

 律を制する。
 包丁が、ほんの少しだけ右手を掠めた。
 痛い。
 その、痛覚への刺激のお陰で――

「もう、私はアンタから逃げない」

 覚悟を、決めることができた。

「もう一度だけ聞く。
 どうしてアンタは私に――」

「もう一度だけ言う。
 俺は、お前が憎くてたまらないからだ」

 頬にビンタする。
 男は私をちらりと見て、また不気味に笑う。
 モニターの光で、律の表情まで見えるようになる。
 それだけ、落ち着いてきているのだろうか。

「おまえは、望まれてできた子供じゃないんだよ」

 呟くように、男は言った。
 私の出生、誰も教えてくれなかった。私の存在のルーツ。
 どうしてこの両親は、こんなにも冷え切っているのか。
 秋山澪は、どうして秋山澪なのか。

 その、話が始まった。


 秋山家は、普通の家だ。
 際立った歴史もなければ、際立って優秀な人間も輩出していない。当たり前の家系だった。
 しかし、私の父は小説家として、その名を世間に轟かせた。

 あらゆる賞を総なめにして、彼の作品を知らないものは日本に存在しなくなった。
 テレビ番組、雑誌の取材。コラム。彼の名前を、メディアが取り上げない日はないと言われ
 たほどに、彼はメジャーな人物になっていった。
 金も、手にすることができた。
 一生遊んで暮らせるほどの金。
 そんな大金といってもことたりないほどの額の金を、彼は弱冠20歳で手にすることとなっ
 た。
 人は、彼に群がった。
 おこぼれを頂戴しようと、彼の知らない人間までもが家の前で親戚だと言って、金の無心を
 するようになった。
 ……彼は、厭になったという。
 当然だ。つい先日まで唾を吐きかけてきた人間が。名前を知っただけで媚を売るようになっ
 たのだ。いつしか彼は、本当の人間がどういったものか。わからなくなっていった。

 心の隙間を埋めるように、金を使った。
 使っても、次の日には増えているのだから、彼は湯水のように金を使って使って、使い倒し
 た。

 ――そんなとき、彼はある女性に出会った。

 それが、後に私の母となる女性である。


 彼女と出会ったのは病院で。
 病院に、暇つぶしに莫大な寄付を行ったら、どういうわけか表彰されたのだ。
 なんてことだ、と彼は思った。
 結局、寄付だとか基金だとかは額が価値を決めてしまうのだ。
 気持ちだとか、行動だとか。そういったことではなくて、やはり金の大きさが重要なのだ、
 と。彼は痛感した。
 感謝されるつもりなんてない。
 ただの暇つぶしに、やってみただけ。
 一流スポーツ選手が、災害地に基金するように、やってみたかっただけなのに。
 それなのに、白い服を着た人たちは彼に拍手と称賛の声を浴びせた。
 だからこそ、普通の服を着た人たちは金持ちが鼻にかかると罵声を浴びせた。
 誰の為だか、わからなくなっていた。

 病院のためなのか、患者のためなのか。わからなくなっていたし、どうでもいいとさえ思っ
 ていた。

 そこの看護師として、病院側(看護士)でありながら彼を軽蔑していたのが――彼女だっ
 た。

 彼女は、彼に対してこう言った。

「人の心は、金では買えない」

 ありふれた台詞だ。
 どこにでもある、綺麗なお言葉だ。
 彼は笑った。
 だったら、人の心で金は生まれるんですかい? と問うた。
 生まれない、彼女は即答した。
 彼は腹を抱えて笑った。
 面白い女性に出会った、と彼は思ったそうだ。
 今まで、この質問をして答えた奴はいない。

 だって、数秒前の自分を否定することになるのだから。
 金以上に重いのが人の心なら、人の心で金は生まれるのか?
 上位互換しないモノ。
 そう答えられる奴なんてそうはいない。
 だから――彼は彼女が気に入った。

 人の心を知るのもわるくないと、病院を立ち去った彼は思った。


 接していくうちに、彼は他人というモノがどういうものなのかを、思い出しつつあった。

 金ではない。
 思いで伝わる関係。
 それを大事に考えた。
 金は大事だけれど、心も大事だ。
 優劣をつけるのではなく、どちらも尊重することで人は生きていられるのだと、彼は結論つ
 けた。
 ……それからだ。
 問題はそれから。
 彼と彼女の間に、子供ができたのだ。

 時の人であった秋山の男。
 マスコミは、彼をハゲタカのように追いかけた。
 彼女の病院にも、それは及んだ。

 心ない行為に打ちひしがれる二人。
 いつしか彼は疲弊しきり――手を出してはいけないモノに手を出してしまった。


 禁忌に手を出した人間を、誰も救ってはくれなかった。

 マスコミはもちろんのこと、親族も、なにもかもが彼の敵となった。

 金も底をついた。

 なにもなくなった。

 あるのは住まいだけ。

 金はないのに、住まいだけは立派だ。

 自分の金で、これも彼の憧れだった家の一括購入で生まれた住まい。

 そのトリガーとなったのは、彼女とその子供だ。

 赦せなかった。

 自分を、こうさせたのはアイツらだと。

 そう、頭の中で納得しようとしていた。

 おかしい、と考えることもあった。

 関係ない。

 もう、あとには引けないのだから。


「だから――俺はおまえが憎い。
 俺の成功を、つぶしたお前がなによりも――」

 勝手な話だ。
 自分の責任を他人に押し付けて、辛いことも、なにもかも自分だけが感じてると思いこん
 で、自分だけが可哀想な人間になった。
 嫌悪しか湧かない。
 目の前で嗤っているのは、人間ではない。

 ……だから。殺すのか?

 それは駄目だ。
 いくら私がこの男にひどいことをされてきたとしても、殺して何になる。
 業を背負うのか。こんな男を殺した業を、馬鹿みたいに感じながら生きていくのか。
 そんなこと、是とする筈がない。
 同じではないか。
 この男と、まったく同じになってしまうではないか。

「ママが、どれだけ辛かったと思ってるんだ」

 愛する人との子供を拒絶されて、他に生きる術がないからこの男の傍にいて――

「あ、れ?」

 おかしい。
 母は、生きられる筈だ。
 看護師をすれば、一人で十分に生きられた筈なのに。
 どうして。私を置いて行けば、辛い想いなんてしなくて済むのに――

 あんな、能面じみた笑顔を浮かべて生きる必要なんて、ないのに。


「あ、ああ――」

 なんて、ことだ。
 母は、私を守っていてくれていたんだ。
 私が生きるためには、どんなことになっても生きるためには、母がはけ口の一つになる
 必要がある。
 殴られても、この男は一線を越えなかった。
 性的な暴行は、一切しなかった。
 それは――母が、いたから――

「う、あ、ああ。あ」

 涙と嗚咽が止まらなかった。
 律は包丁を離して私を抱きしめた。

 男は立ち上がって、どこかへ消えてしまった。

 どこかへ、行ってしまった。

 きっと、もう会うことはないだろう。

 翌日の新聞には、人知れず身元不明の焼身自殺の記事が載っていた。



 それから、私は少しだけ幸せに暮らせるようになった。
 あの男は、結局、死ぬことでしか父親らしいことができなかったのだ。
 最期まで、本当に無意味で惨めな人間だった。人の本質に触れるときになって、死んで
 しまったのだから。

「ママ、もう無理しないでいいんだよ」

「そう、だね」

 母は、私を抱きしめた。
 幼い頃、幼稚園の帰り道に嗅いだ匂いと同じ。
 温かい香り。
 心が、落ち着く香り。
 目をつぶると、体が小さくなったみたいに懐かしい。

「ねえママ。私ね、りっちゃんと同じ高校に行く。桜ケ丘高校。ママと同じ学校に行くよ」

 あそこなら、男はいない。
 女子高を選んだのはそういう理由だ。
 なにより、律を男にとられるのはもう嫌だと思ったからだ。

 ゆっくりと、『私』の時間は流れていった。


「それじゃ! 私も頑張るからなー!」

 桜高の入試当日。律はスポーツ推薦のため、別の会場で試験を受ける。
 もちろん、私は学力試験だ。
 受験票には母の『頑張って』の文字がある。
 去年までだったら、きっと在り得ないことだろう。
 会場に入ると、そこは言葉にし難い緊張感が漂っていた。
 扉の開け閉めの音にも気を配っている、そんな感じだ。

「ぶつぶつ……」

「これはこうで……」

 あがり症の私は、少し気持ちが抑えきれなくなっていた。
 周りの人たちは皆、思い思いの勉強グッズで最後の確認をしているというのに、私はそんな
 ことにも気が回らないほどに、緊張していた。
 なにも変わっていない。
 変わっていないから、律と一緒に歩むんだ。
 そう、決めたじゃないか。
 バンドをやるって。決めたんだ。

 ――だから、こんなところでとまってるわけにはいかない。


「あ! ふええ! 和ちゃ~ん!!」

「なにやってるのよ唯。ほら、泣かないの」

 筆箱が落ちて、拾おうとしたら机に頭をぶつけ、ぶつけたと思ったら鞄が倒れて中身が溢れ
 出す。
 そんな様子が、少し距離を置いた机で繰り広げられていた。
 とぼけた女の子と、メガネをかけた凛々しい女の子。
 あの二人も、親友なのだろうか。

 ……と。
 緊張が、解けた。

 ありがと。名も知らぬ人。
 これで――私は勝てる。

 その日、私は一度も自分を見失わなかった。
 律の笑顔。
 母の笑顔。
 それを思うと、解けない問題なんて存在しないと思った。

 ――そうして、私の高校入試は大成功のうちに幕を閉じた。

「それじゃあ、二人の合格を祝して――」

「かんぱーい!!」

 秋山家で、私たちの合格パーティーが開かれた。
 田井中家のみんなもいる。初めて、私は自宅に人を呼んだ。
 初めて、母の料理を他の人に食べさせることができた。

「澪、りっちゃん。たくさん食べなさいね」

「おお! 澪ママの料理うめー!」

「ホントね。秋山さん、これどうやって作ってるの?」

 温かい家庭。
 温かい食事。
 こうやって、騒がしい秋山家は――これからも続くのだ。

 ベースを持って、母に見せる。
 私は――これできっと有名になるから。

 お父さんみたいに、人の心を忘れてしまわないように。がんばるから。

 律と――二人で。

 これからも、ずっと。


 ――気がつけば、木の葉は落ちていた。

 つまり、どれだけ話していたのかは自分でもわからないくらいだ。
 昔話とはそういうものなのかもしれない。
 話してみると、意外に時間はすぐに過ぎてしまう。
 外は暗くなり、風もやんでいた。

「澪ちゃんは、お父さんいなくなっても大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。私には、ママが――母さんがいるから」

「あれあれ? 言い直さなくてもいいですわよん」

 ガツン、と律を叩く。
 こういう粗野な所は、父に似ているのだろう。
 黒髪は、母譲り。
 でも、つり目は父譲り。
 こういった遺し方も、アリだろう。

「りっちゃんが澪ちゃんに痛い話をするのは……」

「澪が慣れるように、リハビリみたいなもんだな」

「信頼し合ってるんですね」

「――ああ。律、これからもよろしくな。それと、みんなも」

 ――うん。
 私には、友達がいる。かけがえのない。仲間が、いるんだ。



Epilogue

 あの人が帰ってくるまで、あと1時間。

 ピンクのエプロンを着て、晩御飯を作ろう。

 あの人が似合ってると言ってくれたピンクのエプロン。

 それを着て作るご飯は、きっと美味しいだろう。

 でも――チャーハンはあの人に作ってもらおう。

 だって、あの人のチャーハンは美味しいから。

 ほどなくして、玄関から声がする。

 9割方できた食事をテーブルに運びながら、玄関へとかける。

「ねえ、あれ。作ってよ」

 支えた。

 支えてくれた。

 そんな二人の生活は――この言葉を聞いてこそだ。

「よっしゃ! 今日はりっちゃーはん作ってやるぞ!」


                                                   FIN



最終更新:2010年03月08日 04:24