(明日はとんちゃんのおうちを掃除しよう)
軽音部で飼っているカメを思い浮かべて、
梓は穏やかな気持ちになる。
三年生が卒業したら、軽音部に一人になってしまう梓の為、
皆が買って来てくれたカメ。
最初はそんなに興味は無かったはずなのに、
気付けば一番お世話をしている。
(卒業…か)
自分一人しかいない軽音部。
そんなものは想像出来なかった。
初めて見た先輩達のライブ。
それはとても衝撃的だった。
自分もあのメンバーと舞台に立ちたい。
一緒に演奏したい。
梓は思い切って軽音部に入部した。
初めは想像とのギャップに戸惑う事もあった。
練習もろくにせず、お茶を飲んでばかりの先輩達。
しかし―
いざ演奏を始めると、初めて見た時と同じ、
梓は衝撃を受けた。
何て心地良いのだろう。
何てしっくりくるんだろう。
どうして―
こんなにも心が躍るんだろう。
思い切って入部して良かった。
梓は今心からそう思っていた。
(先輩達とあの部室で楽しく過ごせるのも後少し…か)
梓は小さく呟くと、布団を頭まで被る。
そして―
小さな寝息を立て始めた。
……
自分は上手く笑えていただろうか。
学校でもいつも通り振る舞えただろうか。
多分大丈夫。
ちゃんと出来たはずだ。
そういえば少しだけ思い出した事がある。
今の私が生まれた時の事。
それまでの私はただそこにいるだけの存在だった。
誰にも見えず、誰にも触れられず。
ただそこにいた。
誰かに触れたいと願った。
誰かに見て欲しいと願った。
誰かを愛して、誰かに愛されたいと願った。
次に目が覚めた時、今の私がいた。
誰もが私を知っていて、誰もが私に触れる事が出来た。
まるで生まれた時からここにいたかのように、
記憶や記録があった。
自分の役割も当たり前のように知っていた。
嬉しかった。
ただ嬉しかった。
それが―
後少しで終わってしまう。
辛くない言えば嘘になる。
だけどそれが運命なんだ。
だから―
だから私は今を精一杯生きる。
特別に何かしようなんて思っていない。
いつも通り。
ただいつも通り皆と笑い合いたい。
大切な人と何でもない時間を過ごしたい。
それが―
私の最後の願い。
新学期が始まってから四日目。
今日は日曜日。
「うわー!憂!見て見て!お猿さんだよ!」
「ほんとだ!可愛いねー、お姉ちゃん!」
軽音部のメンバーに憂を加え、
皆で動物園に来ていた。
日曜日というだけあり、家族連れやカップルで賑わっている。
唯は猿山をキラキラした瞳で見つめながら、
キャーキャーと騒いでいた。
「あ、あのお猿さんりっちゃんみたい!」
唯が指差した先には一匹の猿。
他の猿にちょっかいを出しては元気に走り回っていた。
「おー!私に似てるなんて将来立派になるぞー!がーんばーれよーっ!」
柵から身を乗り出し、律が手を振る。
「お、おいっ!やめろバカ律!」
クスクスと笑う他の来園者に、
澪がたまらず律を柵から引き剥がした。
「りっちゃん相変わらずねー」
「ム、ムギも笑ってないで何とか言ってくれ」
必死な澪を余所に、紬はニコニコと微笑んでいる。
たまらず梓に視線を向け、助けを請う澪。
先輩思いの梓がすかさず助け舟を出した。
「唯先輩も律先輩も、他のお客さんに迷惑にな…」
「あずにゃんあずにゃん!あっちに子猫がたくさんいるよ!
さわり放題だよ!」
「……仕方ないですね。行きましょう」
あっさり陥落してしまう梓。
唯達について行ってしまった。
「…おい、梓」
肩を落とす澪に、紬が微笑みながら声を掛ける。
「まぁまぁ澪ちゃん。せっかくですもの。
私達も楽しみましょう。ね?」
そう言うと、唯達のもとへと駆けて行ってしまった。
動物園にいる間は気が休まらないな。
澪は心からそう思うのだった。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
まるで手から零れる水のようだ。
今日また一つ思い出が増えた。
だけど―
"思い出"は"未来"があって初めて思い出と呼ぶ。
私にはその未来が無い。
私に残された未来はあと三日。
そんな事を考えながら私は―
深い眠りに落ちていった。
「もう一週間か…」
部室の窓から外を眺めながら、梓が呟いた。
「んー?何が一週間なんだ、梓ー?」
椅子をギシギシと漕いでいた律の問いかけに
「あ、いえ。新学期が始まってから、
もう一週間経ったのかと思って。
時間が経つのって早いですよね」
梓は振り返って答えた。
新学期が始まって今日で丁度一週間。
相変わらず軽音部ではティータイムの真っ最中だ。
「おー、そういえばそだなー」
「梓の言うとおりだ。
時間が経つのは早いんだ。だから練習を…」
澪の提案を遮るように
「じゃぁ今日は帰ろう!」
律が椅子から立ち上がる。
「おい律!」
澪に腕を掴まれた律は、
素早くポケットから紙切れを取り出す。
それを澪の目の前に掲げると
「じゃーん!」
大袈裟な効果音付きで説明を始めた。
「今朝ポストに入ってたんだけどさ。
駅前の楽器屋、今日はレフティセールだぞ」
「…う」
澪は掲げられたチラシに素早く目を通す。
確かにレフティセールと書いてあった。
左利きの澪にとって、その言葉は何よりも魅力的だ。
「あ、明日は練習するからな」
「じゃあ決まりね。皆で行きましょう」
ムギは澪に鞄をそっと手渡し、
寝ている唯を揺り起こす。
「いいな律!明日は練習だぞ!絶対に絶対だからな!」
「ふぁぁ…ねぇねぇあずにゃん。
何の話?」
まだ寝ぼけている唯を見て、
梓は深い深い溜め息を吐いた。
「不安です…軽音部の先行きが不安です」
繰り返されるいつもの光景。
また一日が終わろうとしていた。
今日が最後の夜。
ずっと迷っていた。
私が消えてしまう事を伝えようか。
何も言わずに消えた方が楽な気もした。
だけど私は伝える事にした。
せめて、最期くらいワガママ言っても良いよね。
最期くらい大好きな人の傍にいたいから。
だから全てを話した。
それを聞いて泣いていた。
とても辛そうだった。
でも―
最後に笑い掛けてくれた。
涙でぐしゃぐしゃの顔で。
私を励ますように…
「憂…今日は一緒に寝よう」
「うん」
二人は唯のベッドに潜り込む。
二人で寝るには少し狭いベッド。
お互いの体温が伝わってくる距離。
唯は背中を向けている憂を、優しく抱き締める。
憂の小さな背中。
その感触、温もり―
忘れてしまわないように抱き締める。
「憂…」
「なぁに、お姉ちゃん?」
「私、お姉ちゃんらしい事あんまりしてあげられなかった…」
「うん…」
「いつも迷惑かけて…お姉ちゃん失格だね…」
「そんな事ないよ」
「でもね…憂のお姉ちゃんでいられた事、すごく幸せなんだ」
「うん…」
「憂が妹で…本当に幸せなんだよ」
「うん…」
「だから…忘れないでね…憂。
私がお姉ちゃんだった事…憂が大好きだった事…」
「忘れないよ…絶対に忘れない」
「憂…うっ…ぐす…うぅ」
「お姉ちゃん…大好き」
「憂…憂ぃ…うっ…うぅ」
「大好き…大好きだよ、お姉ちゃん」
「んん……」
カーテンの隙間から差し込む朝日に、
目を細めながら起き上がる。
昨日の夜、たくさん泣いたせいで瞼が腫れぼったかった。
あれからたくさん思い出話をしたはずだったが、
泣き疲れたのか、いつの間にか眠っていた。
ふと横を見ると、そこにいるはずの人がいない。
「……憂」
昨日の夜は確かにそこにいた。
小さな背中も、その温もりも鮮明に覚えている。
ベッドも枕も微かに人の形に沈んでおり、
確かに憂がいた事を物語っていた。
「憂……」
唯はふらふらと立ち上がると、
家のあちこちを見て回る。
憂の部屋はまるで最初からそうだったかのように、
物置のようになっていた。
憂の物は何も無かった。
玄関の靴も、干してある洗濯物も。
憂がいた痕跡は何も無かった。
「あ…」
何かに気付いた唯は、慌てて自分の部屋に戻る。
散らかるのも構わずに、本棚をひっくり返し、
一冊のアルバムを手に取った。
「…嘘…嘘だよこんなの」
記憶を辿るようにページをめくっていく。
しかしどこにも憂の姿はなかった。
小さい頃の写真や憂の高校入学の時の写真。
その全てに、憂は映っていなかった。
まるで最初からいなかったように。
「う…うぅ…うっ」
アルバムのページに、ポタポタと水滴が落ちる。
「ぐす…憂…会いたい…
会いたいよ…憂ぃ」
私は願った。
この世界に生まれて来た時のように。
一つだけ願った。
私の存在が―
その全てが皆の記憶から消えるように。
私がいなくなる事で誰かが、
大好きなお姉ちゃんが苦しむ姿なんて見たくなかった。
なのに…
お姉ちゃんだけは私を覚えているみたいだ。
苦しむ姿は見たくないのに、
忘れないでいてくれた事が心から嬉しかった。
ねぇお姉ちゃん。
私はいつまでもお姉ちゃんを見守ってるよ。
おっちょこちょいで慌てん坊で…
だけど大好きなお姉ちゃん。
私―
幸せだったよ。
憂
聞こえてるかな?
憂がいなくなってから三年
まだ小さなライブハウスだけど…
今たくさんの人が、私達の歌を聴きに来てくれてるよ
憂にも見せたかったな
ねぇ憂
私は歌い続けるよ
どこかにいる憂に届くように
歌い続ける
だから―
「聴いてください!放課後ティータイムで―」
おしまい
※憂は何故消えた
妖精さん的な何か
↓
神様の気まぐれ
↓
憂
↓
神様の気まぐれ
↓
消滅
みたいな感じで
最終更新:2010年06月15日 00:26