――バンド内の空気は最悪だった。

 淀んでいて、
 濁っていて、
 無意味で、
 無価値で、

 結局、彼らにとって音楽というものは自分の中の『流行り』だったのだ。ベースを弾いてい
 る自分が、カッコいいと思える時期があって、ただ単に、それが過ぎてしまっただけなの
 だ。他人まで巻き込んだ流行。
 彼らにとってしてみれば、たったそれだけのことだったのだ。
 唯一やる気があった千住も、気がつけば練習をしなくなり、私たちのバンドは、自然消滅
 に近い状態になっていった。


 ――なんだったんだろう。

 独り、浴槽で自嘲(わら)う。
 一過性のものだった。
 彼らにとっては。
 でも、私には恒久的なものだったんだ。
 音楽というものは。

 父の言葉を思い出す。

『梓。音楽は、みんなが楽しめるようになって初めて音楽っていうんだ。それを、 決して忘れるんじゃないぞ』

 音を楽しむ。
 だから、音楽だ。
 でも――でも――

「もう、楽しめないよ……パパ……」

 携帯電話が鳴る。

 ――着信は、結からだった。





「ごめんね。私――梓の演奏、聴いてあげられない」





 携帯電話がごとりと落ちる。

 意味が、わからなかった。

 だって、一緒に桜高に行くって。

 私のカッコいい姿見てくれるって。

 ずっと一緒にいてくれるって。

 言ったのに。

 約束、したのに。

 夏の香りがなくった10月。

 私は、たった一人の親友が離れていく声を聞いた。

 西沢結は、11月3日を以て転校する。

 担任が、そんなことを教壇で言っている。
 目の前には、当人である結が座っている。
 教室の視線が、結に注がれる。
 結は頭を掻きながら――

「えへへ、文化祭の合唱コンクール。一緒に歌えないや。ごめんね」

 そんなことを言った。
 私は、なにも考えられなくなっていた。
 だって――私にとって彼女は全てだったから。
 色眼鏡を通してでなくては見てもらえない自分を、本当の意味で見てくれたのは、彼女
 だけだったのだから。

「――梓、ごめんね」

 謝らないで。
 謝られたら、涙が止まらなくなるから。
 謝らないで……。お願い……。

「結。絶対、絶対に私は諦めない。
 私、なにがなんでも、結にカッコいいところ見せる――!」

 結は、にこりと笑って頭を撫でてくれた。
 その姿は、いつもとは逆だった。


「お願い、文化祭の練習して」

 放課後、私は三人を呼び出した。
 場所はいつものスタジオ。
 私が予約したのだ。
 彼らは、どんな顔をしているのだろうか。見ていないのだからわからない。
 でも、きっと怒っているのだと思う。

「あのさぁ。中野、俺ら、お前がミュージシャンの子供だから入れたわけよ」

「ちっとは話題つくりでもしてくれんのかなって思ってたのに、なんにもしないから、やる気
もなくなるだろ。ツラがいいからって、ちやほやされると思うなよ。ゴキブリ女」

 ――違う

「そうそう。お前なんて、中野じゃなかったら誰にも見向きされないんだよ」

 そうかもしれない。でも――

「どーせ、西沢も同じこと思ってるぜ?」

 ――違う。

「私は! 結に見せなきゃいけないの! 結に、カッコいいところ見せなきゃいけないの!」

 お前たちに――

 一過性の流行だけで音楽をしてきたお前たちに――なにがわかる――!!



 もう、逃げたりしない。
 しっかりと、彼らの顔を見て言う。

 でも、彼らはわかってなんてくれなかった。

「おい――」

 荻久保の合図で、高山と千住が私の両手を掴む。
 ――されることを、直感的に理解すると怖気がした。


 暴れる。

 それでも、私の小さな体を、彼らは離してくれない。

 暴れる私に、荻久保は拳を入れる。

 それだけ。

 たったそれだけで、私の意識は刈り取られる。

 それから先は、覚えていない。

 なにが起こったのかもわからない。

 ただ――目が覚めると目の前には男がいた。


「怪我はありませんか?」

 男が問うてくる。
 190センチはあろうかという大柄な男は、執事服を着ていた。
 その姿はどこか見覚えがあって、見知った人のような気がする。
 でも、腹部の痛みに思考が巡らない。

「大丈夫です。腹部の衝撃は大したものではありません。明日には治っていることでしょう」

「……貴方、だれですか?」

 男は、少しだけ天井を見上げる。
 その目は、少しさびしげで――

「私のことは、瑣末なことです」


「――じゃあ、なんで、私を助けてくれたんですか?」

「私は、貴女によく似た人を知っています。
名前に縛られ、名前に固執し、名前に人生を決定される。そんな人を、知っているからです」

「……その人は?」

「もう、羽ばたきました。自らの意思で、自らの翼で」

 男は、私に紙を二枚手渡す。
 スタジオの照明で、顔はよく見えないけれど、白い髪が見えた。
 ――ああ。この人は。

「クレープ屋の、おじさん――」

 男は何も言わずに出て行った。
 でも、結局私は変えられなかったのである。
 彼らを。説得できなかったのだ。


 それから、文化祭の日まで、結は学校を休む日が多くなっていった。
 引っ越し先の学校との手続きや、引越しの手伝いをしているらしい。

 私はというと、少しずつ人の顔を見れるようになっていた。
 結が言ってくれたことを、完全に理解できたわけではないけれど、言おうとしていた
 ことはわかる。
 私は、中野梓は中野でなくてもいいのだと。
 他人がどう思おうと関係ない。
 私は、私なのだから。
 それを、どうして気が付けずにいたのだろうか。
 つまらないことで悩んで、つまらないことで気を落として。
 今となっては、笑いさえこみあげてくる。

 ――そうして、文化祭の日がやってきた。


 ――学校内は盛り上がっている。
 間違いなく、一年の中で最も盛り上がる行事だろうから。
 もちろん、私のクラスも合唱コンクールに対しての思い入れはものすごいものだ。
 だが、私自身は違った。
 結は今日、引越し先に行ってしまうのだ。
 どこかは教えてくれなかった。
 でも、私は絶対に結にカッコいいところを見せると決めたのだ。
 それは――未来の話ではない。
 今日だ。
 今日、見せなくては意味がない。

「……」

 そのためには、合唱コンクールなんて出ている暇なんてない。
 今すぐに、学校を出なくてはならない。
 そも、どうして学校に来てしまったのか。
 結が昨日、電話で言っていた。絶対に学校に行け、と。
 それを守ったのだから、もう私はここに用はない。


「ねえ、中野さん」

「え?」

「行ってきて。西沢さんのところ」

「……でも、合唱コンクールはいいの?」

 引き止められる、と思っていた。
 一年で最も盛り上がるこの行事を抜けるには、誰にも見られないようにと考えていた。
 それは否だった。クラスのみんなが、私に行けと言ってくれている。

 ――なら、答えは一つだ。

 私は、ムスタングを背負って走った。
 行先は、結の家に決ってる。


 どうしようもないくらいに息が荒くなっている。

 それでも、構わない。

 だって、私を変えてくれた人に、会わなくちゃいけないのだから。

 こんなにも、汗をかいて、

 こんなにも、全力で――

 どうして、私は一度も言えなかったのだろう。

 ほんの数秒で言える言葉を、どうして言わなかったのだろう。

 私は――

「ゆいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!」

 家の前、クルマに乗り込む寸前の彼女に向って――

「大好き!!!!!! ホントに、ホントにありがとう!!!!」

 精一杯、叫んだ。

 ギターもなにもいらない。

 音楽に縋っていた自分が馬鹿みたいに思えるくらいに――

 自分の声だけで、叫んだ。


 言葉足らずだ。

 まったく、幼い言葉だ。

 でも、なによりもすばらしい言葉だ。

「あずさああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

「今度会うときは! 最高にカッコいい私を見せるから! その時まで待っててね!!」

 腕がちぎれるくらいに、振り回す。

 涙を、止めることなんてない。

 泣いて、

 泣いて、

 泣き倒した。

 そして、誓った。

 私は、一番カッコいい姿を結に見せてやるんだ、と。

 それからの話をしよう。

 私、中野梓は桜高の入学試験を順調にパスし、入学を決めた。
 結がいなくても、私はこの学校に入ろうと思った。
 次に会うときは、最高にカッコいい私で。と誓ったのだから。

「――あ」

 その桜高で、出会ってしまった。
 最高の演奏に。

 ――最高にかっこいい演奏者に。

 だから、この人のそばで演奏をすれば、きっと私は結に見せられるカッコいい自分になれる。そう思った。

「パートはギターを少し――」

「おお! 唯と一緒だな!」

 ――ああ。
 なんだ。そういうことだったのか。
 結に見せるために、唯に教わる。
 これも、一つの形なのかもしれないな。



 ――夕日は沈み、外は闇色に変っていた。
 意味のない長話だ。
 それを、4人の先輩は真剣に聞いてくれていた。

「結ちゃんか、会ってみたいな~。あずにゃんみたいに可愛いんだろうねえ」

「唯先輩に似てて、可愛いですよ」

 見た目も、よく似ている。
 違うところといったら、音楽の才能がまるでないことくらいだ。
 結は、いつだって音楽の時間は私に頼りっきりだったから。

「梓、私たちもっと練習するよ! 澪! やるぞ!!」

「やっとやる気になってくれたか! よし!」

「やるぞー!」

「ところで、梓ちゃん」

「え? なんですか。ムギ先輩」

「――うーん。なんでもないっ」

 紬は、にこりと笑ってキーボードの位置につく。
 どうやら、これから練習を始めるみたいだ。
 現在の時刻午後6時半。あと30分もすれば先生がやってくるだろう。
 でも、それまでの間は昔のことを思い出しながら演奏してみるのもいいのかもしれない。





Epilogue

 目映い照明。

 それに照らされるのは5人の女性たちだ。

 黒髪の、一番小柄な女性が織り成す音で、その場全ての人間は熱狂する。

 ステージの下で見つめるのは、一人の女性。

 その目にはうっすらと涙を浮かべている。

「梓……。今の貴女は最高にカッコいいよ」

 それを見て、黒髪の女性はにこりと笑う。

 夢を叶えるのに、名前なんていらない。

 借り物の夢ではなくて、黒髪の女性は自分の夢を形にしたのだ。

 彼女の楽屋に置いてあるバックには、10年前、ある男から貰ったクレープ無料券が二枚。

 今でも、綺麗に入っている。


                                                                           FIN



最終更新:2010年03月08日 23:48