【PM8:53   平沢 唯】

私の知らない彼女がいた。

私の腕を押さえ、私の自由を奪い、私の尊厳を踏みにじったのは、私が初めて見る人だった。

あれが和ちゃんだったとは思えない。
あの時の和ちゃんの目は、私が知っている和ちゃんの目ではなかった。

風が止んだ夜道を少し歩き、私は道の端で膝を丸めて座り込んだ。
壊れた水車は、拭っても拭っても、私の頬に涙を運んだ。

怖かった。
でもそれ以上に悲しかった。
そして申し訳なかった。

和ちゃんが私の言葉を無視するなんて、考えた事もなかった。

でも、今日和ちゃんが私を無視したのは、私が和ちゃんのサインを無視しつづけたからだ。

和ちゃんが私との触れ合いを避けていた事は知っていた。
私はそれについて深く考える事なく、ただ自分が甘えたいというだけの理由で、和ちゃんに触れていた。
それが和ちゃんにとってどれだけ残酷な事かとも知らずに。

私はなんて浅はかだったんだろう。

私がこんなに馬鹿じゃなかったら、和ちゃんはあんな事をしなかったはずだ。
和ちゃんが泣く事もなかったはずだ。
私と和ちゃんの関係が壊れる事もなかったはずだ。

唯「馬鹿!馬鹿、馬鹿、馬鹿!」

私は泣きながら何度も自分の頭をぶった。


明日からどうすればいいの?

私はずっと和ちゃんに頼りきって生きてきた。
私はバカだけど、いつかそれが終わるのはわかっていた。
でもそれが今日だとは思わなかった。

こういう時……どうにもならない八方塞がりの場所に私が追いやられた時に、私が真っ先に頼るのは和ちゃんだった。
それほどの人を、私は不用意に苦しめた。
心をズタズタに引き裂いてしまった。

きっと和ちゃんは、今自責の念で押し潰されそうになっている。
和ちゃんは他人に厳しいけど、何よりも自分に厳しい子だ。

和ちゃんに会うのは怖い。
でもなんとかしてあげたい。
それがまた和ちゃんを苦しめるかもしれない。

このループから抜け出すにはどうすればいい?

誰か頼れる人。
和ちゃん以外で、私が今頼れる人。
いや、頼れなくてもいい。
せめて、私の気持ちを理解して、共有してくれる人が欲しい。

つくづく私は甘ったれた人間だ。
わかっていても、人をアテにする事をやめられない。

喧嘩をした事のない私は、こういった事態の解決策を何も知らなかった。


喧嘩。
そう、これは喧嘩なんだ。
澪ちゃんとりっちゃんも、今日喧嘩していた。

私は急いで携帯電話を取り出した。
5コール目で、りっちゃんは電話に出た。

律「もしもし唯?なに?」

りっちゃんの声のトーンが低い。

唯「りっちゃん……」

律「おわっ!なに?泣いてんのかお前?」

唯「和ちゃんと喧嘩しちゃったよ……」

律「喧嘩?お前と和が?なんで?」

どう説明すればいいんだろう。

唯「言えない……」

律「なんだそりゃ……」


唯「うぅ……」

律「あー……よくわかんないけどさ、仲直りすりゃいいんじゃねえの?」

唯「それがどうしたらいいかわかんないんだよ……」

律「まあ……そうだよなぁ。
   私も澪と喧嘩……っていうか、変な感じなんだよな。わかるよ、その気持ち」

唯「……りっちゃん達はなんで喧嘩になったの?」

律「わかんない」

唯「え?」

律「いや、本当にわかんないんだ。
   なんでか知らないけど、澪の奴私に関わってほしくないみたいなんだよな」


唯「……りっちゃんが何かしたからじゃない?」

律「おいおい心外だなー。
   それが全く心当たりがないんだよ。
   本っ当に何もしてないんだよな。
   原因がわからないから私も仲直りのしようがなくて困ってんだ」

唯「そうなんだ……」

律「まあ、そういう喧嘩もあるんだ。
   唯のほうはまだ原因がある喧嘩みたいだし、なんとかなるんじゃね?」

唯「なんとかなるのかな?でも、どっちが悪いとかじゃないんだよ?
   お互いに謝ってどうにかなるって事でもなさそうなんだよ……」

律「……はぁ」

唯「私も和ちゃんも怒ってるわけじゃないんだ。
   ただ、元通りになるのは難しそう……」


律「なんか……けっこう深刻な感じか?」

唯「うん」

律「そっか……。まあ最後は時間が解決してくれるよ」

そうかな。
私は今日の事を忘れられそうにない。
もし私が忘れても、和ちゃんは一生今日の事で自分を責める気がする。

唯「りっちゃんは?澪ちゃんが怒ってるなら、澪ちゃんのお怒りが鎮まったら仲直りできるんじゃない?」

律「原因がわからないから、鎮めようがないんだよ……」

唯「じゃあ聞いてみればいいじゃん」

律「え?いや……まあ、そうなんだけどさ」

唯「りっちゃんの意地っ張り」

律「うるせえよ!お前もメソメソしてないで、仲直りしとけよ!」

私は何も答えなかった。


律「私も澪にメール入れてみるからさ。元気だせよ。じゃ、また明日な」

唯「うん。ありがとうりっちゃん」

そこで私は電話を切った。

私と和ちゃんは仲直りできるんだろうか。
多分、元通りになるのはもう無理だ。
壊れたものを完璧に直せるのは、神サマくらいだ。
人間の私にはできない。
どんなに頑張っても継ぎ接ぎが見えてしまう。
その継ぎ接ぎのある修理にも、相当な時間を要するだろう。

私と和ちゃんの進学先は違う。
高校を卒業するまであと3ヶ月しかない。
私達に残された時間は少ない。

結局私は、和ちゃん無しで生きていくしかないのかもしれない。

見上げた空は、浮かんでいるのが不思議なほど重い雲で覆われていて、星一つ見えない。
あるいは私が風を身に纏えば、この雲を吹き飛ばせるのかもしれない。

【PM9:37】




【PM11:42   秋山 澪】

夜は更けていたが、律の部屋でくつろぐ私に、睡魔は襲ってこなかった。
それどころか、やけに目が冴えている。

なぜ今まで気づかなかったのか、理解に苦しむ。

私の妄想は、既に行為が始まってからのものだった。
どうやって律が私に迫ってくるのかは、そこに含まれていない。
なぜなら、私は「私に欲情した律」を知らないからだ。

という事は、律も同様に、「律に欲情した私」なんてのは知らないわけだ。

私は和の相談に乗りながら、唯の気持ちばかり考えていて、和の気持ちを考えた事がなかった。

つまり、「私が律に欲情したら、私はどう思うのか。」「律はどう思うのか。」

この二つの問いが、私の頭からすっぽり抜けていた事に、私はようやく気づいた。

そして、最初の問いの答えを、私は既に知っていた。

律「そう言えばさ、澪が来る前に唯から電話が来たんだけど、唯と和、喧嘩したらしいぜ」

私が避けていないと知った律は、今日の私の理不尽な振る舞いの理由をまだ聞いていないのにも関わらず、すでに元の陽気を取り戻していた。
胡座をかいてシャープペンをドラムスティックに見立て、オーディオから流れるマット・ヘルダースの攻撃的なドラミングに合わせて、机の上の参考書をトントンと叩いている。
その表情はいつもの律だった。

澪「あの二人が?珍しいな」

律「だよな。しかもけっこう深刻みたいだよ」

あぁ……和は我慢できなくなってしまったのか。
多分、唯を押し倒して、唯がそれを拒んだんだろう。
和に「唯は拒まないかもしれない」なんて言うんじゃなかったな。
なにしろ唯は、今の私と違って、昨晩しっかり睡眠をとっている。
まともに頭が働いてれば、そりゃ拒むに決まっている。
おまけに、唯はどこか浮き世離れしたところがあり、私みたいな俗っぽい考え方をするわけがなかった。


律「まあ、あの二人には親友のままでいてほしいよなー。
   あ、澪、なんか飲む?」

唯と和とは対照的に、無事私と仲直りを果たした律は、すっかり上機嫌だ。

和は結局唯を押し倒してしまったが、私に比べたら利口だった。
少なくとも、和の中には「我慢」という選択肢があったのだ。

澪「なんでもいいよ」

律「そう?じゃあなんか適当に持ってくるよ」

そう言って律は部屋を出ようとした。

私はベッドから立ち上がるなり、律の手をとった。


律「ん?どした?」

私は何も答えずに、律の手を握る力を強めた。

律「……はは、澪の手はほんとでっけーよな」

軽口を叩きながらも、私を見る律の瞳に宿る色が変わっていくのがわかった。

律は私の変化に敏感だ。
しかし、それは「律の知っている私」という範疇においての話だ。

今、律の目の前にいるのは、律の知らない人間だ。

律「なに……?どうしたんだよ」

律の瞳には、困惑と不可解の色が広がっていった。

私は構わず、律に顔を近づけた。


今日一日妄想をしていた事は、無駄ではなかった。
おかげで私は罪悪感を飼い慣らす事ができた。

律はまだ気づかずに、私の瞳を覗き込んで、必死に私の意図を見破ろうとしている。

和と違ってそれを楽しんでいる私は、きっと死んだら地獄に落ちるか、ろくでもないものに生まれ変わるんだろう。

私と律の距離は、律の吐息が私の鼻先にかかる程に縮まっていた。
そこでようやく律は、目の前にいる人間の意図を知ったようだ。

口を半開きにして浅く息をする目の前の律は、私の妄想の中の律より、ずっと官能的だった。

もうすぐ一日が終わる。
日付が変わる頃、私と律はどうなっているんだろう。
私はどこまでいっているんだろう。

私が律の唇の感触を堪能し始めると、部屋の窓がかたかたと鳴った。
12月14日の風は、また吹き始めたようだ。


【PM11:59】    完







最終更新:2010年11月27日 21:15