紬「……」
豊崎「あっ、戻ってきた」
日笠「災難だったねー、店長に怒られるなんて。
でも琴吹さんが悪いんだよ?
あんなバカなことするからさ~」
佐藤「客に向かって『帰れ』はないよね~」
紬「……」
豊崎「でも運が悪かったよね」
紬「?」
日笠「実はさ、あんたが『帰れ』っつったあの中学生、
佐藤の弟なんだよ~」
佐藤「そうそう、バイト終わって家に帰ったらさ、
ぶっといマユゲの店員に帰れって言われた~とか言うもんだからさ、
店にクレーム入れとけってアドバイスしたの。
それがまさかうちの店の琴吹さんのことだとは思わなかったわー」
日笠「マジ運悪いなー!」
紬「っ……」
そうか、最初から全て仕組まれていたことだったのか。
私はまんまと彼女たちの罠にはまってしまったというわけだ。
彼女たちはこれから後、このことをネタにして
何度も何度も笑い話に花を咲かすのだろう。
そう考えると胸の奥にふつふつと怒りが沸き起こってきたが
唇を噛んでぐっと堪える。
ここで堪えることをやめてしまえば、
彼女たちの思うつぼだ。
ここでバイトを辞めるのも悔しいし、
失敗を重ねて首になってしまうのは余計に惨めだ。
どんな嫌がらせも乗り越えて、
一人前の店員目指して
バイトを続ける。
それしか選択肢はない。
それに反対する親を必死に説得して
なんとか許してもらったバイトだ。
どんな形であれ、辞めるなんてことになれば
もう二度とこういうことはさせてもらえないだろう。
いや余計なことをうだうだと考えても仕方がない。
今の私にできるのはバイトをすることだけだ。
私はその後は仕事に専念した。
勤務終了までに2回の注文ミスと
ポテトをひっくり返したのと
レジを壊してしまったこと以外には
特に失敗もなかった。
翌日、放課後。
紬「実は今日もバイトで……」
澪「えっ、そうなのか?」
唯「ぶー、せっかく今日は珍しく練習する気まんまんで来たのに!」
紬「ごめんなさい」
梓「ムギ先輩、こう言っちゃ何ですけど……
部活に支障があるようなら、
どっちかに絞るべきだと思いますよ。
部活をするか、バイトをするか」
紬「それは……その……」
澪「そうだな、梓の言うとおりだ。
今すぐに答えを出せとは言わないから、
ちょっと考えといてくれないか」
紬「うん……」
律「大変だなあムギも」
マックスバーガー。
紬「いらっしゃいませーどーぞー」
バイトか、部活か。
梓の言うとおり、
どちらかを取ってどちらかを捨てるべきなのだろう。
でもバイトは辞めたくないし、
みんなと楽しく音楽ができる部活も大事だ。
そういえば最近はバイトバイトバイトで
まったくみんなと演奏をしていない。
今度まともに部活を出来るのは、
いつのことになるのだろうか。
紬「いらっしゃいませー」
唯「あっ、ムギちゃんみーっけ!」
澪「お、ほんとだ」
律「おーい、むーぎー」
梓「本当にバイトしてたんですね」
紬「…………え、なんで?」
唯「ごめんねー、実はこっそり尾行してたんだー」
澪「いや私は反対したんだよ、
でも唯たちが勝手に」
唯「それでさ、竹達通りのあたりで見失っちゃって、
で、その辺にあったファーストフードのお店に
かたっぱしから入ってチェックしたの!」
律「『
琴吹紬っていう店員はいませんかー!』ってな」
梓「すごく恥ずかしかったんで
もう2度とやらないでくださいね」
紬「あ、そ、そうなの……」
豊崎「……あら?
琴吹さん、お友達?」
紬「はい……同じクラスの……」
豊崎「そうなんだ。私豊崎と言います、よろしくね。
琴吹さん、頑張って働いてくれるから、すっごく助かってるのよ」
紬「……」
恐ろしいほど完璧な接客用笑顔で
彼女はナチュラルに心にもない言葉を吐いた。
唯「へーそうなんですか、
やっぱムギちゃんってすごいなー」
豊崎「そうなのよ、この前だってみんなが困ってたときに
琴吹さんのおかげで解決できたことがあったんだから」
澪「ムギって意外と凄いんだな」
梓「見直しました」
豊崎「琴吹さんはこの店で一番のやり手と言っても過言ではないわ。
ね、琴吹さん?」
紬「そ、そんなことは……
それよりみんな、何か食べてくんでしょ?
なんにする?」
唯「私、ビッグホイコーローバーガーのセットで!」
澪「夕食前にそんなもん食うなよ……
あ、私はポテトMとオレンジジュースで」
律「あ、じゃあ私もそれ」
梓「私はポテトとマックスシェイクのウニ味で」
紬「かしこまりました、少々お待ち下さい」
唯「おー、なんかかっこいい」
私はみんなの注文どおりに
ジュースとシェイクをカップに注ぎ
ポテトとバーガーのセットを用意する。
私は目の前の作業に集中していたが
レジの端の方で豊崎と佐藤がひそひそと話しあっていたのを
見逃しはしなかった。
また彼女たちは何かをしてくるつもりだろうか。
大切な友人たちの目の前で、
私が醜態をさらす。
それは彼女たちにとって
三日三晩は笑い転げられるくらいのネタになるだろう。
しかし今日は、
彼女たちの思い通りにはさせない。
友人たちが見ているのだ。
彼女たちの動向に気を払い、
スキを見せないようにしなければ。
紬「お待たせいたしました、
ビッグホイコーローバーガーのセットと
ポテトMが3つ、オレンジジュース2つ、マックスシェイクのウニ味です」
唯「わーい、もうお腹ぺっこぺこだよ~!」ぱくっ
律「あ、こら、人のポテトをつまむな!」
澪「じゃな、ムギ。私たち、向こうで食べてるから」
紬「う……うん、またね」
友人たちはきゃっきゃと笑いながら
トレイを持って店の奥へと向かっていく。
その背中を見ていると、
なんだか友人たちが遠くへ行ってしまうような気がした。
紬「……」
豊崎「こ、と、ぶ、き、さーん」
紬「……なんですか?」
豊崎「さっきの子、友達なんだよね?」
紬「はい、そうです」
豊崎「あんたに友達いたんだねー。知らなかったよ。
バイトで孤立してるから、
学校でもそうなんだと思ってたわ~」
紬「……」
日笠「どうせあれでしょ、ハミ出もの同士で固まったグループなんでしょ」
豊崎「あっ、ありそうだね。
みんな冴えない子ばっかだったしね~」
紬「……」
豊崎「それはそうとさ、
あんたの友達が座ってるテーブルの横に
おっさんがいるじゃん」
紬「はい」
豊崎「その人にさ、このコーヒー持ってってくんない?
さっき注文間違えちゃってさー」
紬「……はあ」
注文ミスなど嘘だろう。
適当な客に適当な商品を持っていかせる、
いつもの軽い嫌がらせだ。
友人たちに困っている私の姿を見せつけようという魂胆だろう。
しかし私は変に逆らわず、
おとなしくあつあつのコーヒーを受け取り、
レジを出て客の元へと持っていくことにする。
「そんなもん注文してない」と言われたら
「そうですか、他の店員が持っていけと言っていたので……」
といえば済む話だ。
そしてコーヒーを運ぶその途中、
友人たちが楽しく談笑しながら
ポテトをつつきジュースを飲んでいるテーブルを横切ろうとした時。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」
紬「!!」
唯「うわっ」
澪「ななんあななな」
律「何だこの音!」
私のポケットの中からけたたましい音が響き始めた。
どうやら制服のポケットに何かが仕込まれてたようだ。
いつ誰がどうやって、なんてことを考えている余裕などない。
私はポケットの中にある何かを出そうとして、
慌てて制服のポケットをまさぐる。
しかしどこからも何も出てこない。
その間も強音は鳴り続ける。
他の客からの迷惑そうな視線が
いくつも私に突き刺さる。
店長「こ、琴吹さん! なんなの、この音は!」
紬「あ、て、てんちょ……!」
音を聞きつけてやってきた店長の方に振り返ろうとしたとき、
あっつあつのコーヒーを唯の頭上にひっくり返してしまった。
唯「あっつー!!!!」
事務所。
怒りを通り越して呆れた顔の店長を前に
私は頭を上げられなかった。
店長「君ねえ……分かってる?
自分が何したか……」
紬「……」
店長「店中にあんなうるさい音を鳴り響かせて……
そのうえお客様にホットコーヒーをぶっかけるなんて」
紬「……」
店長「お客様が火傷でも負ったらどうするつもりだったんだ? え?
お前責任とれんのか? ん?」
紬「……」
店長「だいたいなんだよ、あの音は!
くだらんオモチャをバイトに持ってくるんじゃない!」
紬「すみません……」
店長「はあ……昨日注意して、
また今日こういうことされるとねえ」
紬「……」
店長「言ったよね、首だって」
紬「……」
店長「じゃあ、そういうことだから」
バタン
唯「待ってください!」
事務所のドアを開けて、
友人たちが飛び込んできた。
店長「な、なんだね……
いや、なんでしょうか、お客様」
唯「首にするなんて駄目ですよ!
私はなんともないですから、
ムギちゃんを首にするなんて言わないであげてください!」
澪「そ、そうですよ。
ムギは時々こういうミスもするけど、
すっごくがんばりやさんで……」
梓「そうです。それに、ムギ先輩は
この店で一番のやり手だと聞きました!
そんなムギ先輩を辞めさせるのは、
店長にとっても得策ではないはずです!」
紬「………………」
店長「はあ? 一番のやり手? この子が?
あまりバカなことをおっしゃらないでいただきたい」
梓「え?」
店長「あなた方がどういうふうに聞いていたのかは知りませんが、
この子はこの店で一番使えない子なんですよ」
紬「……」
店長「もうバイト始めて何ヶ月にもなるのに、
未だに仕事覚えないし、
注文は間違えるし、レジは壊すし、
接客態度も全然ダメだし……
この子を名指ししたクレームがいくつも来てるんですよ」
梓「……」
澪「……」
梓と澪の顔に失望が浮かんだのが分かった。
まあ無理もないだろう。
店長「今度大きな失敗をしたら首だと、
事前に言っておいたんです。
その矢先にこれですからね」
唯「で、でもでも……
ムギちゃん、とってもお仕事好きみたいだし、
毎日バイト頑張ってるみたいだし……
今回は大目に見てあげてください、
お願いします!」
こんな私のために、
必死に頭を下げてくれる唯。
素晴らしい友人を持ったという感動よりも
申し訳なさと惨めさばかりがこみ上げてくる。
店長「頭を下げられても無理なものは無理です。
もう琴吹さんはうちの店には置いておけません。
クビです、クビ」
唯「そんな……」
店長「いいね、琴吹さん」
紬「はい……」
唯「ムギちゃん!」
紬「いいのよ、唯ちゃん……
ごめんね……ありがとう」
唯「でも……」
紬「ぜんぶ私が悪いんだから、
唯ちゃんがそんな顔することないわ。
ふふ、でもこれで明日からは軽音に戻れるわね」
澪「……」
梓「……」
店長「制服はクリーニングしてから返してね」
その後、私たちは5人で帰ることにした。
外はすでに暗くなっていた。
私は今までのバイトの話を
すべて正直に打ち明けた。
梓「それじゃあ完全なイジメじゃないですか」
澪「そうだよ、こんなのダメだろ。
もう一度店に戻って、店長さんにワケを話せば……」
紬「いえ、もういいの、もういいのよ。
私が仕事のできないダメ店員なのは変わらないんだし、
イジメがなくったって遠からず首になっていたわ」
澪「でも……」
梓「ムギ先輩はお人好しすぎますよ」
律「でもそんなクソみたいなバイトなんて
こっちから辞めてやれば良かったのに。
なんでしぶとく居座ってたんだよ」
紬「せっかく始めたバイトだし……
親を説得するのも大変だったから、
こんな簡単に辞めちゃったら
親になんて言われるか分からないわ」
梓「親のことばっか気にしてちゃダメですよ」
紬「それに……
逃げてるばかりじゃ成長できないしね」
律「成長ねえ」
紬「私、ずっと世間知らずで、
今まで私の世界はすっごく狭かったの」
澪「ほう」
紬「でも高校に入って、
みんなと出会って……
友達が増えて、音楽をやって
それでいろんなことを知ったわ。
自分が一気に大きくなったような気がしたの」
唯「しゃれこうべ……」
紬「で、今はもう昔の私とは違うんだ、って、
いろいろな新しいことが出来るようになったんだ、って
もっと違う世界を見たい、もっと成長したいって思って
それでバイトを始めてみたの」
澪「へえ」
紬「でも失敗だったわ。
自分のダメなとこを思い知らされた。
私は大きくなれたって思ってたけど、
全然そんなことはなかったのよ。
ただ勘違いして、調子にのっていただけだったの」
澪「何言ってんだよ、
このバイトはつらかったかも知れないけど……
でもムギは確実に成長したんだ」
紬「えっ……」
澪「自分のダメなところを知る……
それも立派な成長だよ。
人は良いことばかりを経験して生きていくわけじゃない。
確かに嬉しいこと楽しいことは人生にとってプラスだし
失敗や挫折はマイナスになるだろう。
でもマイナスだからダメと言うわけではないんだ。
なぜならば人はマイナスをバネにして、
より大きなプラスをつかむことが出来るのだから……」
律「ぶっ」
梓「く……くくっ」
紬「澪ちゃん……
ありがとう、私、目がさめたわ」
澪「分かってくれたか」
紬「ええ、マイナスを大きなプラスに……ね。
私、がんばるわ」
梓「え、またバイトするんですか」
紬「ふふ、しばらくはもういいわ。
やっぱり私は軽音部の方が大事だから」
梓「そうですか。良かったです」
紬「それに、軽音部でも成長することはできるからね。
もうあんまり焦って一人で大きくなろうとせずに、
みんなと一緒にのんびりやっていくわ」
律「一緒にのんびり成長か~。
いかにも私たちの軽音部らしいな」
澪「はは、そうだな」
こうして私はバイトを辞めて、
軽音楽部に戻ることになった。
みんな、またよろしくね。
お わ り
最終更新:2010年05月01日 21:59