しかし、澪が部室の戸を開けるとすぐに、充満した薄汚い“声”が唯を包み込んでしまう。彼女のささやかな願いはあっさり裏切られた。

「こんにちは澪先輩、今日は遅いんですね」

(唯先輩から離れろ)

「何やってたんだよー」

(早くこの害虫を駆除しろよ)

「いや、唯が体調悪いから帰りたいっていうんだよ。それで仕方なく」

(空気読めないんだからどっか行けよ。髪結べば可愛いとでも思ってんのか)


「唯も年頃だからな、悩みが多くて疲れてるんだろ」

(白痴の糞チビと違ってな)

「お茶でも飲んで元気出して下さい」

(つうか、さっさと用意しろレズ沢庵。手前の存在意義はそれだけだろうが)

「はいはい。みんなちょっと待っててね。」

(私をメイドか何かと勘違いしてるんだわ。己を知りなさいよ、この牝豚)

……みんな窒素しないのだろうか。あるいはみんなもうとっくに死んでて、大切なものをどこかに置き去りにしてしまったのだろうか。生きた人間は私だけなのだろうか。

「……ムギちゃん、私も手伝うよ」

「あら、唯ちゃんは気にしないで」


湯気をたてるカップ、高級そうなクッキー。

いつもの唯なら迷わずに飛びつくところだが、今の彼女はとてもそんな気分になれなかった。

いまだに律の妄想が醜く崩れた古代遺跡のごとく心の地表にへばりついていたし、何よりこんな淀んだ空気の中で何かを口にできるわけがなかった。

「食べ終わったら練習しますからね、唯先輩」

「……うん、たまにはちゃんと練習しようか」

何気なく言った刹那、唯は律と澪と紬の鋭い目線に貫かれた。彼女達の内部で、何かの機械が素早く計算を始める。

「ええー、唯、裏切るのかよー。ぶーぶー」

(……なんだよ、害虫の肩をもつのか?)

「もっとおいしいお菓子あるのよ。焦らなくてもいいわ」

(唯ちゃん、向こう側に“転ぶ”可能性があるわね)

「いや、唯の言うとおりだ。偉いぞ」

(要注意だな)


……結局澪の鶴の一声で、ティータイムは適当に切り上げることになった。

唯は愛用のギターをケースから取り出すと、ぎゅっと抱きしめる。何も言わずに彼女と共にいてくれるのは、ギターだけなのだ。そう思うと物言わぬギターがたまらなく愛しく感じるのだった。

「何やってんだ、唯」

律が声をかける。同時に明らかに不機嫌な“声”を彼女に突き刺す。

(早くしろよな、ったく)

唯は慌ててギターを手に「仲間」達のもとに向かう。猜疑心が三つ分、彼女の肌をチリチリと焼く。


「じゃあいくぞ、ワン、ツー、スリー、フォー……」

唯は久々に……事故にあい、忌々しい“能力”に目覚めて以来……久々に高揚感に包まれた。彼女はギターと一体になり、ギターは彼女の忠実な腕になる。

高らかに最初のパートを奏で始めた時、ふいに周囲の演奏の音が途切れた。唯のギターの音が行き場をなくして戸惑う。

「ストップストップ。唯、初っ端からズレてる」

「……あ、ごめん」

「まあ、休み明けだし仕方ないよ」

(しっかりしろよな)

(頼むからさ)

“言葉”が焦りとなって唯を苛む。だがこの頃はまだメンバーにも余裕が見られた。“言葉”も半分励ます調子があった。

「じゃー、気を取り直して、ワン、ツー、スリー、フォー……」


だが、次も唯だけがずれた。しかもずれが前よりも酷くなっていた。

「ドンマイドンマイ、次いこ次」

(何やってんだよ、チッ)

(やる気あんのか?)

“言葉”がだんだんと刺々しさを帯びてゆく。唯の顔が急速に熱くなる。真っ赤になっているに違いない。腕もプルプルと震えていた。

(お前の言うとおりにしてやったんだぞ、誠意見せろ)

(なんとかしなさいよ)

(協調性がないんですか?)

梓までもが唯を「無言」で非難し始める。彼女は“言葉”を無視しようと必死だった。落ち着け、私。こんな調子じゃ、ライブに間に合わなくなっちゃうよ。

……私は今でもライブに出たいのだろうか?

三度目。演奏を打ち切ったのは、またも唯だった。

今度は誰も励ましの言葉をかけてくれなかった。代わりに“言葉”が土石流のごとく唯に襲いかかってきた。


(やる気ないなら失せろ)

(迷惑なんだよ、存在が)

(また入院しろ)

(いっそ事故で死ねばよかったのに)

(気持ち悪い顔しやがって)

(精神病院に行け)

(退部しろよ、届けはいらないからさ)

(ウザい)

(キモイ)

(死ね)

「……じゃ、もっかいやって見ようか」

律が思い出したように言う。……何事もなかったかのように。

そう、何事もなかったのだ。会話に登らないということは、何事もないということなのだ。そうして軽音楽部は回り続ける。いつまでもいつまでも。

四度目の演奏が始まる。……唯のギターを除いた演奏が。

唯は無言で大粒の涙をボロボロとこぼしていた。彼女の小さな肩は激しい悲しみで震えていた。声は決してたてない。また容赦なく“言葉”が飛んでくるから。

枯れたはずの涙をそのままに、唯は黙ってギターをケースに戻し、カバンを肩にかける。そのままもう二度と来ないであろう部室から飛び出す。……当然、誰も何も言わなかった。


神様は唯の願いを叶えてくれた。

梓と澪達は仲直りをし、軽音楽部は固い固い結束で結ばれた。

……唯という共通の敵をもって。



……どのくらい歩いただろう。どのくらい時間がたっただろう。

唯は一人、夜の街をさまよい歩いていた。すでに空は闇に支配され、どこからか秋の虫の声がする。

夜の街は数え切れないほどの“声”で満ち溢れていた。仕事帰りのくたびれたサラリーマン、徘徊する薄汚い少年少女、塾帰りの少年などなど。

彼らの醜い“声”はたくさんのガラスの破片となり、容赦なく唯の心の残骸に降り注ぐ。

(うるさい上司、うるさい女房。どいつもこいつも死んじまえ)

(あいつのせいだ。あいつさえいなけりゃ。……いっそ殺してやろうか)

(……ヤクが足りない……)

(何だよ、迎えにきてねーじゃん。死ね、クソババア)

(あずにゃんにゃん!あずにゃんにゃん!)


……止めて。静かにしてよ……。

……幸せだった。

騙され続けていた頃は幸せだった。

騙されているという自覚がなかったから。

真実を知ることで考える葦になるよりも、騙され続けて晩夏のアスファルトでひっそりと佇む雑草のままでいたかった。……

……。

……なら私は雑草になろう。もう一度。

騙されて騙されて騙され続けよう。

足は自然とあの場所に向かっていた。


……あの場所。なかなか変わらない信号機、路肩に止められた大型トラック。

何もかもがあの時と同じに見えた。ひとつ違うのは、警察が作った立て看板が増えた点だけ。危険!接触事故発生地点!

ここから全てが始まったのだ。ならここで全てを終わりにしよう。時計の針が12からスタートして12に戻るように。

目の前を車やトラックの赤いテールライトが流れてゆく。唯の後ろを、学生らしき一団が通り過ぎてゆく。

「……おい、あの子可愛くないか?」

「おお、俺の好み」

(脱がしてえ……)

(ヤリてえ……)

唯の中に、“言葉”と共に裸にされて喘いでいる自分のイメージが流れ込むが、唯は気にも止めなかった。

想像したければ、いくらでもすればいいよ。でも、ひとつ忠告しとく。こっち見ない方がいいよ。

唯はゆっくりとバッグとギターを降ろす。……ちょっと待っててね、ギー太。

唯は口に笑みらしきものを浮かべると、車の流れに勢いよく飛び込んだ。


すぐに慈悲深い大型トラックが来て、唯を綺麗に跳ね飛ばしてくれた。


遠くから聞こえるサイレンのヒステリックな泣き声。野次馬のざわめく声。

唯が自分が「失敗」したことを悟った。すぐ近くにいるトラックドライバーの“声”が聞こえたから。

(慰謝料)

(裁判)

(過失致死)

……まあいい、結果は同じようなもんだ。もうじき“声”とは無縁の世界へ行くんだ。目の前はすでに真っ赤に染まっていた。

野次馬の“声”がガンガンと“鳴り響く”。

(ネタ)

(お宝画像)

(語り草)

……うるさいなあ、静かにしてよ。


“声”が唯の頭を満たし、心の残骸を踏みにじる。彼女の中で何かが音を立てて崩壊した瞬間、幸いにも意識が途切れた。





最終更新:2010年03月10日 01:02