緩みがちだった表情を改めて、突然の来客に視線を向けます。

憂「ど、どうしましたか?」
紬「もしかして……お邪魔だった?」

紬さんの台詞にどきっとしました。
「そんな、まさかあ」笑い飛ばそうとしたところを紬さんの真剣な瞳に見据えられて失敗し、思わず口をつぐんでしまいます。紬さんがベッドの縁に腰かけてこちらを覗き込んできます。


紬「憂ちゃん、本当はもうだいぶ具合がよくなってるんでしょ」
憂「……どうしてそう思うんですか?」
紬「顔つきが元気そのものだもの。頬がちょっと赤いのは別の理由かしら?」

紬さんに悪戯っぽくそう言われて、ああ、この人にはもう全部見透かされてるんだなと確信しました。そういえば紬さんは「そういう話」を喜んで聞く人だって、梓ちゃんが話してたっけ。

憂「その」
紬「?」
憂「……相談に、乗ってもらえませんか」

紬さんは終始ニコニコしたまま、ええと快諾してくれました。私はかけ布団を思いきり引っ張り上げて、躊躇いがちに話しはじめます。


……

律「わー! 唯、落とす落とす!」
唯「ふえっ? あ、あ、ああーっ」

積み重ねたお皿が宙を舞い、床に激突する瞬間。澪ちゃんが華麗な動作でお皿を掴み取りました。りっちゃんと私で澪ちゃんに大きな拍手を送ります。

唯「すごい、すごーい! ピエロみたーい!」
律「澪、やるなぁ! もう一回やってみせてよ!」
澪「だ・れ・が、やるかあー!」

澪ちゃんの見事なげんこつを受けて、私たちは料理を再開しました。包丁の握り方をあずにゃんに教えてもらっていると、後ろからなにやらひそひそ話が聞こえてきます。


律「なあ……やっぱり唯をキッチンに立たせるのはさ」
澪「色々と問題かもな。私、今度という今度は皿を割らずにいられる自信がない」

むう。なんだかわりと酷いことを言われてるような。
思わず「そんなことないよー!」と反論しようとしたときでした。

梓「先輩、危ない!」
唯「え?」

包丁の先端が私の人差し指にぷすり、と突き刺さりました。

律「あ」
唯「あ」

キッチンの空気が凍りつきます。人差し指からは血がたらり。私の背中からは冷や汗が、たらり。
澪ちゃんが顔面蒼白で頭を抱えます。

澪「い、……いやああああー!!」
しゃがみ込んでしまった澪ちゃんをりっちゃんがなだめました。
律「ちょっ、落ち着け澪! 唯、こっちはいいからお前は早く手当てしてこい!」
唯「り、りりりりょうかいしましたあ!」


私は慌ててキッチンから飛び出します。去り際にりっちゃんが私の背中に向けて叫びます。

律「ついでにムギも探してきて!」

ムギちゃん……? そういえばどこ行っちゃったんだろ。「あいよー」と返事して私はリビングに走りました。
風邪薬のありかを知らない私が当然消毒液のありかを知るわけもなく、ムギちゃんの姿も見当たらなくて、仕方なく憂の部屋に足を運ぶことにします。今日だけで何度あの部屋に行ったかわかりません。


階段を上がるとムギちゃんの話し声が届いてきました。
唯(あ、ムギちゃんいた。でもどうして……)
憂の部屋にいるんだろう?
不思議に思いながらドアの前に立つと、よりはっきりとした声が聞こえてきます。ムギちゃんはどうやら憂とお話しているみたいでした。二人とも何を話しているんだろう。

唯「ねーねー二人とも、一体何を……」
紬「つまり憂ちゃんは、唯ちゃんとキスがしたいのね?」

Yeah?


なんと……今ムギちゃんは、なんとおっしゃいました?

憂「そういうことです……」

憂も肯定しちゃってるし! えと、えとえと、これって一体どういうことー!?
私は無意識に胸の前で両手を合わせました。

唯「あいたーっ!」
紬「!?」
憂「お姉ちゃん!?」

人差し指に激痛が走り、自分でも驚くくらいの大声を発してしまいました。ムギちゃんがものすごい速さで部屋から飛び出してきます。涙目の私の顔面を捉えて、

紬「唯ちゃん、今の話……聞いた?」

必死の形相でそう訊ねてきます。痛む指をくわえたまま、私は否定の態度を示しました。

唯「聞いてない、聞いてないよ!」
紬「本当に? 嘘ついたらお菓子はなしよ?」
唯「うーん……聞いちゃったかも……」

弱いなあ私! せめてもうちょっとだけ粘れないかな!


紬「なんて最悪なタイミングなの……」

ムギちゃんが腕組みをして溜め息をつきます。部屋からすすり泣く声が聞こえてきたのは、そのときでした。

唯「うい――?」

今のって、憂の泣き声? 私はムギちゃんを押しのけて部屋に飛び込みます。

唯「憂、どうしたの!?」

部屋に入った私は思わず呆然としてしまいました。
憂は頭から布団を被って、うずくまってしまっていました。
憂のこんな姿を見るのは久しぶりで、一体何が起きているのか全然わからなくて。
慌てふためいた私は、とりあえず床に膝をついて必死に謝ることにしました。


唯「ご、ごめんね憂。私、憂とムギちゃんが話してるの知らなくて、それで」

憂からの反応はありません。ただかすかな嗚咽が中から漏れ聞こえてくるだけです。
私はいよいよどうしたらいいかわからなくなって、布団越しに憂の身体を揺さぶりました。

唯「ねえ憂、どうしちゃったの? お願い、何か喋ってよお……」
憂「出てってよ……」


唯「え?」

まさかの一言に思考が停止します。憂の泣き叫ぶ声が、私の胸の奥深いところを鋭く貫きました。

憂「お願いだから部屋から出てってっ」

気づけば、私は青ざめた表情で何もできず固まってしまっていました。焦点の定まらない目で憂の布団を見下ろします。
もう一度、次はもっと真剣に謝ろうとしたときでした。

紬「唯ちゃん、今はそっとしておいてあげましょう」

ムギちゃんが私の肩に手を載せてきました。「でもっ」納得いかない私に、けれどムギちゃんは無言で首を横に振ります。
なんだかどうしようもなく悲しくなって、私はがっくりと肩を落としました。ムギちゃんに連れられて憂の部屋を後にすることにします。人差し指の痛みはとうに感じなくなっていたけど、代わりに激しい痛みが胸を襲っています。
唯(いやだよ……)
私は心中で呟きました。憂、どうしちゃったの……。私のこと、嫌いになっちゃったの……?


ドアがぱたんと閉じられる音を耳にします。私は自己嫌悪でいっぱいになっていました。
お姉ちゃんは何も悪くないのに。ううん、誰も悪い人なんていないのに。ただお姉ちゃんに嫌われるのが嫌で、お姉ちゃんの言葉を聞くのが怖くて、あんな態度を取った私が悪いだけで……。
憂(もう、お姉ちゃんの顔……見られないよ)
先ほどの会話を聞かれたことよりそっちのほうが辛くて、私は再び泣き出してしまいました。ごめんねお姉ちゃん。悪いのは私なの。キスがしたいだなんて思った私のほうがおかしいだけなの……。
一人だけの部屋はさらに孤独感を増して、私を押し潰そうとしてきます。今の私にそれを弾き返す力はありませんでした。布団を引っ張る力を強めて、私はただ時間が過ぎるのを待ち続けました。


……

澪「唯。ゆーい」
梓「唯先輩、聞いてますかー?」

澪ちゃんたちの呼びかけで私は我に返りました。時計は夜の八時を指しています。みんなはもう帰り支度をはじめています。
せっかくおいしそうなカレーを作ってくれたのに、ほとんど口にできないまま片づけられてしまいました。ムギちゃんのお菓子を前にしてもちらつくのは憂の顔ばかり。
お願いだから部屋から出てってっ――
あんなことを言われたのははじめてで、どうしたらいいか、どんな言葉をかけたらいいのか、ちっとも頭が働きません。このままずっと憂に嫌われて生きていくのかと思ったらっ……。

唯「ぐすっ……そんなの、いやだよう……!」
律「うわっ、どうした唯!」
梓「唯先輩、やっぱりさっきからおかしいですって!」


みんなから心配されても流れ出る涙を止めることはできません。すると、ムギちゃんが意を決したような表情で私の手を取りました。

唯「ううう……ムギちゃぁん……」
紬「ね、唯ちゃん。ちょっとだけ聞いて」

周りの視線も気にすることなく、ムギちゃんは真摯な声で語りかけてきます。

紬「唯ちゃんも憂ちゃんも、もう昔とは違うの。二人とも大きくなったのよ。お母さんのキスで単純に喜べる日々はもう終わったの」


ムギちゃんが何を言っているのかわかりませんでした。それでもムギちゃんから不思議と目を離すことができません。

紬「憂ちゃんはね。唯ちゃんとのキスに、お母さんのものとは違う、何か別のものを見いだしたの。唯ちゃんはそれに気づいてあげないとだめ」
唯「別のもの……?」

わからない。わからないけど。ムギちゃんが何かを訴えかけていることだけはよく理解できて。

唯「それに気づいたら、憂と仲直りできる……?」
紬「絶対とは言えないけれど、転がりようによっては、きっとね」

それなら。私は涙を拭うと、大きくかぶりを振りました。

唯「じゃあがんばる。がんばって、憂の気持ちに気づいてみせる」

ムギちゃんが満面の笑みを浮かべます。何の話をしているのかさっぱりな澪ちゃんたちは、顔を見合わせて互いに首を傾げるばかり。


澪「えっと、じゃあ何かあったらまた連絡してよ」
律「よくわからないけど、あんまり一人で思い悩むなよー」

帰り際、みんながかけてくれた言葉に、私は胸が温かくなるのを感じました。

唯「うん。澪ちゃん、りっちゃん、ムギちゃん、あずにゃん。今日は本当にどうもありがとう。また明日ね」

はにかみながら小さく手を振って、夜の闇に消えていくみんなを見送ります。
玄関のドアを閉めたのち、私は憂の部屋のある方角を振り向きました。明かりの消えた廊下を前に、喉がごくりと音を立てます。

唯「憂……」

憂が何を求めているのか、知るのはちょっとだけ怖い気もするけど。憂とこのままなんて嫌だから私は一歩足を踏み出すの。
憂の笑顔が見たいから。もしかしたら二度と今の関係には戻れないかもしれないけど、一歩前に踏み出したい。

唯「よし」

覚悟を決めると、私は階段に足をかけました。


唯「憂、入るよ」

ドアの奥には、依然として膨らんだままの布団が見えました。私はベッドに腰を下ろすと、なるべく落ち着いた声で話しかけます。

唯「ねえ、出てきてよ、うい……。寂しいよ」
憂「……」

もぞもぞと布団が動いて、中から憂が顔を覗かせました。布団から出てきてくれたのはいいものの、憂は私に背を向けて沈黙を貫き通します。
憂の背中はしゅんとしていて、見るからに落ち込んでいる様子が伝わってきました。憂にもこんな弱々しい姿があったんだ……。ずっと立派な姿ばかり見てきたから、もしかしたら忘れちゃっていたのかもしれません。


唯「ごめんね、憂」

私は後ろから憂を抱きしめました。憂が身じろぎして、真っ赤な目をこちらに向けてきます。

唯「私のせいで憂を傷つけちゃって……ごめん」
憂「お姉ちゃん……」

いつだって私の傍にいてくれた大切な「妹」。でもきっと憂は、なんとなくだけど、それを望んではいないんだと思います。だから考えるんだ私。憂がどうしてほしいのかを……。


唯「ねえ、憂」

私は憂の耳許で囁きかけました。

唯「こっち向いてよ」

憂は首まで赤くして首を横に振ります。

憂「向けないよ……。私、もうお姉ちゃんに合わせる顔がないもん」
唯「どうして? 憂は何も悪くなんかないよ?」
憂「悪いよ。私、ちょっとおかしいの。お姉ちゃんとキスすること考えてたら、頭がぼーっとしちゃって。お姉ちゃんはこんな妹……嫌でしょ?」
唯「いやなんかじゃないよ」

本心からの言葉を紡いで、私は憂の頭を撫で回します。「うそだよっ!」泣き顔で振り返った憂の口を、次の瞬間、私の唇が塞ぎました。


憂「んっ……」

わずかに開いた憂の唇から吐息が漏れ出します。驚きのあまり身を剥がそうとした憂を抱き寄せて、キスを交わしたまま、まるでもつれ合うかのようにベッドに倒れ込みます。
どれくらいそうしていたでしょうか。
お互い真っ赤になりながら、ふわふわした感覚の中で素直な感想を口にしました。

唯「……キスってすごいねえ」
憂「……うん、すごいね」

見つめ合っていると妙におかしさがこみ上げてきて、それは到底耐えられるものではなくて。私たちは熱っぽい笑顔を浮かべ合いました。汗でへばりついた憂の前髪に心臓がどきりと高鳴ります。
あぁそうかと、私ははっとした気分になりました。
きっと……憂もこんな気持ちだったんだ。
今までわからなかった、あるいはわかっていて見ようとしなかった様々な感情が、たった一回のキスで一気に解放されたような気がしました。私、憂がいつからか……どうしようもないくらいに好きになってたんだ。


唯「……ぎゅ~」

自覚した途端、今までとは違う「好き」って気持ちが私の全身を満たしました。憂の身体に回した腕をさらにきつく締め上げます。

唯「ぎゅー、ぎゅー」
憂「お、おねえちゃん。苦しいよ」

そう言う憂は、けれど抵抗する気配は微塵も感じられなくて。湧き出る愛情を抑えきれず、私は「ういー、うーいー」と名前を呼びながら一心不乱に頬を擦りつけました。


唯「一生大事にするよ。もう憂は私のもの。ずっとずっと私だけのものだよ」
憂「よ、よくわかんないけど。とりあえず気持ちが通じたみたいだし、喜んでいいのかな……?」
唯「もちろん。ね、もいっかいちゅーしようよ。ちゅー。ねー、うーいー!」

なんか、多くのことをほっぽり出しちゃった気もするけど。憂も嬉しそうだし、これでいいのかなとも思います。
難しいことを考えるのはもう少しあとでいいや。今はただ憂だけを見ていたい。憂のことだけを感じていたい。だから……。

唯「――好きだよ、憂」
憂「私も……お姉ちゃんが大好き」

他に誰もいない部屋で私たちは、それ以上言葉を交わすことなく、互いの温もりを確かめあうことに集中します。
未来のことなんて全然わからないけど、憂がいて、私がいれば、道が閉ざされることはない。そう思います。




エピローグ

それからしばらく音楽室では、一冊のノートが部員たちによって回されることになりました。



平沢唯観察日記
九月二日(火曜日) 記入者:田井中律
珍しく唯が家からお弁当を持ってきてたよ。間違いなく憂ちゃんが作ったものだと思うけど。
ご飯のところに大きなハートマークが描かれていたのが見えたな。ありゃどう見ても愛妻弁当だよ、愛妻弁当!
↑ハートマークって何で作られてたんだ?
↑確か鮭フレーク
↑おいしそうね




九月三日(水曜日) 記入者:中野梓
昨日から唯先輩が教室まで憂を見送りに来ています。いつも一緒に学校来てるのは知ってましたけど、あんなべったりしてるとは思わなくてびっくりしました。
あと、憂もなんか様子が変です。話しかけても上の空だし。「お姉ちゃん……ふふ、ふふふ……」って突然笑い出すし。心配だなあ……。
↑うわ、それはやばいな……
↑おかしいのは唯だけじゃないってことか
↑むしろ憂の変貌っぷりが見ていて怖いです




九月四日(木曜日) 記入者:秋山澪
おい、あれは一体何なんだ? ここ数日、唯が憂ちゃんの話しかしてないぞ!
お見舞いに行ったときも様子が変だったし、やっぱりこれはもう何かあったとしか……。
↑今日にでも問いただしてみるか!
↑賛成です!
↑でも、いいのかしら……そんなことして
↑だって気になるじゃん?
↑善は急げだ! やーるぞー!




九月五日(金曜日) 記入者:琴吹紬
神は天にあり、世はすべてこともなし。
まさに雨降って地固まる、ね。おめでとう、憂ちゃん。唯ちゃん。
もしものときの旅費は私が出すから安心してね!
↑おーい、ムギ……いいのかそれで……
↑唯 先輩が幸 せ なら、そ れでい いと思い ます
↑字が震えてるぞ梓

――日記はここで終わっています。


おしまい。



最終更新:2010年04月01日 00:44