「おまえらゴジラから離れろよ。ってか、なんでムギがこんなもの知ってるんだよ!?」

「この前、唯ちゃんからビデオを借りたの」

「借りるなよ! 唯もムギにゴジラなんか貸すことないだろー」

「何言ってんのさ、りっちゃん。ゴジラ面白いじゃん。あ、もしかしてゴジラ観たことないんでしょー。今度、持って来るねー」

「いや、お断りするわ」

 駄目だ。ゴリラと言ってるのに、特撮怪獣しか出てこないなんて。難易度的にゴジラよりゴリラの方が簡単なはずなのに。

 こうなったら最終兵器だ。

「はーい、梓。最後はよろしく」

「わ、私ですか。ゴジラなんて観たことないですよ」

「いや、だから、ゴジラじゃなくてゴリラな」

 後輩の間違いを正して先を促す。

 描いている間にあたしはケーキを食べ終わり、紅茶を飲み干してしまった。


 しばらくして、梓はペンを机に置いた。

「出来ました。ゴリラです」

 ノートの隅っこに描かれた梓作ゴリラ。

 相手を威嚇するような鋭い眼光、肌を覆い隠す墨色の体毛、分厚い皮膚のシワ。
 どこからどう見てもゴリラだった。

「うわ、まとも過ぎてつまんね」

「なな、なんでですか!? 律先輩が描けって言ったんじゃないですか」

「嘘々、冗談だよ」

「もう……」

 梓がほっぺを風船のようにぷくりと膨らませて言った。

「ああっーーー!?」

 あたしの耳元で唯が叫んだ。

「山田さん!」

「へ、やま、山田さん?」

 スルーしたいところだけど、聞いてやることにした。


「これ、山田さんだよ」

 梓が描いたゴリラの絵を指差して唯が言う。

「だから誰だよ、それ」

「うちの隣に住んでるゴリラ」

「えーっと、唯の家の隣家に住んでるゴリラの名前が山田さんってことか?」

「りんかって?」

「隣の家ってこと」

「あー。うん、そうだよ」

 澪の冷静で解り易い質問にあっさりと答える唯。

おみくじを引いた直後のように少し溜めて、

「んなわけあるかーっ!」

 ゴリラの所為で興奮していたせいか、あたしは無意識のうちに澪と声を重ねてツッコんでいた。

 おまえの家じゃないだろというツッコミは喉の辺りで押しとどめて「また今度なー」と、軽くあしらっておく。

 唯が言うことを一々本気で聞いてはいられない。

「りっちゃん、紅茶のおかわり如何?」

「いるー!」

 ああ、なんか一連の流れで疲れちゃったな。

 これから練習だっていうのに。

 唯以外は何事もなかったようにうららかなティータイムの続きに戻っていく。

 唯は未だにゴリラだか山田さん云々言っていたが、みんなが聞いていないと知ると席に腰を落ち着かせて、ティーカップに入った紅茶を冷ますためか、ふーふーと口から微風を吹かせていた。


「唯、それ以上冷ましてどうすんだよ」

 とっくに飲める温度にはなっているはずだったので、ムギにおかわりの紅茶を注いでもらいながら言ってみた。

「だって、みんな聞いてくれないんだもん」

 ふーふー続行。子どもかおまえは。

「はい、りっちゃん」

「サンキュー、ムギ」

 ムギに紅茶を淹れてもらったあたしは唯と同様、表面に波紋を作りながら紅茶を冷ます。

 唯のとは違ってまだ熱いからな。

「なあ、律」

 口をすぼめている最中に澪の声がした。

「んー?」と、澪を見ずに口だけで返事をする。


「私は描かないでいいのか?」

「何をー?」

「ゴリラ……」

「いいんじゃないの」

「そっか……」

 冷ましすぎも良くないのでここで紅茶を口に含む。

 さわやかな香りが口内に広がるのと同時に、舌にしっとりと絡みつきながら喉へ流れていく。

 ティーカップをソーサーに静かに置いて、口内に残る香りを一息吐いて澪に理由を訊いてみる。


「なんでそんなこと訊くんだよ」

「だって、いつもの流れなら私にも言ってきそうだから」

「そっかなー」

 そうだろうか。

 昨日までのあたしなら澪にゴリラを描かせていただろうか。

 判らない。昨日の自分と今日の自分の違いが判らない。

 そもそも違うのか? 

 あたし自身は昨日と変わらずに今日を過ごしていると思う。

 澪の顔を見れないこと以外は至って変わらないはず。

 それだけが唯一違うことであって、それ以外は変わらないでいるはず。

 こんなこと考えるなんて馬鹿みたいだし面倒だから、この辺りでやめとこう。

 澪が変なことを言っているだけだ。

 あたしは残りの紅茶を数秒で飲み干して席を立つ。

「さっ、練習始めるかー」





 茜色に染まる道にあたしと澪、二人分の影が伸びていた。

 練習を終えて唯達と別れた後、あたし達は言葉を交わすことなく歩くだけ。

 朝と同じように、あたしは澪の前を歩き、澪はあたしの後ろを歩いていた。

 今、澪がどんな顔をして何を考えているのか、あたしには判らない。

 まあ、澪を見ようとしていないのだから当然だけど。

 頭上では電線に乗るカラスのやかましい鳴き声が虫の鳴き声と合わさって、絶え間なく響いていた。

「律……」

 澪の声。それもか細い声が聞こえて、あたしとあたしの影は同時に足を止めた。


「今日の律は変だぞ」

「変ってどこが?」

 あたしは振り返らず喋る。澪も足を止めているのだろうか。

「朝から私と目を合わせようとしないだろ。なんか避けてるみたい」

「そんなことないよ」

「じゃあ、なんでこっちを向かないんだよ」

「別に向かなくてもいいだろ」

「良くない」

「いいじゃん」

「良くない」

「……なんでだよ」


「律、お願いだから」

 なんでお願いされなきゃいけないんだ。

「律……」

 あたしの影がゆるりと回れ右をして僅かに形を変える。

「これでいいんだろ」

 澪がゆっくりと近づいてきて、あたしの影の中に入る。

「律、私を見ろ」

 どうやら年貢の納め時みたいだ。

 これ以上はぐらかすことは無理っぽい。

 腹を決めて、あたしは視線を正面へ向けた。


 澪の顔がすぐそこにあった。

「やっと見た」

 どくんと心臓が大きく跳ね上がる感覚。

 それに続いて脈拍が早くなっていき、口の中から水分が失われていく気がした。

 澪があたしを見ていて、あたしは澪を見ている。

 澪の瞳にあたしが映り、あたしの瞳には澪が映っている。

 吐息が届いてきそうなほど近い距離に澪がいる。


「やっぱり気に入らないか?」と、顔を曇らせて澪が言う。

「へっ?」

「朝から目を逸らしてただろ。この髪形が気に入らないのかなって……」

「そんなことないけどさ……」

 そんなことあるはずがない。

 似合ってる。

 あたしがドキドキしてしまうほどに似合っている。

 最高に似合ってる。

 それで気に入らないはずがない。


「そうなのか?」

 澪の問いに小さく頷く。

「そっか、良かった」

 澪がホッと吐息を吐いて肩を上下させながら言った。

「良かった?」

「うん。律には気に入ってもらいたかったんだ」

 澪はそう言って頬を緩めて微笑む。

「髪を切ったのも律が理由だしさ」

「あたしが? なんで?」

「覚えてないか? 私にショートカットにしてみたらって言ってただろ」

「そ、そうだっけ……」

 そんなこと言った記憶はないけど、言っていたとしても冗談からだろう。

 まさか、澪が本気にするとは思っていなかったと思う。


「律、覚えてないのか?」

「う、うん。ごめん」

 なんだか自分が悪いことをした気分だったので、反射的に謝ってしまう。

 いや、あの長い髪を切らせたのは、あたしの冗談からだったのだから謝るべきなんだろう。

 それにしても今日一日、息苦しい思いをしたのも全ては自分が原因だなんて馬鹿みたいだな。

 結果として澪はショートカットでも問題ないのが幸いだ。

 これでもしも最悪の出来だったら、冗談が小さな悲劇に発展したかもしれないのだから。

 ああ、本当に馬鹿だな。冗談を言ったのが自分なのも、冗談を本気にする澪も、見慣れている幼馴染にドキドキして目を見られなくなるのも、み~んな馬鹿みたいだ。

 段々笑えてきた。

 澪の顔を見ていると余計に可笑しくなってきて、終いには声に出して笑ってしまう。


「え、なに、どうしかしたのか律」

 突然笑い出してしまった為か、澪が不思議そうに言う。

「ううん、なんでもない……アハハッ」

「何がそんなに可笑しいんだ?」

「だから、なんでもないよ」

 笑ったらなんかスッキリした。

 澪と目を合わせても、ドキッとするようなことはなくなっていたぐらいだ。

 いつものあたしだ。

「さっさと帰ろうぜ、澪」

 あたしは澪に背を向けて歩き出す。後ろから追いかけてくる澪の足音が聞こえてくる。


 ああ、これだけは言っておくか。そのぐらいの責任は果たさないとな。

 歩きながら一瞬だけ振り返る。澪はそんなあたしをしっかりと見る。

 あたしも澪をしっかりと目で捉えて言う。

「似合ってるよ、澪」

 それだけ言って再び背を向ける。

「ありがとう、律」

 今まで生きてきた中で最も恥ずかしいセリフを言ったかもしれない自分に、澪は極めてシンプルな言葉を返してくれた。

 おそらく、今のあたし達はお互い顔を真っ赤にしてると思う。

 相手がいくら親友でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 普段冗談を言い合う仲だからこそ、本当に思っていることは言いづらい。

 でも、だからこそ、澪の「ありがとう」はいつになく嬉しかった。今までのどんなありがとうとも違う、それは特別なものだった。


 日はもうすぐ完全に沈みそうで、辺りも暗くなり始めている。

 あたしは澪の前を歩く。澪はあたしの後ろを歩く。

 そういえば、澪にまだ言っていないことがあった。

 けど言ってやらない。

 恥ずかしいし、照れくさいし、いつも思っていることだから。

 だから、澪は可愛い、と心の中だけで呟いてみる。

 そう、澪は可愛い。

 ショートカットの澪も、ロングヘアーの澪もどちらも可愛い。

 そんなの今更考える必要もない。

 元々澪は可愛いんだから。

 ああ、今日は本当に馬鹿みたいで楽しい一日だったと思う。

 そう思うと自然と顔がほころんだ。

 夕闇の中を今日もあたしと澪は、一日の終わりに向かって並んで歩いている。


          お   わ   り



 おまけ1

 後日、唯が言っていたゴリラをあたし達は見に行った。

「唯、どこにいるんだ?」
「んーとね、あそこ」

 唯が指差す先を四人は見る。
そこにあったのはゴリラの、

「ああー、ぬいぐるみですね」と梓。
「ぬいぐるみなの!?」

 唯の残念な告白にあたしと澪は、勢いよくツッコむ。

「知らんかったんかい!」




 おまけ2

 ショートカットの澪を見ていたら、猛烈に頭を触りたくなった。

「澪、頭触らせて」
「え、あ、やめっ!」

 澪の返事を待たずにあたしは頭にタッチした。
そしたら、ずるっと澪の頭が外れた。正確にはヅラが取れた。

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「あ、あたしは何も見てないぞ!」

 あたしは思わず走って逃げ出した。
 そのうちに走るのをやめて右手を見ると、そこには澪のヅラが握られていた。


 ※ヅラは本編とは無関係




最終更新:2010年04月18日 01:47