深夜の半蔵門スタジオ。やさしい夜遊びの収録を終え、桑田はコーヒーを飲終えるまでの短い休憩に身を委ねていた。

スタッフ「桑田さん、お疲れさまでしたー!」
桑田「お疲れ、ありがとね。」


労いの言葉に一瞬の安堵を感じるが、桑田の仕事はまだ終わっていない。
この後は青山のスタジオへ移動。到着し次第、10月に発売するアルバムの為の作業に入らなければならない。

また、今年度はアルバム発売に伴っての5大ドームツアーも控えている。
今年もまた一瞬で過ぎてしまうのだろう。

桑田はコーヒーを飲み干すと、スタッフ達に「お疲れ!」と声を掛け、まだ撤収作業で騒がしいスタジオを後にした。


サザンオールスターズとしてメジャーデビューしてから30年以上が過ぎた。

青山学院の音楽サークルとして、ただ楽しくてやっていた音楽。
クラプトンに憧れ、ビートルズに憧れ、リトル・フィートに憧れ、講義にも出ず音楽に没頭した毎日。

それがいつの間にかサザンオールスターズとしてメジャーデビュー。
大学はその流れで除籍。


今は、ただ楽しいだけで音楽をやっている訳ではない。
時にはビジネスとして考えなければならない。増えすぎたファンの気持ちにも答えなければならない。

そして何より、一番考えなくてはならないのは、一人歩きしてしまった‘サザンオールスターズ’そして‘桑田佳祐’という名前の大きさと、等身大の自分との葛藤だった。


売れて当然、名曲を生み出して当然。
月並みだが、当事者にしかわからない重圧が両肩にのし掛かる。
もちろん、音楽で食べていく事を決めた時点で、それは覚悟すべき事であった。

      • しかし、果たして今の自分にとって本当に音楽は楽しい物なのだろうか。

どうしても時々、そんな自虐的な考えが脳裏を過る。


ただ楽しくて、音楽をする為に生きていたかのような昔の自分。
    • それが、今。
必要に駆られて、自分ではない何かの為に、それ以上にまるで生きるために音楽をやっているかのような自分。

先ほど飲んだコーヒーの味が、まだ口の中に残っている。
唾と同時にそれを飲み込むと、少し冷静になったかのような感じがした。


桑田(…考えるのはよそう)

いくら考えても、掘り深まるばかりで状況は何も変わらない。
桑田は移動中の車の中で目を閉じると、青山に着くまでの時間を仮眠に使い、少しでも疲れた身体を癒す事にした。


いつからだろう。
周囲は自分の事を大御所だと言う。
いつからだろう。
街を歩くだけで、自分にとって日本は世界で一番危険な国になる。

等身大の目線。
それが何なのかわからなくなる。

意識が段々と遠くなって来た。
良かった。少し眠りに就ける。

眠っている間は、余計な事を考えずに済む。
眠っている間は・・・。



(…先生!)

(……桑田先生!!)

桑田「…ん?」
さわ子「桑田先生!もう、赴任一日目から居眠りですか?」
桑田「ふ、不倫?」
さわ子「赴任です!…同じ音楽教師として、今日一日桑田先生の研修をご指導させて頂く、山中さわ子です。よろしくお願いしますね。」
桑田「んなぁ?」


さわ子「ええ、うちの高校、なかなか音楽室の設備が良いんですよ?…準備室はちょっとアレですけど…さぁ、案内しますから、付いて来て下さい?」
桑田(俺は青山に向かっていたんじゃなかったか…その前に、教師?俺が?)
さわ子「こちらですよ。」
桑田(ドッキリか?その辺でユースケ見てるんじゃないか?)


桑田は現在の状況が飲み込めていなかった。飲み込む方が無理と言う話か、先程までは確かにマネージャーの運転で青山に向かっていた筈なのに、仮眠して起こされたかと思うと見知らぬ学校で「先生」等と呼ばれている。
教職免許など持ってはいないし、そもそも自分は大学除籍だ。一体何が起きているのか、桑田には理解できなかった。
ただ、何となく感じる「通常ではない事態」の匂いを必死で否定する為、なにかしらの番組の企画ではないかという疑いに期待していた。


さわ子「…この階段を上った先が音楽室です。」
桑田(番組だよなぁ、何かの番組だよなぁ、打ち合わせも何もしてないけど、番組だよなぁ。)
さわ子「こっちが準備室なんですが…先に音楽室を案内しますね。」
桑田(番組なら何か面白い動きした方が良いか?)
さわ子「ほら、これ、兎と亀なんですよ?」
桑田「いやぁ、亀、亀かぁ。」


桑田「クリとリスなら面白かったんですけどねぇ。って何言ってんだ全くー。」
さわ子「・・・は?」
桑田(・・・意味わかってない!?いや、こういう企画か?)
桑田「あ、亀の方が好きなんですか?ははは」
さわ子「・・・おい桑田先生」
桑田「ハイ」
さわ子「どうされたんですか?さっきから様子がおかしいですけど・・・」
桑田「…すみませんが、トイレに行って来ても良いですか?」
さわ子「…えぇ、構いませんよ。トイレはそちらです。」
桑田「どうも。」


別に本当に用を足しにトイレに来た訳ではない。飽くまで状況を分析する為だ。

桑田(…そういえば、服も変わってるな、さっきまでは私服だったのに、スーツなっている。)
桑田(…持ち物は?)ゴソゴソ
桑田(これは…)

教員免許。取った覚えのない免許証を、何故か桑田は持っていた。名前もしっかり「桑田佳祐」と記載されている。


桑田(あの教師の反応は素人っぽいし・・カメラがある感じもしない。どういう事だ…夢か?そうか、夢だな。最近疲れが溜まっていたし…やれやれ。)

水道の蛇口を捻り、顔を洗う。刺激を与えれば目も覚めるだろう。

桑田「ふぅ。」

ハンカチで顔を拭い、顔を上げる。
自分のような他人のような顔が鏡に映った。


残った水滴を拭いながら、桑田はハッとして再び、今度は噛み付くように鏡を凝視した。
桑田(…そんなバカな…)
桑田(…)
桑田(若返ってる…!?)

鏡に映っていた自分の姿。
それは見知っていながらも懐かしさを感じる、妙な感じを覚える物だった。

22歳頃の見た目。
自分が、サザンオールスターズとしてデビューした頃のあの姿に、桑田佳祐は戻っていた。


桑田「みんな昔と顔変わってないって言ってくるけど、こうして見ると変わってたんだな、やっぱり。」

不思議な感覚だった。
まるで懐かしい人と、もう二度と会えないと思っていた人と再会したような、そんな感覚。
最初は嬉しさもあり、鏡をまじまじと眺めていたが、一つの事に気がつくと、桑田はガックリと肩を落とした。

これで、ドッキリの可能性はなくなった。


さわ子「あぁ、桑田先生、大丈夫ですか?体調がお悪いとか…」
桑田「…大丈夫です。」
さわ子「そうですか…。もし何かあったら遠慮なく言って下さいね。」
桑田「ありがとうございます。」(何かありすぎて困ってるんだけどなぁ。)

桑田(…)
桑田(…夢…夢にしては妙な気がする。いつまでも覚めないし、そもそもリアリティがあり過ぎる。携帯のメモリに知り合いの名前はなかったし、自宅にも繋がらなかった。一体これは…。)


さわ子「さぁ、先生それじゃあ…」
律「あ!さわちゃん!」
さわ子「田井中さん。おはよう。」
律「おはよ~。あれ、この人誰?」
澪「こら!初対面の人に対して‘この人’はないだろ!」


さわ子「そうよ、田井中さん、この人は新しい音楽の先生なんだからね。」
律「え?そうなの?」
澪「赴任して来たって事ですか?」
さわ子「ええ。また改めて紹介はあると思うけど、先に紹介しておくわね。音楽を担当する桑田佳祐先生よ。失礼のないようにね。」
澪「え、えと、秋山澪です。よろしくお願いします。」


律「田井中律で~す!よろしくなーけいちゃん!」
桑田「あぁ、よろしk…」
澪「こら!」ポカッ
律「いったぁ~…」
桑田「」
澪「先生に対して何て呼び方するんだ!全く!」
さわ子「もう、あなた達は誰に対しても変わらないのねぇ。ごめんなさい桑田先生、悪い子達ではないんですよ。」


桑田「あ、あぁ、気にしないで下さい。」(若いなぁ、ノリが。俺が歳を取ったのか…)
紬「あら、みんな。」
唯「おはよう~。」
梓「おはようございます!」
律「おお!なんかみんな揃ったなぁ!」


桑田「みんな?」
さわ子「あぁ、この子達、軽音楽部の部員なんです。」
桑田「軽音・・・」
唯「あれ?りっちゃんこの人誰?」
律「ああ、この人は新しく赴任してきた音楽の桑田佳祐先生だ!みんな失礼のないようにな!」
澪「お前が一番失礼だっただろ。」
律「あれ?そうだっけ?」


唯「そうなんだ~!はじめまして!平沢唯です!」
紬「琴吹紬です。」
梓「中野梓です。よろしくお願いします。」
桑田「よろしく。」(初々しいなぁ。)
唯「ねぇねぇ、けいちゃん先生!」
澪「はぁ、やっぱり律と唯は同レベルか…」
桑田「ん?」
唯「良かったら、私達の演奏聞いてって~!」


澪「こ、こら唯!」
律「あぁ~!良いかもしれないな。」
澪「り、律!」
梓「音楽の先生に聞いてもらうのは良いかもしれません!」
澪「梓まで…」
さわ子「こ~ら、あなた達桑田先生の都合も考えなさい?」
唯「え~?良いでしょ~?けいちゃん先生~!ねぇねぇー!」
律「けいちゃん先生~!」
唯「けいちゃん先生~!」
桑田(こ、こんな若い子達に頼まれたら・・・)
桑田「えー、山中先生、聞く時間ってありますか?」


さわ子「はい、問題ないですけど・・・」
唯「やったー!じゃあみんな!準備しよ!準備ー!」
紬「準備準備~♪」
梓(練習もこれくらいやる気出してくれれば良いのに・・・)
さわ子「すみません、我が侭を聞いてもらったみたいで。」
桑田「大丈夫ですよ。僕も軽音部だったので。」
さわ子「あら、そうなんですか?」
桑田「若い頃ですけどね。」
さわ子「あら、桑田先生まだ20代じゃないですか。」
桑田「・・・ん?」
桑田(・・・そうか!俺はここだと大卒の歳だ!)


さわ子「もう、桑田先生がそんな事言ったら、私も若くないみたいじゃないですか。」
桑田「ハハハ」
さわ子「やめて下さいね?」ギロ
桑田「」ビクゥッ
桑田(何か今視線が鋭くなったような・・・)
さわ子「全く桑田先生ったらぁ。」
桑田「・・・」(気のせいか。)

ジャラララーン!

桑田「…ん?」
さわ子「どうなさいました?」
桑田「いや、今の音…」

ジャラララーン!

桑田(ギブソンの・・レスポールスタンダード?女子高生が…?)

ジャラララーン!

桑田(間違いない・・女子高生があんなギターを持てる時代なのか・・・)


桑田(他の子達もみんな良い楽器を使ってるな・・俺の時代じゃ考えられん)

唯「準備オッケーだよー!」
律「よっしゃー行くぜー!」
紬「どうぞお茶でも飲みながら聞いて下さい♪あ、お菓子もありますよ。」
さわ子「全くあの子達は…。あ、先生どうぞここに座って下さい。」
桑田「あ、はい。」
律「よし、じゃあ曲は…」
唯「ふわふわ時間!」
桑田(ふ、ふわふわ…?)


(演奏中)

桑田(…曲名を聞いた時はどんな物かと思ったが…)
桑田(…演奏は上手いとは言えないが…)
桑田(楽しそうなバンドだ…。)
桑田(今時こういうバンドは少なくとなった気がするな…)
桑田(…いや、メジャーに長く居たせいでそういうバンドが近くにあまりいなくなったのか…)
桑田(楽しそうな演奏、か。)
桑田(…俺は出来てたかな、サザンでも、ソロでも…。)

桑田(いや、出来てた筈なんだ、サザンで、楽しく音楽が・・)
桑田(この子達と同じように・・)


ジャジャ、ジャーン!

唯「いぇーい!!」
澪「…ふぅ。」
律「どうだった?先生!!」
桑田「…」
梓「…あれ…」
紬「…だ、ダメだったのかしら…?」
さわ子「桑田先生?」
桑田「え、あぁ、すみません。…何と言うか、あんまり上手くないですね(笑)」
律「バッサリだー!」
桑田「あー、あー、でもね。」
唯「でも?」
桑田「一緒に混ざりたくなっちゃったな。」
梓(あ・・・)
桑田「あまりにも楽しそうに演奏するもんだから、上手い下手が気になったのは最初だけだったよ。」


梓(私が最初に軽音部の演奏を見た時と同じかも・・・)

唯「えへへ。」
律「はは、楽しそうって言われるのが一番嬉しいかもな!」
澪「そうかもな。」
紬「ふふ♪」
梓(演奏は上手くないって言われたけど…まぁ良いか。)
さわ子「確かに…。」
桑田「え?」
さわ子「技術以外の何か。それがこの子達の武器かもしれません。」
桑田(技術以外の何か…。)


律「よっしゃー!この調子で武道館まで突っ走るぜー!」
唯「おー!」
桑田「ぶ、武道館・・ねぇ。」
律「おう!有名になるぜ!」
唯「けいちゃん先生!今のうちにサイン貰っておいた方がいいよ!」
澪「こら、二人とも!」

どの程度まで本気なのかいまいち掴めないが、少なくとも今現在彼女達が心から音楽を楽しみ、真っ直ぐに活動している事は桑田に強く伝わっていた。
しかし同時に、軽音部であった頃の自分と現在の自分。
同じ自分でありながら音楽への向き合い方が正反対になってしまった事が、彼女達によって浮き彫りにされてしまったような気もしていた。


桑田(…ところで。)
桑田(これは夢なのか、何なのか…いつになったら元に戻れるんだ、俺…。)

桑田「それにしても」
唯「どうしたの?」
桑田「女子ばかりの軽音部も珍しいよなぁ。」
澪「え?」
律「おいおいー、何言ってんだよ先生~。」
紬「うふ、そうですよ?」
桑田「え?」
梓「うち、女子校ですよ?」


桑田「え?」
さわ子「…もしかして、知らずに赴任して来たんですか?」
桑田(いや、知らずにも何も…)

桑田「…マジで?」
唯「けいちゃん先生天然~?」
澪「唯には言われたくないだろ…」

桑田(…やっぱりもうちょっと戻らなくても良いかも…)

自分の置かれた状況に混乱しつつ、‘女子校’のワードにはしっかりと反応してしまう、正直な大御所ミュージシャン、桑田佳祐であった。


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最終更新:2010年05月17日 23:07