自殺の理由。

『K』の自殺。


――唯の自殺の理由。

『K』の遺書に残された最後の一文と唯の遺書に残された最後の一文。

――どうしてもっと早く死ななかったのか。

全く内容は違うし、そもそも『こゝろ』の遺書には澪――つまり『お嬢さん』の
名前は一切出てきていないが、それでも、何か、運命的な何かを感じずにはいられなかった。

数分間考えて、結局板書してあるはずのノートを開く。

答えは二つ書いてあった。


一つは――教科書の本文通り、 生きていたために自らの道を踏み外してしまったという理由。

もう一つは――生きていたために 信頼していた『わたし』の裏切りを知ることになったという理由。



律「そういうことなのか……?」

唯が死んだ理由。

前者は無いにしても、後者の可能性は十分にあるのでは?

もっと早く死んでいれば、律が、唯を、澪を苦しめていた 犯人だと知ることはなかったはず。

律の裏切りが唯の心にどれほどの傷を追わせたのかは、わからない。

死に追いやるほどに致命傷だったのか。それとも……

律「……いや」

でも、何かが決定的に足りない。
その理由が唯を自殺にまで追い詰めたというのには、どこか納得できない。


あと一つ。何かが足りない。何かが――

机上の携帯電話が鳴って律の思考が切れる。
電話を開いてみると、予想通り、紬からだった。

――律が紬に糾弾されても、 こうして落ち着いて問題に打ち込めているのには、確信があるからだ。

紬は絶対に律が唯や澪にしてきたことを誰にも言わない、という。



今、この状況で仮に律が澪たちを苦しめてきた張本人だと、
たとえば澪が知ったらどうなるか――優しすぎる紬がその後の
ことに思考を巡らせれば、そんなことは絶対にできるはずがなかった。

紬からのメールに返事をして、その日は結局寝ることにした。


軽音部は実質崩壊したも、同然だったため、 律は放課後は唯の家へと直行することにしていた。

相変わらず無用心というのか、施錠がされていないので律は、何事もなく家に上がれた。

勝手知ったる風に律は、仏間に行こうとして、その足が止まる。

律「……なんだ?」

何か、暗い呪詛のようなものが耳孔を掠めた気がして、律は音のする方へと視線を向けた。

そこはたしか、律の記憶が正しけれだ洗面所であったはず。

律は知らないうちに、その不気味な声のする洗面所へと足を進めていた。




廊下と洗面所を仕切るドアを開けて、律は絶句した。

息をすることすら、忘れて零れんばかりに目を見張る。

様々な種類の感情が律の胸に濁流のように流れこんで、律を酷く困惑させた。

律「ゆ、い……」

洗面所の鏡を両の目を見開いて、唯は鏡に映った自分の頬を撫でた。

「お姉ちゃん……」

唯は鏡の自分に向かってそう言った。

否、唯じゃない。

唯は既にこの世にいない。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん……」

唯ではなく、その妹の憂は虚ろな瞳で、けれども恍惚そうな表情を浮かべて鏡に映った姉の名を呼ぶ。


――憂もまた、唯の死によって壊れてしまったものの一つだった。

その事実に今更のように気づいて律は、戦慄した。



唯の格好をした憂は、本当に姉にそっくりだった。しかし、どうして憂は唯を真似る?

何のために?

理由を想像する。想像して自分の顔から血が引いていくのを感じた。

憂「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん」

律「――憂ちゃん」

不意に憂の唇が動きを止めた。 鏡に映った『姉』ではなく、律の方へと視線を移す。

律「憂ちゃん……」

かつて、そこにあった光どこにもはなかった。
どこまでも深い闇が支配した憂の瞳が、律を憎悪を持って睨む。

憂「どうして……お姉ちゃんを、どうしてお姉ちゃんを殺したんですかぁ……?」

唯の姿をした憂の声は、壊れた蓄音機を連想させる。

光を失った双眸を除けば、本当に姉妹は似ていた。

唯の姿をしていた憂は、最後に自分に言の葉を向けた唯を律に思い出させた。


不意に何かが脳裏で閃く。

律「!!」

わかった。

わかってしまった。

どうして唯が自殺したのか。

どうして、最後に唯は律と一緒に帰ったのか。

よく考えれば、否、考えるまでもないことだった。

教科書の本文を見ればすぐわかることだった。 あの文書そのものが答だったと言ってもいい。

律「たしかに……私のしたことによって唯は死んだ……でも、殺すつもりはなかったんだよ」

確かに律は、唯を追い詰めた。追い詰めようとした。でも、殺そうとは思わなかった。殺したいとも思わなかった。

ただ、奪いたかっただけだ。

唯から澪を。



憂「そ、そそんなの嘘ですっ……っ」

どこかイカレてしまったかのようは吃音は、 実際に憂の中の何かが壊れかけているのを示唆していた。

憂「だ、だだって、昨日いいぃ言ってたじゃないですかっ紬さんが……つつ紬さんがあっ……」

なるほど……会話を聞かれていたか。だが、そんなことは今更どうでもよかった。

律はゆっくりと憂へと近づいていく。

律「うん……ムギの言ったとおりだよ。私が唯を追い詰めた 」

追い詰めて追い詰めて、唯を苦しめた。

ただ、自分の願望のためだけに。

澪が欲しくて。

そして――

後ずさる憂を律はゆっくりと抱きしめる。

憂のやつれ果て、尖ったおとがいが、律の肩に触れた。



その顎の感触が、自分が犯してしまった過ちの重さを伝えた。


――ああ、そうか。きっと私は……


律「憂ちゃん――」

唯は、律が自分を追い込もうとしている犯人だと気づいた時、もう一つ決定的な ことに気がついた。
あまりにも決定的なそれは、唯を死へと文字通り追いやった。


――唯を自殺に追い込んだのは、他でもない――律に対する罪悪感であり後悔だった。


もしかしたら、それはあの物語の『K』の自殺の理由の一つだったのかもしれない。




唯が自殺した前日、あの日、唯が律に向けて言った言葉を憂の耳元で囁いた。










律「――ごめんね」







田井中律は、大学生になって地元を離れた――それが四年前。

彼女が大学生になり、地元を離れて一週間後――秋山澪は死んだ。

唐突に何の前触れもなく交通事故で、死んだ。

澪の葬儀が行われたその日、梓は悲しみ以上の疑問を抱いた。

田井中律が、その場にいなかったことが、不思議で仕方がなかった。

そして、紬の涙の混じった小さな呟き――

『気づいてしまったのね』

結局。何も梓はわからなかった。

五年前の平沢唯の自殺の真相も。



冷たい何かが頬を伝って、梓は合掌をやめた……どうやら、雪のようだ。

――律とは彼女の卒業式以来会っていない。彼女がどこの大学に行ったのかも、実のところ梓は知らなかった。
彼女の担任であった山中さわ子に聞けば、当然わかることだったが、梓は聞こうとはしなかった。

それに――おぼろげながら梓は察していた。


律はきっと梓に会うことも、紬に会うことも望んでいない――明確な理由は存在しなかったが、なぜか、そんな気がした。


梓「じゃあ、唯先輩……そろそろ行きますね」

結局今になっても全てが、全てわからずじまいだった。

けれど、これもまた確信なんてなかったが、それでいいと思った。

知らないほうがいいこともある――そんな知ったような口を聞くつもりはないけれど。

いずれ知る機会もあるかもしれないが、それは今じゃなくていい。


また来ます――そう心の中で唯に告げて、梓は唯の眠る墓地を後にした。




おわり



最終更新:2010年05月10日 22:33