唯「ムギちゃんっ♪」

彼女が輝くような笑顔を向けるたびに、私の心は幸せな気持ちでいっぱいになる。
それはどうしてなのか、最初の頃はわからなかったけど…今は違う。

紬「…唯ちゃん♪」

唯ちゃんのことを見つめていると、こんなに胸が苦しくなって、悲しくなって、嬉しくなる。
ずっとそばにいれたらいいなって、そう思う。その理由は、とても単純なこと。

私は、唯ちゃんのことが好きなんだ。


律「なぁ唯ー!」

その日は、澪ちゃんと梓ちゃんの姿は軽音部の部室になかった。
新しい機材の購入を控えていて、その下見のために楽器屋に出かけたのだ。

唯「なあにー?」

律「このまま3人で延々とお菓子食っててもしょうがないしさぁ、どっか遊び行こうぜ?」

唯「いいねー♪行く行く!」

紬「あ…私今日はお財布家に忘れて来ちゃったから…」

律「あぁ、そっか!昼間言ってたもんな…じゃあ唯、二人で行こうぜ」

紬「え…?」そんな…待ってよ。なんで二人で出かけるの?私を置いて、どうして唯ちゃんを連れていくのよ。
だいたい、なんで遊びに行くなんて提案するの?他にも時間を潰す方法なんていくらでもあるのに…

唯「でもりっちゃん、ムギちゃんだけ置いてったらかわいそうだよ?ムギちゃん、おごってあげるから一緒に行こう?」

紬「え…い、いいの?じゃあ私…」

律「お前だって金欠だって言ってただろ?おごりは金に余裕がある奴がするの!」

唯「でも…」

律「ムギは電車の時間もあるしさ、また今度行こうぜ?」

唯「うぅ…ごめんねムギちゃん…」

紬「え…あ……」

律「そうだ唯、アイスおごってやるよ!澪と梓には内緒な?」

唯「ホント!?りっちゃん太っ腹ー♪」

律「へへ…んなことないって…」

紬「ま…待って!」

律「…なんだよムギ、まだなんか用あるのか?」

紬「そ…そういうわけじゃないけど…ほら、唯ちゃんの帰りが遅くなると憂ちゃんが心配するんじゃない?」

律「そんなのメール送っときゃいいだけの話だろ?なー唯」

唯「うん、ちゃんと連絡すれば大丈夫だと思うー」

律「てことで私らは先行くから戸締まりよろしくな。さ、行こうぜ唯。寒いからくっついてこーぜ♪」

唯「わわ、歩きにくいよりっちゃん!」

紬「……!」

りっちゃんは唯ちゃんの肩に手を回して歩き始めた。
その行為には躊躇した様子なんてかけらもなく、あまりに自然なものだった。

そう、まるで恋人同士がするように。


それを見て、私の心にどす黒い感情が濁流のように注ぎ始める。

…なんでりっちゃんはそんな簡単に唯ちゃんに触れるの。
普段は澪ちゃんとじゃれ合ってばかりいて、ろくに唯ちゃんのことなんて見てないくせに。
私がどれだけ唯ちゃんのことを見たり考えたりしてるか、そういうこと全然知らないくせに。
その肩は何も考えないで触れていいものなんかじゃないのよ。
それを触っていいのは、唯ちゃんのそばにいていいのは――

律「…ムギ?」

気付くと、私はりっちゃんの手首を掴んでいた。
力いっぱいに、りっちゃんの体を唯ちゃんから引き離すように。

唯「ムギちゃん?どしたの…?」

紬「……」

律「な、なんだよ…離してくれよ」

紬「…唯ちゃんに触らないでよ」

律「は?何言って…」

紬「りっちゃんには、唯ちゃんに触っていい権利も、そばにいていい権利もないのよ」

唯「ム、ムギちゃん…?」

律「い…意味わかんねぇよ!」

紬「わからないならいいの。とにかく二度と唯ちゃんに近づかないで」

律「んなことなんでお前に言われなきゃなんないんだよ!いいから離し…痛っ!」


私はりっちゃんの手首に爪を立てて握っていた。
このまま握り続けたら折れてしまうんじゃないかってくらいに、強く握っていた。

律「い…いて…いてぇよ、ムギ……」

りっちゃんは、明らかな恐怖の色を浮かべて私を見つめている。その脈は、ドクンドクンと心拍数を増していく。

唯「ムギちゃん、りっちゃん痛がってるよ!?離してあげてよ!」

紬「……」

律「い……ぁう…い、い…うぁ……」

唯「ムギちゃん!」

いくら唯ちゃんの頼みでも、私はこの手を離すわけにはいかない。
唯ちゃんのためにも、ちゃんと誓ってもらわなくちゃ。


律「ム…ムギ…わ、わかったから…」

紬「わかったって?何がわかったの?」

律「ゆ、唯には…ち、近づかないから…」

紬「本当に?約束する?絶対にしないって誓ってくれる?」

律「する…!す、するから…だから離して…」

紬「…そう。ならいいわ。離してあげる」

律「うぁっ…」

離したりっちゃんの手首には、真っ赤な痕がついていた。
私の爪が立った部分からは、血がじわりと滲んでいる。…すごく、痛そうだ。


律「う…うぅ……ヒクッ…う…うえぇ……」

…りっちゃん、泣いちゃった。
でも、これで唯ちゃんには二度と近づかないのよね。
ちゃんと約束してくれたから、もうこんなことは…

唯「りっちゃん!」

横で呆然と立ち尽くしていた唯ちゃんは、うずくまったりっちゃんを弾かれたように抱きしめた。

…そんなこと、しないでいいのに。


唯「りっちゃん、大丈夫!?」

律「あ…うぅ…えぐっ…うっ…だ、大丈夫…いっ…!」

唯「こんなに血が出てる…保健室行って手当てしよう!」

紬「あ、あの…唯ちゃん…?」

唯「……っ!」バシッ

差しのべた私の手を払いのけて、唯ちゃんはキッと私を睨み付けた。

その目には、私が今まで見たことのない感情――明確な怒りが浮かんでいた。


唯「なんで…なんでこんなことするのムギちゃん!」

紬「なんでって…りっちゃんが唯ちゃんの肩に気安く触るから…」
唯「意味分かんないよ!りっちゃんが何悪いことしたの!?」

紬「悪いこと…?してるじゃない。たくさん」

唯「してないよ!私に触っただけで何が悪いって言うの!?それならムギちゃんだって同じじゃん!」

紬「同じ…?ううん、違うよ唯ちゃん。私はりっちゃん…皆とは違うよ」

唯「え…?」


紬「私はね、いつも唯ちゃんのこと考えてるのよ。朝起きた時から夜寝る前までずっと。
 登下校してる時も、授業中も、部活中も、ご飯を食べてる時も、いつだって唯ちゃんのこと考えてる。すごく大切に思ってるの」

唯「え…?」

律「ムギ…」

私は唯ちゃんの頬に手を当てた。柔らかいぬくもりが、手のひらいっぱいに広がる。

紬「私ね、唯ちゃんを大切にする気持ちは誰にも負けてないと思うの。軽音部の皆や和ちゃん、もちろん憂ちゃんにも、唯ちゃんのご両親にも」


紬「だから…私以外の人が唯ちゃんをむやみに触れたりするのは許せないの。
唯ちゃんはとてもかわいくてあたたかいのに、それを汚そうとするのは許せないのよ」

唯「……」

私は唯ちゃんに顔を近づけた。
唯ちゃんはさっきと変わらない眼差しを私に向けている。

紬「だから…私が守ってあげる」

今なら…伝えられる気がする。ずっと秘めてきた、私の気持ちを。
紬「私…唯ちゃんのことが好きなの」

唯ちゃんはその言葉を聞いて、わずかに目を見開いた。
きっと、唯ちゃんは答えてくれる。私の気持ちを、ちゃんと受け入れてくれる…

唯「…ムギちゃん」

紬「な、なに…?」


唯「ムギちゃんがどんなに私のこと好きでいてくれても、全然嬉しくないよ」

紬「え……?」

唯「お友達にこんなひどいことしてまで私のこと、守ってくれなくたっていい。私のこと、好きでいてくれなくたっていいよ」

紬「え…唯ちゃん…?」

唯ちゃんは私の肩を押して引き離した。
それは決して強い力ではなかったけど、確かな拒絶の意思を感じさせるものだった。

唯「…最低だよ。今のムギちゃん、私は大っ嫌いだよ」

紬「……っ!」


紬「え…っと…ゆ…唯…ちゃん…?」

え…?だ…い…きら…い……?だれが…?ゆ…いちゃ…が…わた、わたしを…き、きらい?…な、なんで……?

唯「行こう、りっちゃん」

そんなの、おかしいよ…へんだよ…あ…そっか……ゆいちゃん、おかしくなっちゃったんだ……りっちゃんの…みんなの…せいで…おかしくなっちゃったんだ…

律「…唯、ごめん。私一人で行けるから」

唯「でも…」

律「大丈夫だからさ。とりあえずさわちゃん呼んでくるからここにいてくれ。…ムギのやつ、ちょっと変だから一人にしない方がいいだろ」

唯「だけど…」

律「大丈夫だから」

唯「…わかった。ちゃんと手当てしてもらってね」

律「…あぁ」

…なおしてあげなきゃ……ゆいちゃんはわたしのものなんだもん…ちゃんとなおしてあげれば、きっとわたしのことすきっていってくれる……


唯「ムギちゃん、後でちゃんとりっちゃんに謝りなよ。ひどいことしてごめんって」

紬「うん…あやまる…」

唯「そっか。だったら大丈夫だよ。りっちゃんは優しくていい子だから、きっと許して…きゃ…ぁっ!?」

ガタァン!

唯「ム…ギちゃ…?」

紬「ねぇゆいちゃん…キスしてもいい…?」

唯「な…?や、やだよ…やめ…」

ガン!ガン!ガン!

唯「い…痛い…ムギちゃん、痛いよ……」

紬「ゆかって、あまりかたくないからだいじょうぶだよね…?ゆいちゃん…」

ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!

あたまをたたけば…きっともとにもどるよね。ゆいちゃん…


唯「ぃ…いたぃ…頭…いたいよぅ…」

だいじょうぶよゆいちゃん。わたしがもとにもどしてあげるから。

ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!

唯「…ぁ……ぅ…む…ぎ……」

もとにもどったら、いっしょにおかしをたべましょう。きょうはゆいちゃんのすきなけーきをもってきたのよ?

ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!


唯「……カ……ゥ…」

そうだ、みるくてぃーとこうちゃはどっちがいいかしら?あ、ここあもあるわよ?

ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガン!ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタァン!

唯「………」

紬「はぁ、はぁ…あ…ゆいちゃん…そろそろもどった?」

唯「………」

紬「ゆいちゃん?」

唯「………」




紬「唯ちゃん?」



……

職員室に続く薄暗い廊下を歩きながら、私は後悔していた。
なんでもっと早く、ムギに言えなかったんだろう。なんでもっと早く、ムギの気持ちに気付けなかったんだろう…

律「…痛っ……」

傷口に消毒液が染みて、思わず立ち止まってしまう。
…こんなもんじゃない。あいつの抱いてきた痛みは、こんなもんじゃなかったはずだ。
…だってムギは、私と同じ気持ちなんだから。私と同じように、唯のことが好きなんだから。

なぁムギ、私だってちゃんと唯のこと見てるんだぜ。ちゃんと考えて、大事にしてる。
でもそれはものすごく照れくさいから、全部澪の陰に隠れてしかできないんだ。
だから…私、ちゃんとお前に謝るよ。唯と意地でも二人きりになりたくて、あんな意地悪しちゃったんだ。
それでちゃんと仲直りできたら、二人で色々話そうぜ。唯のどういうとこが好きかとか、色々。
そしたら私もお前も、ずっと楽になれると思うから――


プルルルル…

律「…!…もしもし?」

紬『あ…りっちゃん?』

律「ムギ…」

紬『…ごめんなさい』

律「いや…いいんだよ。私もちょっと唯にべたべたしすぎて…」

紬『…ねぇりっちゃん、さっき約束したわよね。もう二度と唯ちゃんに近づかないって』

律「あ、あのさ…そのことなんだけど…実は私も唯のこと…」

紬『あの約束、もう守らなくていいわよ♪』

律「え…?」


紬『だって唯ちゃんは私だけのものになったんだもん♪もう私だけしか見ないし、私としかお話もしないのよ♪』

律「な…え?何言って…!!」

私はムギの言っていることが、なんとなく推測できてしまった。
でもそれを認めるのはあまりに恐ろしいことだった。
もし、もしそれが的中していたなら、私は壊れてしまう。だから――

紬『だから謝るわね。唯ちゃんを私だけのものにしちゃて、ごめんなさい』

律「…ムギ。ちょっと唯と電話替わってくれ」

紬『うふふ、うふふふふ…♪ねぇ唯ちゃん、聞いててくれた?私ちゃんと謝ったわよ♪』

律「替われって!いいから早く唯と替われ!」

紬『……』

律「ムギ!」

紬『……』

律「おい…頼むから…うっ…頼む…から…ぁっ…ゆ…唯と……」

紬『ごめんなさい、それはできないの。だって…唯ちゃんは私だけのものだから』

プツッ…プー…プー…

最後に携帯から聞こえた泣き声。この分だと、りっちゃんはここで何が起きたのか気付いたのかな…
でもねりっちゃん。気付いたところで何も変わらないのよ。あなたがどんなに唯ちゃんを想っても、私は唯ちゃんを絶対に渡さないんだから。

――そう。唯ちゃんは私だけのものなんだから。

紬「…ねぇ唯ちゃん、私のこと好き?」

唯「………」

紬「えへへ…そっか♪じゃあ私も言うわね?」

唯「………」

これからは、唯ちゃんはいつだって私にまっすぐな瞳を向けてくれる。
いつだって私に好きだって言ってくれる…

唯「………」

紬「私もね…ゆっ…ゆい…ちゃ…の…こっ…ぁ…う……」

だから、私は唯ちゃんのことが大好きだ。

唯「………」

紬「…す、す…あ…い…いや……いやああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

唯「……」


たとえ、息をしていないとしても。

END



最終更新:2010年04月04日 00:43