唯「あずにゃんっ!」
唯先輩の顔に笑顔が輝いたのは決して夕日だけのせいではないと思います。
そして私の顔が更に真っ赤に
なったのは唯先輩が道端であるにも関わらず抱きついてきたからに違いありません。
唯「もう、あずにゃんは最高にカワイイ後輩だよ!」
普段の私なら、道端で抱きつくのはやめて下さいとか言う場面ですが、今日だけは
例外でした。
唯「えへへ……あったかいね」
梓「……そうですね」
私の身体を抱きしめる唯先輩の腕の力が少し強くなった気がしました。
唯「なんか、あずにゃんがあずにゃんじゃないみたい」
梓「今日の私は少し変なんです」
唯「少しじゃなくて、だいぶ、だよ」
幸せでした。
二人だけの時間がこんなにも心地好いものだなんて……。
梓「唯先輩」
唯「なあにあずにゃん?」
梓「私からのお願いを聞いてもらえますか?」
唯「もちろんっ。あずにゃんのお願いなら何でも聞いちゃうよ」
唯先輩の吐息が耳にかかって
口許が知らず知らずのうちに弛緩していくのが自分でもわかりました。
梓「私のお願いは……」
この時、私の胸によぎったのはある種の予感であり確信でした。
今、告白すればすんなりと唯先輩は私を受け入れてくれる……そんな気がしました。
もちろん単なる錯覚かもしれません。
或いは、こうして唯先輩に抱きしめられている
うちに、意識していないところで安心してそう思わされているだけなのかもしれません。
しかし、告白が成功するにしようしないにせよ、そんなことは
一切関係無く決して臆病からではなくあえて私はこの絶好のチャンスを手放しました。
代わりに私の唇は別の言葉を紡いでいました。
梓「唯先輩。最近私、料理にはまっているんですけど、よろしかったら来週の日曜、私の家で
鍋をするんで是非来てもらえませんか?」
唯「全然オッケーだよ、あずにゃんっ」
梓「料理って言っても鍋なんですけどね」
唯「うんっ」
梓「よかった。断られたらどうしようかと思いました」
唯「そんな、まさかわたしがあずにゃんの頼みを断るわけないよ~。
でもなんでわたしなの?」
夕日を浴びて足元から伸びる私と唯先輩の影は、どこか楽しそうで、嬉しそうでした。
梓「あなたのことが好きだからですよ唯先輩」
唯「あずにゃん、私、今すごく嬉しいかも……」
梓「……本当に本当ですか?」
気配で私を抱きしめている唯先輩が微笑ったのが
わかってそのことがまた嬉しくて私も釣られて笑みを零してしまいました。
唯「いつまでもこうしていたいけど」
梓「でもこの手を離さなければ家には帰れませんよ?」
唯「そういうあずにゃんだって私の手、掴んでるくせに」
指摘されて初めて無意識に絡められていた手を握っているのに私は気づきました。
梓「……ふふ」
唯「……へへ」
梓「私たち似た者どうしですね」
唯「そうかもねっ」
私たちがこうやって笑いあってるのには、たぶん
明確な理由なんて存在してないんだと思います。
それこそ人が人を好きになるのと同じで。
唯「じゃあ、そろそろバイバイだね」
そんな言葉とともに私を包んでいた腕を唯先輩は解きました。
……先輩は既に私に背を向けて帰り道を辿っていました。
梓「唯先輩……」
名残惜しくはありましたけど、寂寥感は微塵もありませんでした。
理由は至極簡単でした。
もう私は朧げながら答を見つけたのですから。
梓「唯先輩っ!」
振り返った唯先輩がもう一度私に向かって微笑みました。
♪その日の夜
私は今まで自分の恋愛の悩みを相談してきた憂に電話をしました。
梓「憂……今まで相談に乗ってくれてありがとう」
電話越しからでも相手の動揺が伝わってきました。
そう言えば、今までは自分のことに精一杯で、憂に配慮することもできなかった
けれど、今は心にも十分なゆとりがあるので幾分私は落ち着いて憂に返答することができました。
梓「ううん、違うよ。諦めたとかそういうわけじゃないよ」
ただ、私は何となく気づいて悟ったのでした。
私が求めていた唯先輩との関係。
梓「うまく言葉にできないけど、たぶんわかった
んだ……うん、だから心配しなくて大丈夫だよ」
そうだ、と私は相談したいことを思いついて憂に尋ねた。
梓「今度家で鍋するんだ」
憂の弾んだ声が私の耳朶を震わせます。
梓「だから、憂には鍋についての心得を伝授してほしいんだ」
まかせて、と電話越しから
でもわかる力強い言葉に私は今度の鍋が成功することを確信しました。
梓「そうだ――」
――そして。
あれからのことを少しだけ話そうと思います。
唯「あずにゃんのエプロン姿って新鮮かも」
梓「初めてでしたっけ?」
唯「うん。すごく似合ってるよっ。憂の次くらいに」
梓「それは光栄です」
一週間後。
唯先輩に宣言した通り、私の家で鍋でお持て成しをすることになりました。
もっとも私の料理の腕前は未熟そのものですので
クラスメイトである憂
からアドバイスをもらうという形になりました。
まあ、そうは言っても鍋は鍋。
本当に小さな工夫を凝らすことになったんですけど。
何か気になることでもあったのか、私の手元を凝視する唯先輩。
唯「うん?あずにゃんは何を擦ってるの?」
梓「ニンニクです。憂に鍋を美味しくする方法を教えてもらったんです」
唯「へえ。そっちのビンに入ってる大量の赤いのは?」
梓「鷹の爪ですよ」
唯「すごく辛いヤツでしょ?これ全部入れるの?」
梓「全部は入れませんよ。隠し味程度に少しだけ入れるんです」
唯「そうなんだ」
梓「ていうかじーっと見られるとやりづらいです」
ついでに愛情もひとさじほど……なんて言ったりして。
さて、あとは待つばかりです。
最高の講師である憂にアドバイスをもらった鍋のデキはすごくいいはず。
普段、鍋を食べる時にはこんな気持ちにならないのに――少しだけ緊張しました。
唯「フツーの鍋だね」
梓「まさかいつか言ってたマシュマロ鍋なんてものを私が作るとでも思ってたんですか?」
唯「えへへ、ちょっと期待してたかも」
梓「……」
唯「どうしたの?」
梓「……その、今度また唯先輩と鍋をする機会があったら……その時は……」
皆まで言えませんでした。
唯先輩が例によって例のごとく抱き着いてきたからです。
……テーブルを挟んでですけど。
梓「唯先輩、急に抱き着かないで下さい」
例によって例のごとく私はそう言って、
唯「へへ、またあずにゃんったら照れちゃって」
これもまたお約束の返しをする唯先輩。
唯「……急に抱きつかないで、っつじゃあゆっくり抱きつけばいいの?」
梓「そ、そういう問題じゃないです」
梓「……」
鍋が徐々に煮立ってきました。
唯「ねえ、あずにゃん」
――コトコト。
梓「……はい」
――コトコト。
唯「もう少しだけこうさせて」
――コトコトコト。
梓「はい……」
なぜでしょう。私はもう答を見つけたはずなのに。
ですから安心して……唯
先輩に抱き着かれたって平生と変わらない態度でいられると思ったのに。
頬っぺたが、熱くなるの
を感じて、そのことがまた恥ずかしくて私の顔はさらに赤くなってしまいました。
――コトコトコトコト。
唯「あずにゃん。私に好きって言った時のこと覚えてる?」
――コトコトコトコトコトコト。
梓「まだ一週間前ですよ。それにあと、何か起きない限り十年は忘れないと思います」
唯先輩のおとがいが私の肩に乗っているので、
振動が伝わってきて私の心臓までも震わせました。
――コトコトコトコトコトコト。
唯「すごく嬉しかったんだ」
梓「……そう言ってもらえると……嬉しい、です」
唯「でも、何か違うって思ったんだ」
――コトコトコトコトコトコトコトコト。
梓「はい、私も……唯先輩のことはすごく好きです。
でも、こんな風に抱き合って言うのも変ですけど……」
――コトコトコトコトコトコトコトコト。
唯「うん、私たちってきっとこういう風に恋人みたいに抱き合ったりする関係じゃないんだよね。
そんなのは私たちらしくないとっていうかなんて言うか……」
適切な言葉を探しているのか、唯先輩の口舌そこで止まりました。
梓「……ふふっ」
唯「あずにゃん?」
抑えようのない歓喜が私の喉から零れました。
梓「嬉しかったんです。唯先輩も私と同じことを考えてくれていたのが」
―コトコトコトコトコトコトコトコトコトコト。
唯先輩がゆっくりと腕を離しました。
少しだけ名残惜しいけれど、やっぱり寂しいとは思いませんでした。
梓「私も語彙の多い方じゃないから言葉にできませんけど……それでも唯
先輩と同じ想いを共有できていたんだと思うと、それだけで本当に嬉しくて」
唯「……私もあずにゃんももうすぐ進級するけど、またこれからもよろしくねっ」
梓「……はいっ!」
――次の瞬間。
私の返事がきっかけなのかどうかは知りませんが、鍋が爆ぜました。
私は思わずびっくりして唯先輩に抱き着いてしまいました。
唯先輩もびっくりして目を丸くして唖然としています。
鍋の爆発――鍋自体が爆発したのではなく、中身
の汁が爆ぜたのです――によって、脳みそまでしっちゃかめっちゃかです。
梓「あっ……」
憂の言葉を唐突に思い出して私は声をあげてしまいました。
憂『今回の鍋はコクを出すために粗い味噌を使うんだけど、注意してね。
きちんと掻き混ぜないと味噌が沈澱して爆発しちゃうから』
……その場の雰囲気に流されて一番大切なことを失念していました。
唯「あずにゃん大丈夫?」
梓「だ、大丈夫じゃないです……」
心臓がシックスティーンビートを刻んでいます。
唯「ふふっ、はははおかしいあずにゃんっ。
思いっきり怖がって私に抱き着いちゃって、澪ちゃんみたい」
梓「わ、笑わないでください」
――でも、まあ。
梓「ああ……もう一回鍋、作り直さないといけませんね」
唯先輩をはじめとする軽音部の皆と一緒に決して真面目とは
言えないけど、時々真剣に練習して毎日ほんわかと楽しい時間を過ごせて。
唯「よーし、ここは先輩である私が手伝ってさしあげましょうっ」
憂や純っていう大切な友達も私の周りにはいて。
梓「――唯先輩」
何よりこんなに素敵な人と出会えて。
――そしてこんな平々凡々とした
日常の中で大好きな人たちと一緒の時間を過ごせる私はスゴイ幸せ者です。
梓「これからも一緒に頑張りましょうね!」
唯「うん、だって私とあずにゃんは――――」
おしまい!!
※ちなみに最後の唯の台詞は最初、マブダチとかそんな感じだったけどしっくりこんくてやめた。
んだで皆さんの想像で台詞入れて下さい
最終更新:2010年04月13日 01:07