そう言って和はリモコンのボタンを押す。
同時に天井から機械音が聞こえ、憂の体が天井へと吊り上げられていく。
辛うじて床についていたつま先はすでに遥か上へと上っている。
ガクンという振動と共に機械音が止まる。
憂の身体は限りなく天井と接していた。
ここから落下すれば、もはや最悪の結末が待っていることは明らかだった。
和「ふふっ、顔面蒼白よ憂」
そして、和は憂に見えるようにリモコンを再度押そうとする。
思わず目を瞑る憂。
しかし、いくら待てども落下の衝撃はやってこない。
恐る恐る目を開けてみる。
何一つ変わらない光景が広がっていた。
もちろん、憂の身体も健在であった。
和「押すと思った? ふふっ、楽しい時間は長い方が好みよ」
和「それに憂のその怯えた表情最高よ」
和「そうそうこのボタンが上下に鎖を動かすもので、こっちが鎖を外すボタンよ」
あえてその情報を教えることで、憂は自然とボタンに触れる指の動きまで注目しなければ
ならなくなる。
正常な視力の持ち主である憂にとってはギリギリ視認できるその距離が憎らしいものと
なっていた。
そして、それは想像以上の恐怖へと繋がる。
いつ落下するとも分からない状況におかれ、憂の精神は緊張と恐怖で限界だった。
本来であれば唯の敵討ちを行わなければならないのに、今できることといえば
その憎い敵に吊るされ、怯えることだけ。
その惨めさもまた憂の心を蝕んでいく。
今の和にとっては、憂のそんな心の動きさえ愉悦の糧であった。
和がボタンに触れようとし、しかし実際に触れることはなく、憂の姿を眺める。
憂は緊張に体を強張らせ、恐る恐る自身の体を確認し、一瞬の安堵を得る。
そんな繰り返しが何度続いたことだろうか、和にも飽きが見え始めていた。
和「そろそろ頃合かしら」
上気した顔で和が最終通告をする。
和「さようなら憂。愛しているわ」
和の指が遂にボタンに触れ、鎖が外され──
唯「させないよ!」
唯が和の至近距離まで迫っていた。
幽霊であることを受け入れた唯はその利点を最大に発揮させ、この場に駆けつけていた。
憂はそんな唯の存在に誰よりも早く気づき、嬉しさと共に悲しさで胸が押しつぶされそうに
なっていた。
唯が偶然この場に現れることなどありえるはずはないのだ。
だとしたら、ここに居ることは必然でしかない。
それはつまり、姉が全てを知ってしまったということでもある。
それでも絶体絶命の危機に駆けつけた姉の姿は憂にとっては誰よりも眩しいものであり、
思わず涙を流していた。
唯の腕が和のリモコンにのびる。
これで終わりだと唯は思った。
こんな馬鹿げたことはもうお仕舞いにしたかった。
この段階に来て、唯は何故自分が和に殺されたのか理解できていなかった。
自分を刺殺して愉悦の表情を浮かべていた和を唯ははっきりとその目で見ている。
それでもなお、彼女は和に何か事情があったのだと信じたかった。
もちろん、現実で考えてそこに唯が納得できる理由などあるはずはない。
それでも、唯にとって和はたった一人の幼馴染で親友であったのだ。
だから、和が悲しいことに手を染めていくのをこれ以上見たくなかった。
唯(これで終わりにしよう、和ちゃん)
しかし──
和「ごめんね唯」
寸前で和の手が引かれ、唯の腕は空を切る。
和「見えていないとでも思った?」
和「だとしたら私の演技も大したものでしょう?」
勝ち誇った表情で和がそう告げる。
彼女は今の今まで唯の姿が見えていながら、その全てを無視し続けてきた。
他者にとっては唯の姿が見えていないことが正常であり、和の判断はある意味で
正解とも言える。
現に憂やその協力者である軽音部のメンバーは他者から奇異の目で、唯の死によって
おかしくなったと思われていたのだから。
唯の最大の利点が失われ、振り絞った最後の力も底をついた。
仮に唯の手が和に届いたとしても、もはや彼女はものに触れることができなくなっていた。
和「ふふっ、あなたが見えていた私の勝ちよ」
再び和はリモコンに指を伸ばす。
今度こそ終わりだった。
梓「でも、私の姿は見えていませんでしたよね?」
何故という表情で唯はその後輩の姿を見ていた。
唯の理解が及ぶ前に、梓は和の手からリモコンを奪いとっていた。
和「なに!? なにをしたというの唯!」
突然手の中からリモコンが失われ、初めて焦りの表情を和は浮かべた。
中野梓は数年前に音楽準備室で不慮の事故を遂げた生徒だった。
彼女は成仏することなく、音楽準備室に居座り、生徒を見守り続けてきていた。
どういうわけか平沢姉妹にはそんな彼女の姿が見え、唯が幽霊になってからは律たちと
同様に唯が日常を送れるように手伝いをしていた。
そんな流れで今日もまた梓は憂に頼まれ、憂の留守の間、唯の様子を見守っていたのだった。
形勢は完全に逆転していた。
憂の命を握るリモコンは今は梓の手の中にあり、和の思い描く結末はおとずれることはない。
代わりに唯の望んだ結末がここにはあった。
梓「やれやれです」
ため息をつきながら梓が手の中のリモコンを眺める。
意外にボタンの数が多く、どれが憂を降ろすボタンなのか判別はつかなかった。
唯「あ、あずにゃん……?」
未だに状況の理解できていない唯が梓の名前を呼ぶ。
そこに様々な疑問が含まれていることは明白であったが、梓にとっての今の最優先は
疑問に答えることではない。
梓「説明は後です。今は憂を助けましょう」
そう言って梓は目の前の和を睨み付ける。
梓「そのためにも、このリモコンの使い方を知る必要があります」
和「くっ!」
梓の姿が見えない和ではあったが、雰囲気に気圧されたのか思わず後ずさる。
そして、そのまま反転、駆け出す。
梓は一片たりとも油断をしていたわけではない。
あえて言うなら反射神経の差と地の利だろうか。
和に一瞬でも逃げる時間を与えてしまった。
梓も急いで追いかけるが、僅かに遅れる。
和は最後の足掻きと近くの柱を殴りつけていた。
そこには鎖を吊り下げる機械の手動用スイッチが並んでいた。
憂と梓はすぐにそれが何を意味するのか気づく。
──だけど、全ては遅かった。
鎖が機械から切り離される。
瞬間、憂の体を支えているものがなくなり、浮遊感。
憂の体があっけなく落下していく。
間に合わない。
間に合うはずもない。
その一瞬で反応できる者も、憂の近くに居た者も残念ながらこの時点ではいなかったのだから。
和が恍惚に笑う。
梓が歯を食いしばり、落下する憂の姿を凝視する。
憂が一瞬後の落下の恐怖に目を硬く閉じる。
誰もが諦めていた。
これで終わりだと受け入れるしかなかった。
──だけど、ただ一人だけ諦めていない者が居た。
唯(絶対に憂を助けるんだっ!!)
間に合うはずのない距離を唯が駆けていく。
まるで唯の想いが力を与えているかのように彼女は加速していく。
それは人間では出すことのできない速度だった。
彼女が人間ではなく幽霊だったからこそ出せる限界を超えた速さ。
だから、彼女は最愛の妹が落下しきる前にそこにたどりついていた。
唯は憂を受け止めようと手を伸ばす。
最早彼女の手は何も触れることができない。
それなのに、彼女の手が憂の体に触れる。
衝撃。
生前の唯では絶対に支えることのできなかった衝撃だった。
だけど、彼女はもはや生きている者ではない。
支えきる。
唯は憂を救うことができていた。
限界を超えれば、それは終わりへと繋がる。
確かに唯は憂を助けることはできていた。
だけど、それは自らのわずかな時間を全て注いだからこそ可能な奇跡だった。
故に、唯の身体は徐々に薄くなり、そして──
憂が目を開く。
そこには最愛の姉の笑顔が広がっていた。
憂「お姉ちゃん」
朝の目覚めのように穏やかな声で憂が姉を呼んだ。
それに答える様に唯は笑顔のまま頷く。
──唯はその存在を失った。
エピローグ
あれから様々なことがあったような気がする。
あの人は法のもとで裁かれ、お姉ちゃんのために協力してくれていた律さんたちは
日常へと戻り、梓ちゃん……いえ梓さんは以前と同じように音楽準備室で私たちを
見守っている。
もう立ち直れないかとも思ったけど、皆に支えられて私は何とか今日も生きていた。
──スポットライトの下、私はギー太を構える。
振り向けば今もそこにお姉ちゃんが居るような気がする。
だけど、そんなことはありえない。
あの日々が特別だっただけなのだ。
奇跡のように幸せだったから、尚更切なくなってくる。
──律さん、澪さん、紬さんもそれぞれの愛器を構え、私に合図を送ってくる。
未だに現実を受け入れることは辛いけど、少しずつ私は前向きになっているのだと思う。
だって、私は誓ったのだから。
お姉ちゃんの分まで生きる、それが姉にもらった命の使い方だった。
──舞台裏で梓ちゃんがギターを持って、私に頷いた。
そして、お姉ちゃんの愛した放課後ティータイムに私は今所属している。
お姉ちゃんの音を皆に届けるために。
お姉ちゃんが生きた証を奏で続けるために。
──皆の準備が整ったようだった。
ここは文化祭のステージ。
お姉ちゃん、見ていてくれているかな。
私は今お姉ちゃんと同じ場所に立っているよ。
お姉ちゃんに追いつくにはまだまだ全然足りないけど、きっといつか追いつくから。
──スポットライトの白い明かりに照らされて、私は告げる。
憂「それでは1曲目──」
※原作が気になる方はフリーゲームですので、検索してみるのもいいかもしれません。
最終更新:2010年04月21日 21:51