「お姉ちゃん?」
「憂?」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「うーん。段差があるの忘れてたぁ」
地面から光が拾い上げられる。懐中電灯を手に取ったのだろう。
「転んじゃった」
「怪我してないの?」
「うん、怪我はしてないけど。手が汚れちゃったよ」
お姉ちゃんが私に懐中電灯を向ける。
目の前にお姉ちゃんの顔が浮かび上がった。
「本当に大丈夫?」
「うん、平気」
「もう、走ったら危ないよ」
「段差忘れてただけだってぇ」
「だから明日にした方がいいって言ったのに……」
「ほら、憂」
お姉ちゃんは私の手を掴んで、森の外へ足を踏み出した。
十万ドルの夜景が見渡せそうな開けた丘の上。幼少の頃の記憶を強く喚起させる光景が眼前には広がっていた。
月明かりのお陰で、森の中にいるときよりも見通しはよく、自分が立っている場所、見ているものをある程度認識することができた。
けれど、ここに来た意味はなんなのだろう。そもそも、ここが目的地なのだろうか。
「お姉ちゃん、ここに来たかったの?」
「うん。憂、こっち来て」と、私の手を引く。
場の中央で足を止めると「ここに座って」と言われたので、私はお姉ちゃんとともにひんやりとする地面の上に腰を下ろした。
「お、見えるかな」と、お姉ちゃん。
「なにが見えるの?」
「ふふ、見上げてごらんよ、この星空を」
私は言われたとおりに夜空を、星空を見上げてみた。
星がいくつか見てとれるけど、何ら目新しさもない星空だった。
「あれ、憂。驚かないの?」
「驚くってなにを?」
「え、だって、綺麗だよね?」
「綺麗だけど……」
綺麗ではあるけれど、喚声を上げるほど特異な星空ではなかった。
「なんだぁ、驚くと思ったのにつまんないのぉ」
「ご、ごめんね」
微妙に悪い気がして、口を尖らせるお姉ちゃんに思わず謝ってしまう。
「お姉ちゃん。どうして、星を観に来たの?」
「さっきテレビ観てたら天体観測をする高校生ってのがやっててね。星が凄い綺麗だったんだぁ。明るいところだと綺麗に観れないって言うから、ここなら綺麗に観れると思って来てみたんだけど」
「そっか、天体観測かぁ……」
「合宿をして星を観るんだって、楽しそうだよねぇ」
「うん。私も一回ぐらいはそういうのに行ってみたいな。あ、お姉ちゃん」
「ん、なぁに?」
「今年も軽音部で合宿に行くんだよね?」
「うん。今年は今まで一番大きな別荘だってムギちゃん言ってた」
「それなら、皆さんと一緒に天体観測を出来ないかな?」
「あ、いいねぇ! そっか、ムギちゃんに言ってみようっと。あ、でも、それだと憂が観れないじゃん」
「私のことは気にしないで大丈夫だから」
「えー、でも……」
腕組みをして何か考え事をするお姉ちゃん。
合宿に行って一緒に天体観測をしてみたいけれど、軽音部の部員ではないので流石に付いて行くわけにはいかない。
腕組みをしていたお姉ちゃんは、うんと深く頷くと顔を私に向けた。
「じゃあじゃあ、いつか二人で合宿しよう」
「合宿? 二人で?」
「そう。もっと星がたくさん観れるところに行って合宿するの」
そうか、自分たちで合宿に行けばいいのか。
「私が車を運転して連れて行ってあげるよ」
「と、当分先だね……」
「えー、私だってもうすぐ免許取れるんだよ」
「お姉ちゃん、免許取るの?」
「うーん、どうしよっかなぁ」
お姉ちゃんがハンドルを握ってるのを想像してみるも、アクセルとブレーキを踏み間違えたりして混乱するイメージしか思い浮かばなかった。ちょっと危なっかしい感じだ。
「まあ、そのうち取ろうかな。だから、待っててね憂」
「うん」
いつになるかは判らないけれど、そのときが訪れたときには、今、この瞬間を思い出すのかもしれない。
そのとき、私とお姉ちゃんは何歳になっているだろう。
私たちは一緒にいるだろうか。
それとも、大人になって別々に生きているだろうか。
今はまだ判らないけれど、一緒にいられたらと今の私は思う。
肩に重みを感じた。
横目でお姉ちゃんの頭が私の肩に乗っているのが見えた。
「ねえ、憂。ずっと眺めてると星がいっぱい観えてこない?」
言われて星空に目を凝らしてみる。すると、視界の隅々に点在し弱々しく光る星を観ることができた。パッと観ただけでは気付かないかもしれない星が、星を観ようとちょっと意識するだけで夜空にたくさん光り輝いているのが解る。
「本当だね。こうやって観るとやっぱり綺麗だね」
「ねえ、憂は流れ星観たことある?」
「うーん、ないかな」
「じゃあさ、流れ星探さない?」
「そんな都合よく観れないと思うけど……」
「願い事も考えようよ」
願い事といっても、流れ星が消えるまでに三回も言うなんてできるのだろうか。それに急に願い事と言われても、すぐには中々考えつかない。家族が健康でありますように? 世界が平和でありますように? うーん、どれにしようか悩む。
「あ、流れ星っ!」
「えっ?」
お姉ちゃんの叫声を聞いて、瞬時に夜空を見渡してみたものの、流れ星を見つけることはできなかった。どうやら遅かったみたいだ
「くふっ……くふふふ」
お姉ちゃんがくぐもった声を発しながら震えている。
「お姉ちゃん?」
「憂。ごめんね、今のは嘘だから安心して」
「嘘? ……もう、お姉ちゃん!」
「ごめんごめん」
お姉ちゃんに意地悪をされてしまった。でも、それがなんだか嬉しくって笑ってしまう。
「願い事決めた?」
「ううん、まだ」
「早く決めないと流れ星来ちゃうよ」
「考えてたのにお姉ちゃんが意地悪するからだよ。お姉ちゃんは決めたの?」
「うん。みんなが幸せでありますようにって」
「みんな?」
「そう、みんな。憂にお母さんにお父さん、澪ちゃん、りっちゃん、ムギちゃん、あずにゃん、和ちゃん、さわちゃんもみんなが幸せにって」
「あと、お姉ちゃんも」
「私は憂とこうしてるだけでも幸せだよ」
「私も幸せだよ。お姉ちゃん」
お姉ちゃんの頭に私は顔を寄せる。お姉ちゃんのふんわりとした髪が頬を撫でて、少しくすぐったい。汗の臭いがするけど、それもお姉ちゃんの匂いの一部に感じられた。
こう身を寄せていると、温かい気持ちになる。それが幸せなのだろうか。ずっと、その温かさに浸っていたい気分に駆られてしまう。
しばらくの間、私たちは身を寄せ合ったまま何も話さず、ぼんやりと夜空を眺めながら、心地よい温かさに浸っていた。
そして、二の腕に痒みを感じて、もうそろそろ帰ろうかと思ったときだった。
一筋の光が夜空を照らしながら地平線に向かって、あっという間に落ちていった。
――流れ星。
あまりに一瞬の出来事に私は、流れ星の軌跡を唯々目でなぞることしかできなかった。
「憂、観た?」
お姉ちゃんの声を聞いて顔を起こし、お互いの顔を見合う。
「うん……流れ星だよね」
トトロのように大袈裟に、にぃっと歯を見せて笑みを浮かべるお姉ちゃん。
「凄いっ! 本当に流れ星観ちゃったよ! 憂!」
そんなことを言いながら、一人でぴょんぴょんと飛び跳ねている。
本当に嬉しそうだ。
「でも、願い事忘れちゃったよ。あーあー、折角観れたのになぁ」
今度は残念そうに肩を落とす。私も突然の出来事に願い事を唱え忘れてしまっていたので、ため息を一回。
「お姉ちゃん」
「うん?」
「お姉ちゃんは今幸せなんだよね?」
「幸せ幸せ」
「うん。なら、あまり欲張らなくてもいいんじゃないかな。今のままでも幸せなんだから」
「うーん、それもそうだね。今でも十分幸せだから、いっか」
私たちはその後も流れ星を待ってみたけれど、再び流れ星が流れることはなかった。
けれど、流れ星を一度だけでも観られたのだから運が良かったと思う。お姉ちゃんも喜んでいたのだし、他に言うことはない。
帰宅した私は、お風呂に浸かりながら目を閉じて流れ星の残像を思い起こす。明瞭ではないけれど、まだ瞼の裏には軌跡が残っていた。
明日、明後日にはこの残像も消えてしまうだろうけれど、今日の夜の出来事は私の中に深く刻み込まれている。だから、お姉ちゃんとまた星を観に行くときには必ず思い出すと思う。
きっかけは、てんとう虫。
あ、そういえば、何で懐中電灯がてんとう虫なのか解らないままだ。
謎が解けたときには首を傾げてしまうかもしれないけれど、お風呂から上がったら、お姉ちゃんに聞いてみようと私は思う。
お わ り
最終更新:2010年05月18日 23:31