律「事実は小説より奇なり、ね」

面白い偶然もあるもんだ、と律は独り言ちた。

現代文の課題の範囲である『夏目漱石』の『こゝろ』の文書を
目で追いつつ、問題を解いていく。

不思議な程、問題が解けていく。

律「まるで、この『わたし』は私で、『K』は唯で、『お嬢さん』は澪じゃん」

自分の行動はそっくりそのまま、この物語の『わたし』を
なぞったかのようだ――馬鹿馬鹿しいと思いつつも、笑い飛ばす気にはなれなかった。

いよいよ課題の最後の問題を解こうとして、律の手が止まった。
問題文を読んで、数回教科書の最後あたりの文書を目で追っていく。

最後の問題はこんな問題だった。


『Kの自殺の理由を二つ挙げよ』


自殺の理由。

『K』の自殺。

唯の自殺の理由。

『K』の遺書に残された最後の一文と唯の遺書に残された最後の一文。

――どうしてもっと早く死ななかったのか。

全く内容は違うし、そもそも『こゝろ』の遺書には澪――つまり『お嬢さん』の
名前は一切出てきていないが、それでも、何か、運命的な何かを感じずにはいられなかった。

数分間考えて、結局板書してあるはずのノートを開く。

答えは二つ書いてあった。

一つは――教科書の本文通り、
生きていたために自らの道を踏み外してしまったという理由。

もう一つは――生きていたために
信頼していた『わたし』の裏切りを知ることになったという理由。


律「そういうことなのか……?」

唯が死んだ理由。
前者は無いにしても、後者の可能性は十分にあるのでは?

もっと早く死んでいれば、律が、唯を、澪を苦しめていた
犯人だと知ることはなかったはず。律の裏切りは、唯の心に
どれほどの傷を追わせたのかは、わからない。

死に追いやるほどに致命傷だったのか。それとも……

律「……いや」

でも、何かが決定的に足りない。
唯をその理由が、自殺にまで及んだというのには、どこか納得し難い部分がある。

あと一つ。何かが足りない。何かが――

机上の携帯電話が鳴って律の思考が切れる。
電話を開いてみると、予想通り、紬からだった。

――律が紬に糾弾されても、
こうして落ち着いて問題に打ち込めているのには、確信があるからだ。
紬は絶対に律が唯や澪にしてきたことを誰にも言わない、という。


今、この状況で仮に律が澪たちを苦しめてきた張本人だと、
たとえば澪が知ったらどうなるか――優しすぎる紬がその後の
ことに思考を巡らせれば、そんなことは絶対にできるはずがなかった。

紬からのメールに返事をして、その日は結局寝ることにした。


軽音部は実質崩壊したも、同然だったため、
律は放課後は唯の家へと直行することにしていた。

相変わらず無用心というのか、施錠がされていないので律は、何事もなく家に上がれた。
勝手知ったる風に律は、仏間に行こうとして、その足が止まる。

律「……なんだ?」

何か、暗い呪詛のようなものが耳孔を掠めた気がして、律は音のする方へと視線を向けた。

そこは、たしか、律の記憶が正しけれだ洗面所であったはず。

律は知らないうちに、その不気味な声のする洗面所へと足を進めていた。



廊下と洗面所を仕切るドアを開けて、律は絶句した。

息をすることすら、忘れて零れんばかりに目を見張る。

様々な種類の感情が律の胸に濁流のように流れこんで、律を酷く困惑させた。

律「ゆ、い……」

洗面所の鏡を両の目を見開いて、唯は鏡に映った自分の頬を撫でた。

「お姉ちゃん……」

唯は鏡の自分に向かってそう言った。

否、唯じゃない。

唯は既にこの世にいない。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん……」

唯ではなく、その妹の憂は虚ろな瞳で、
けれども恍惚そうな表情を浮かべて鏡に映った姉の名を呼ぶ。


本当に姉にそっくりだった。しかし、生き写し――というより
姉である唯を憂は模倣しているかのようだった。

何のため?

憂「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん」

律「――憂ちゃん」

不意に憂の唇が動きを止めた。
鏡に映った『姉』ではなく、律の方へと視線を移す。

律「憂ちゃん……」

かつて、そこにあった光どこにもはなかった。
どこまでも深い闇の支配した憂の瞳が、律を憎悪を持って睨む。

憂「どうして……お姉ちゃんを、どうしてお姉ちゃんを殺したんですかぁ……?」

唯の姿をした憂が言った。
光を失った双眸を除けば、本当に姉妹は似ていた。
唯の姿をしていた憂は、最後に自分に言の葉を向けた唯を律に思い出させた。


不意に何かが脳裏で閃く。

律「……――っ!!」

わかった。

わかってしまった。

どうして唯が自殺したのか。

どうして、最後に唯は律と一緒に帰ったのか。

よく考えれば、否、考えるまでもないことだった。

教科書の本文を見ればすぐわかることだった。
いや、それどころか、あの文書そのものが答だったと言ってもいい。

律「憂ちゃん、唯を殺したのは私じゃない」

確かに律は、唯を追い詰めた。追い詰めようとした。



憂「う、う嘘をつかないで、下さい……っ」

どこかイカレてしまったかのようは吃音は、
実際に憂の中の何かが壊れかけているのを示唆していた。

憂「だ、だだって、昨日いいぃ言ってたじゃないですかっ
紬さんが……つつ紬さんがあっ……」

なるほど……会話を聞かれていたか。だが、そんなことは今更どうでもよかった。

律はゆっくりと憂へと近づいていく。

律「うん。ムギの言ったことは全部本当だ。
けど、唯が死んだ理由はさ、私が唯を追い込んだからじゃないんだよ」

そう、唯を自殺に追い込んだのは律じゃない――いや、
律も無論、関係が無いわけではない。

けれど――

後ずさる憂を律はゆっくりと抱きしめる。
憂のやつれ果て、尖ったおとがいが、律の肩を突き刺した。


律「憂ちゃん――」

唯は、律が自分を追い込もうとしている犯人だと気づいた時、もう一つ決定的な
ことに気がついた。あまりにも決定的なそれは、唯を死へと文字通り追いやった。


――唯を自殺に追い込んだのは、他でもない――律に対する罪悪感であり後悔だった。


もしかしたら、それはあの物語の『K』の自殺の理由の一つだったのかもしれない。

唯が自殺した前日、あの日、唯が律に向けて言った言葉を憂の耳元で囁いた。


律「――ごめんね」

おわり



最終更新:2010年05月10日 22:25