さわ子「いいか!お前は虎だ!誰よりも強い虎だ!相手を食ってやれ!お前がこのリングのボスだ!
わかったら行ってこい!」
眼鏡を外したさわちゃんが私に平手打ちをしながら絶叫する。
気合いも入り、リング中央へ。
そこで向かい合って、初めて澪ちゃんが私の目を見た。
思わず誰もが怯むような鋭く冷たい目つき。戦う者の目。
しかし私も負けじと睨み返す。
Eye of the tiger、虎の目だ。気持ちでは絶対に負けない。
そして―
ついに決戦の、ゴングが打ち鳴らされた…
1R
サウスポーの澪ちゃんは、試合が始まると半身になり、右手を腰の辺りまでダラリと下げて構えた。
澪ちゃん得意の、デトロイト・スタイル。往年の名ボクサー、トーマス・ハーンズを彷彿とさせる構えだ。
この階級にしては非常に恵まれた長身と長いリーチがあってこそ出来る代物である。
私は構わず、乱打戦にもちこむためガードを固めて前に出ようとした…その瞬間
さわちゃんから散々注意されていたのにも関わらず、何が起こったのか理解できないほどのスピードでそれは飛んできた。
アゴに、軽い衝撃。
デトロイト・スタイルから繰り出す、超高速の右ジャブ。いわゆるフリッカー・ジャブだ。
このジャブで掻き乱し、隙をついて一撃必殺の左ストレートを叩き込む。これが澪ちゃんのボクシング。
余裕しゃくしゃくの表情で私を見る澪ちゃん。
絶対に、懐に入られない自信があるのだろう。
ふん、何度でも挑戦してやるさ、もう一回だ!
澪ちゃんの右腕がムチのようにしなる。
軽快なステップを踏みながら、ジャブ、ジャブ、ジャブ、マシンガンのようなジャブの雨あられ。
私はそれを凌ぎ、見極め、なんとか中へ入ろうとする。
しかし、そこに合わせるように、カウンターの左ストレートが飛んでくる。
間一髪でガードしたものの、右とはうって変わってとんでもなく重いパンチだ。これは食らったらひとたまりもないだろう。
今は耐えるんだ。澪ちゃんは1RKOを狙ってる、私が出てこなければ、このラウンド後半は必ず前に出てくる。
そこを狙うんだ。
そして1R、残り1分。
案の定、澪ちゃんは倒しにきた。
ワンツーから入り、返しの右フックをぶち込んできた。
さらに左ボディ、ダブルの左フック、右アッパーと流れるようなコンビネーションが止まらない。
そのうち何発かは被弾してしまった、頭が揺れるのを感じる。
けど右アッパーの後、追撃で打とうとした左ストレートを間一髪交わし、全力で左のボディを叩き込んでやった。
初めてのヒット。私は一瞬だけ、澪ちゃんの表情が苦悶に変わるのを見逃さなかった。
やっぱり…澪ちゃんはいつも相手に触れさせもせず倒すから分からなかっただけで、実はそんなに打たれ強くない。
当てれば効く。
それが分かった私は、ボディに照準を合わせたのだった。
実況「運命の1R終了~!
平沢、1R後半の秋山の猛攻を耐えきりました!」
長谷川「意外と平沢選手がいいですね、一発だけですがいいボディを入れてました」
亀田「ああ、あれはええボディやったわ」
憂「お姉ちゃん…頑張って!」
実況「2Rが始まってもジャブからのコンビネーションで平沢を翻弄する秋山!さすが王者、一枚上手です!」
長谷川「だけど…」
亀田「ああ、もろとるのはみんなジャブだけや、キツいパンチは全部しっかりガードしとるで
あれじゃ倒せへんわ~」
実況「あっと、平沢、また左ボディを入れた!強烈なボディです」
実況「手数とスピードの秋山、一発の平沢といったところでしょうか」
実況「また左のボディが決まった~」
長谷川「ナイスボディ!」
実況「無名のチャレンジャー平沢、王者を相手に意外な善戦です」
実況「3Rも手数では圧倒する秋山ですが、要所要所でヒットする平沢の強烈なボディブロー!」
長谷川「これ絶対後半効いてきますよ」
亀田「しゃーオラ行けオラー!」
実況「さらに右の大振りのフックも繰り出す平沢!
秋山も勢いに負けて攻めあぐねています」
実況「4Rが始まっ…おーっと、秋山が仕掛けた!」
長谷川「秋山選手もリズムが上がってきましたねえ」
亀田「早よ倒さなこりゃヤバい思たんちゃうか」
わかっていた。
4R最初の澪ちゃんのラッシュは、左ボディが効いて、嫌がっている証拠だということを。
だから私は待つ。顔面だけは絶対に守りつつ、ボディを根性で耐えて、待つ。
一番威力が高いけど一番隙も大きい左ストレートを。
そら、来た。焦りすぎだよ澪ちゃん。全部さわちゃんの言った通りだ。
私はストレートをかわし、カウンターで左のボディを叩き込む。
うっ、とくぐもった声が、澪ちゃんの口から漏れる。今までとは違う、あからさまな苦悶の表情。
私が続けて右を打とうとした時、澪ちゃんは反射的にボディを庇った。
けどそれはやっちゃいけないよ、澪ちゃん。澪ちゃんのアゴを狙い、思いっきり右フックをぶん回す。
確かに右拳に手応え。ヒットした感触。
澪ちゃんは膝から崩れ落ちていた。
実況「な…なんということでしょう…
平沢の右フック一閃!秋山、ボクシング人生で、初めてのダウーン!」
実況「なんとか8カウントで立ち上がった秋山ですが…足がフラついている!目も虚ろです!」
実況「平沢猛攻~っ!左右のフックを振り回す!危ない危ない秋山危ない!必死でクリンチ、凌ぎます!」
実況「ここで4R終了~っ!秋山ゴングに救われた!
大番狂わせ!場内騒然!このラウンド、無名の
平沢唯が、無敵の
秋山澪からなんとダウンを奪っています!」
5R
澪ちゃんが豹変した。インターバルの間にダメージが回復したのだろう。
怒涛のラッシュを仕掛けてきた。
しかし、今までのラッシュとは違う。
頭から突っ込み、フックを振り回し、ボディを叩き込み、アッパーを突き上げる、がむしゃらな接近戦用のラッシュだ。
デトロイト・スタイルも封印したのか、普通の構えになっている。
これは、澪ちゃんのプライドだろう。
王者は打ち合っても強いと示したいのだ。
向こうのセコンドが落ち着いて攻めろと叫んでいるが、聞いちゃいない。
普段クレバーな澪ちゃんも、生涯初ダウンをとられて完全に熱くなってしまった。
私も燃えてきた。
これは私の望んだ展開だ。
小細工なし、真っ向勝負の殴り合いで勝負をつけようじゃないか。
実況「殴り合い、殴り合い、殴り合い!
なんということでしょう、普段のクレバーなスタイルを捨て去ったかのような秋山の捨て身の猛攻!それに一歩も引かず応える平沢!」
実況「平沢の右が当たったー!しかし秋山もカウンターを当てる!
肉を切らせて骨を断つような…壮絶な殴り合いが既に4Rに渡って続いています!
まさに両者の意地と意地のぶつかり合い!」
実況「この第8Rは、秋山のほうが有効打は多いでしょうか
しかし打たれても打たれても倒れず振り回す平沢、驚くほどのスタミナと打たれ強さ、そして根性です!」
亀田「いや~あいつ、ええ根性しとるわ~!亀田家に入れたろかいな~」
実況「平沢の右が当たる~!秋山、瞼を切ったか、出血が見られます!」
実況「秋山の右も決まった!あっと平沢も出血、平沢も出血!
世紀の大流血戦です!」
実況「ここでゴーング!
第10R 終了~っ!
なんという珍しい光景でしょう
今まで傷一つついたことのない秋山の綺麗な顔が…腫れ上がって変形し、鮮血にまみれています!
しかし対する平沢の顔ももはや原型を留めていない!凄まじい闘いです!」
右目が腫れて、開かなくなっていた。
左目は、物が二重に見える状態(いわゆるダブルビジョン)だった
だけど、意識はしっかりしていた。
アドレナリンが出ているのか、痛みも麻痺していた。
きっと試合が終わったら、死ぬほど痛いだろうなぁ。
そんなことを考える。
11R目のゴングが鳴った。
澪ちゃんと私は、ほぼ同時に飛び込んだ。
交錯する二人の拳
アゴに、腹に、何度も何度も、衝撃。
それでも歯を食いしばり、打ち返す。絶対に引かない。引いてたまるもんか。
しかし、右目が塞がっていたせいか、私には見えなかった。
それまで他のパンチは貰っても、これだけは貰わないようにしてきた左のストレートを、澪ちゃんがカウンターで打ち込んできたのが。
憂「お姉ちゃん!!」
アゴに、凄まじい衝撃。
脳がぐらりと揺れ、視界が暗転し、足が自分の意思とは無関係にぐにゃりと力を抜くのがわかる。
実況「平沢、ダウーン!秋山の左ストレートがついに炸裂ーっ!万事休すか?」
前のめりに倒れていた。何が起きているんだ?ほんの数秒前のことが、よく思い出せない。
「ワン、ツー」
レフェリーがカウントを数える声が聞こえる
そうか、ダウンしたのか、私
「唯ちゃん、もう立たないで、もう無理よ!」
さわちゃんが涙声で叫ぶのが聞こえる。
そうか、もう無理なのか、やっぱり私には、無理なのか…
諦めかけた私の脳内に、昨日憂に向かって言った自分の言葉が蘇える。
「明日、勝てなくてもいい、あの澪ちゃん相手に、最終、12Rまで立っていることができたなら、私がただのゴロツキじゃないってことを証明できる。そんな気がする」
「最終Rまで、何があっても、ボロボロになっても、絶対に立ち続けるって誓うよ」
そうだ、私は誓った。
憂に誓ったんだ。
「スリー、フォー」
立て、平沢唯。憂のため、そして自分を変えるために。
さわ子「!! だめよ!もういいのよ唯ちゃん!」
律「唯…お前、すげえよ…」
紬「唯ちゃん…」
梓「唯先輩…」
和「唯…」
澪「はぁ、はぁ…うそだろ?」
憂「うう、お姉ちゃああん…」
実況「なんということだ、なんということダアーッ!
秋山の左ストレートをカウンターで食らって、なお、立ち上がったあ!
こんなことは初めてです!なんという選手だ!平沢唯!」
客「おい…あいつ、凄くないか?」
客「ああ、澪ちゃんを応援しに来たけど、あいつを応援したくなっちまったよ…」
客「平沢ーっ!頑張れよ!」
客「いいぞ、平沢最高!」
客「唯ちゃ~ん!」
ゆーいっ!ゆーいっ!ゆーいっ!ゆーいっ!
実況「なんと、今まで澪コール一色だった客席から、まさかの唯コール!
平沢、観客まで味方につけました!
スーパーアリーナの大観衆の心を動かしました!」
実況「11R終了ーっ!
息も絶え絶えの両者、勝負は遂に最終ラウンドへもつれ込みました!」
唯「さわちゃ…なんで、なくの?」
さわ子「感動してるのよ…あのダウンから立ち上がった時は鳥肌が立ったわ
あなたの執念に乾杯よ」
唯「そか…さいごまで、がんばる」
さわ子「ええ…」
憂「最後のラウンドだよ…」
憂「お姉ちゃん!やっちゃえーっ!!」
実況「いざ決着の時、最終R、運命のゴング打ち鳴らされた…二人とも飛び込んだーっ!
両者のフックが相打ちだ!
しかし二人とも手を休めない!
意地と意地、執念と執念のぶつけ合い!」
実況「平沢の右フックが当たる!秋山首を振って効いていないというアピールです」
実況「秋山の右!しかし今度は平沢が効いていないとアピールだ!」
実況「あー、しかし秋山の左ストレート炸裂ーっ!吹っ飛んだ平沢!
それでも倒れません!踏みとどまります!」
実況「両者、リングの中央、ノーガード!ボクシングというよりこれはもう喧嘩!ど突き合いだ!
鮮血にまみれ、フラフラになりながらも、最後まで絶対に手は止めない!あと30秒!」
実況「負けられない!どちらもそう思っている!」
実況「倒してやる!どちらもそう思っている!あと15秒!」
実況「引かない、下がらない、殴り続ける!最後まで…
最後までどちらも引きませんでした、今試合終了のゴーング!!」
実況「さいたまスーパーアリーナは総立ち!
無名のチャレンジャー平沢唯、最強のチャンピオン秋山澪を相手に
12ラウンド闘い抜きました、本当に歴史に残る名勝負でした!」
判定結果が出るまで、随分時間がかかった。
それほどいい勝負をしていたのだろうか?
けど、私にはそんなことどうでもよかった。判定なんて聞いちゃいなかった。
ずっと…憂のことを考えていたのだから。
「…以上、3対0の判定をもちまして、勝者、WBA女子世界フライ級…
チャンピオン!あきやま~み~お~!!」
リングアナが勝者の名前を告げた瞬間、リングに人がなだれ込んでくる。
マイクを向けるインタビュアー、焚かれる無数のフラッシュ。
その標的は、チャンピオン秋山澪ではなく、私だった。
「歴史に残る名勝負でした!」
「今の気分は?」
インタビュアーが投げかける質問には見向きもせず、私はただただ愛する妹の名を呼んでいた。
唯コールが巻き起こるスーパーアリーナ、沸きあがるファンの間をすり抜けて、見覚えのある車椅子がやって来るのが見えた。
その車椅子に乗った人物もまた、涙を流しながら狂ったように叫び続けていた。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
「ういー!」
「お姉ちゃん!」
「ういー!」
「お姉ちゃん!」
両者の距離が近づいていく。
…そして
「うい…」
「お姉ちゃん…」
私と憂は互いの存在を確かめ合うかのように、熱い抱擁を交わすのであった
おわり。
最終更新:2010年03月09日 00:09