憂「……」
梓「……」
憂「……えと」
梓「……」
「なに、私に何か用?」
思わず首を振ってしまった私を、目の前の少女が怪訝そうに見る。
いや、察してよ。察してちょうだいよ!そりゃあ理由がなきゃ話しかけるわけないじゃん!
この私が!この憂鬱の憂を名前に持つ私がっ!
「用が無いんなら私、部活動見学に行きたいんだけど」
ちょっと待って。そう言いたかった。
けれども言葉を発するのも自分の感情を表現するのも苦手な私は、黙って俯くことしかできなかった。
小馬鹿にしたような溜息が目の前でこぼれた気がした。
気のせいだよな?
「用が無いんなら私、行くから」
小柄な女の子が踵を返す。遅れて触覚のようにセットされた二つのお下げが小さく揺れた。
ゴキブリみたいなその二つの触覚、ひきちぎってやろうか?
自分の名前にコンプレックスを持ってる人というのは、多かれ少なかれいるんだろうけど
私レベルのコンプレックスを抱えてる人間ははたしているんだろうか。
憂。
憂って書いて「うい」と読む。
酔っ払いのしゃっくりみたいだね、と小学生の頃にクラスメイトに言われたことがある。
いや、まだそれくらいならいいが問題は私の名前に使われた漢字だ。
なんだよ「憂」って。ていうかなんでこれで「うい」って読むんだよ。
なんでお姉ちゃんは「唯」ってありきたりながらもまともな名前なのに、私の名前はどうして……。
名前で奇を衒わなくていいんだよ。
つうか絶対に私の両親は「唯」と語呂を合わせたかったから、「憂」なんて名前にしたんだろ。
生理が来たわけでもないのにイライラしてきた。
両親への文句を原稿用紙に換算して四百枚分くらい吐き出したかったが、
生憎、私の両親は日本にいない。今頃は海のはるか向こうでイチャイチャしているだろう。
そのまま帰ってこなくていいぞ。なんなら海のクジラのエサにでもなってしまえ。
……嘘です。無事に帰ってきてください。
せめて「憂」じゃなくて「優」にしてほしかった。
改名ってどうやってするのだろうと考えつつ、校門を出ようとしていると、運動部のものと思われる掛け声が聞こえてきた。
おお、走ってる走ってる。
弾む声。飛び散る汗。青春のかおり。ああ、吐き気がする。
でも、中学時代は部活やってたんだよなあ。
もっとも部活なんて青春のシンボルは、私にはもう一生縁がないだろうし頑張っている人間を
見ていると自分がミジめに思えるのでさっさと家に帰って夕飯の用意でもしよう。
「あのーハンカチ落としましたよー」
さて、夕飯は何にしようか。確かまだ卵が残ってるし昨日買った豚肉が
「ハンカチ落としましたよー」
豚肉が残ってるので、ピカタでも作るか。今日は気分がノらないし簡単なものの方がいい。
「ハンカチ落としましたよー」
私のようなプリティな声で話かけるならともかく、よくそんなかすれぎみのダミ声で話かけてくるな。
そう思いつつ、無視するのもかわいそうだし、単純にハンカチを回収したかったので振り返った。
振り返った先にいたのは見るからに運動してます、といった感じの女子生徒だった。
額に髪を張りつかせて鼻のてっぺんに油を浮かべたソイツが、私にハンカチを差し出す。
「はい、ハンカチ」
ムダに爽やかな笑顔を浮かべる女に、まあせめてお礼くらいは言ってやろうと口を開いた。
憂「アリガトウゴザイマス……」
蚊の鳴くかのように掠れてしまった声になったのは私が根暗で内気で人と話すのが苦手だからだった。
まあしかし、こんな見ず知らずの女相手にいちいち礼を言うとは。
私はなんてできた人間なのだろう。
全人類は私の爪の垢を飲むといい。たちまち素晴らしい世界のできあがりだ。
「どういたしまして」
先に述べたように、蚊の鳴くような、というか空気が振動するかどうかもあやしい
小さな声だったのにも関わらず女子生徒はお礼を言われたと決めてかかって、そう言って去っていた。
ああ……馬鹿はいいなあ。
Q.
平沢憂さんに質問です。お友達はいないんですか?
A.いません。私は人と関わるのが苦手で、いつも休み時間は寝ています。
授業中に先生にあてられたらコンマ一秒で分かりませんと答えます。
人から声をかけられることはほとんどありません。
席替えの際に「平沢さん、席変わって」と頼まれるときぐらいで、基本、私は誰からも話しかけられません。
静かで退屈な学校生活です。
Q.平沢憂さんの趣味はなんですか?
A.それを聞きますか。そうですね、しいて言うなら家事ですかね、ええ。
料理に洗濯、お掃除に会計、専業主婦に必要なスキルは全て会得しています。
でも学校生活にはイマイチ活躍しません。
ところで今日は美味しい納豆茶漬けについての講義だったはずですが?
どうしてこのような不愉快な質問に私は、真面目に答えているのでしょうか。
憂「……ん?」
どういう夢だったかは覚えていないが、とにかくクソ不愉快な夢を見ていた気がする。
どうやら、学校から帰宅して着替えた後、洗濯物を畳んでいたら眠ってしまったらしい。
まだ畳まれていないタオルが、山を形成していた。
ソファーから預けていた身体を起こす。眉間にシワが寄るのが自分でもわかる。
こういうときは、掃除をして憂さを晴らすにかぎる。
洗濯物を畳んで、掃除をして夕飯を作ろう。
お姉ちゃんが帰ってくる前に全てやりきったら自分へのご褒美にポッキーを食べよう。
私のお姉ちゃん。
私が日の当たらない陰湿な藻だったら、お姉ちゃんはさしずめ、太陽の光を浴び続けるヒマワリと言ったところだろうか。
よく私とお姉ちゃんは似ているとか言われるがそれはあくまで外見に限っての話だ。
中身を見ればそれはもう同じ人間かどうかもあやしい。
明るくて社交的で天然でドジっ娘を地で行く人気者の姉と
根暗で内気で人と話すのもままらないクラスでも空気そのものの妹。
同じ腹から生まれたはずなのに、同じ遺伝子を受け継いでいるはずなのに
どうしてここまで姉妹で差がついてしまったんだろう。
憂「ああ、憂になる……じゃなくて鬱になる」
自分で言ってから自分で後悔した。
ところで今現在の私についてだが、切らした醤油を買いにスーパーまでの道のりを歩いてるところだ。
今日は色々とツイてないみたいだ。
憂「……私にとってツイてる日ってどんな日だろ?」
また、自分で言ってから自分で後悔した。歩く憂鬱とは私のことかもしれない。
どうもお姉ちゃんが帰ってくるまでに、全ての家事を済ますのは無理みたいだった。
それでも無意識に歩くペースは速くなった。少し体温が上がって額に汗が浮かぶ。
今日は春にしてはいささか暑い。
空を見上げれば、私のはるか頭上にある空には雲が立ち込めていた。
無事に醤油を購入し、スーパーを後にした私は三十分ほどかかって、家に着いた。
憂「……?」
暗くてはっきり視認できないが、それでも玄関の前で誰かがしゃがみ込んでいるのは分かった。
目を凝らすまでもなく、その人物は特定できた。
お姉ちゃんだった。
憂「何してるの……?」
さすがにお姉ちゃんとは姉妹なので、普通に会話することができる。
まあ、それでもやっぱり私の発した声はウサギの鳴き声とそう変わらないんだけど。
唯「あ、ういー」
見て見て、とお姉ちゃんは立ち上がると今まで自分がしゃがみ込んでいた場所を指差す。
黒猫が行儀よく座ってお姉ちゃんと私を見上げていた。
黒猫、不吉の象徴……背筋に悪寒が走る。
憂「どうしたの、この猫?」
唯「さあ?私が帰ってきた時にはもう玄関の前にいたんだ、この猫」
野良猫の分際で、よく逃げないな。私よりよっぽど度胸があるのかもしれない。
猫以下か、私……。
唯「ねえねえ、憂。この猫さん、ひょっとしてお腹がすいてるんじゃないかな?」
そう言われてみれば、行儀良く座るその姿は、餌を求めているように見えなくもない。
唯「こうして出会ったのも何かの縁だよ。何か餌をあげようよ」
黒猫は不吉の象徴だ。呪われても困るし、ミルクくらいは出してやるか。
黒猫に皿いっぱいに入れた牛乳を差し出してやった。
黒猫は数秒だけ鼻の先を近づけたがすぐ、顔を背けた。
唯「……飲まないね」
わざわざお腹を壊さないように、温めてやったのに……恩知らずな猫め。
どこかの国では、熱した鉄板に猫を放り込んで、猫がのたうちまわるのを
楽しむという、非常によろしくない遊びがあるらしいが、同じことをしてやろうか、このアホ猫め。
……いやいや、黒猫じゃなくても、そんなことをしたら呪われそうだからやらないよ?
ていうかその前に動物愛護団体から制裁を加えられるか。
唯「ひょっとして猫さん、熱いからこのミルク飲まないんじゃない?」
そういえば、この黒猫は猫なんだから猫舌か。
違う容器に移し変えて、もう一度ミルクを黒猫の前に差し出した。
え?新しい牛乳を出したほうが手っ取り早い?冗談じゃない。
こんな図々しい野良猫相手に牛乳を出してやってるだけでも、全米が号泣して地に伏してもいいだろう。
黒猫がもう一度、鼻の先をミルクに近づける。
足りない脳みそを必死に使って考えているのか、少しためらってから猫は舌を出した。
唯「おお、飲んだ!」
お姉ちゃんが嬉しそうに声を弾ませた。
不覚にも私まで嬉しくなった。別に猫がミルクを飲んだのが嬉しいんじゃない。
お姉ちゃんが嬉しそうにしたからだ。はい、ここ重要。
一分もしないうちに、猫はミルクから顔を離した。大して料理は減っていなかった。
用は済んだと言わんばかりに、舌舐めずりすると猫はさっさとどこかへ歩き出した。
金を出せとは言わないから、礼ぐらい言えよ。
そんな私の内心を見抜いたわけではもちろんないだろうが、黒猫は一度だけ振り返って鳴いた。
うん、多分礼を言ったわけではあるまい。
去っていく黒猫の背中を、いつの間にか雲と雲の間から顔を出した月が照らしていた。
唯「うい~おいしいよ~」
憂「……うん」
唯「憂はりょーさいけんぼだねっ」
憂「……ありがと」
唯「うんまーいっ」
憂「……そう」
学校にいようが家にいようが私の口数はほとんど変わらない。
お姉ちゃんがひたすらしゃべって私が相槌を打つ。
唯「うーいーおかわりー」
憂「はいはい」
食事を終え、自分の部屋に入った私はノートを開いた。
ノート。
お姉ちゃんについて綴った私の日記。
家事と同じく日記を書くのは私の数少ない趣味の一つだ。
憂「さて、書こう」
一ページが自分の文字でびっしり埋まったのを見て私は満足してノートを閉じた。
すでに毎夜の習慣になったこの行為はある意味自慰行為に似ている。
これをしないと寝れないし、日記を付けはじめてから一度も欠かしたことはない。
私からお姉ちゃんへの愛の言霊。
私はお姉ちゃんのことが好きなのだ。
好き。
いちいち下手な比喩なんか使ったところで私の溢れんばかりのお姉ちゃんへの愛は表現できない。
憂「あれ……?」
私ってもしかして最強の萌えキャラじゃないか?
根暗で内弁慶で無口でシスコンでしかも家事万能。ついでに運動も勉強も控えめに見えても上の下というハイスペックぶり。
日本の廃棄食料並にあるアニメにだってこんな
カオスなキャラはいないぞ。
お料理番組から昼ドラまで幅広くこなせるオールマイティなキャラ、平沢憂。
しかし、一つ致命的なことを忘れていた。
私はカワイクなかった。
お姉ちゃんと私。姉と妹。
ほとんど同じ外見であるはずなのに中身は全然違う。
お姉ちゃんの中身が北アルプスで取れる天然水なら私はヘドロ混じりの河の泥水だ。
きっとお姉ちゃんが産んだ子供はモーツァルトすらもかすんでしまうような神童で、
私が産んだ子供は醜い醜い、それこそヘドロから生まれたベトベトンのような子供だ。
……なんだろう。
起きている時間の分だけ鬱になっている気がする。
ほとんど意味を成していない携帯電話を開く。
もちろん友達がいない私は友達から送られてくるメールを楽しみにしているわけではない。
アラームがきちんとセットされているかをチェックするだけだ。
私はこの手の機械に疎い。もばげー、とか、みくしい、とか異次元の言葉に聞こえる。
まあいいや、寝よう。
鳴りもしなければ光りもしないケータイをベッドに投げる。
おやすみなさい。
その翌日も私は教室の空気として、学校ライフの一日を終えた。
「憂、今ちょっと時間ある?」
目の前でマリモが二つ浮いている。しかも口を利くとは……なかなかすごいではないか。
取っ捕まえて、今すぐ札幌農学校に明け渡してやろうか。たちまち私は有名人になれるだろう。
「聞いてるー?うーい?純ちゃんだぞー」
北海道に帰れ。
そう言おうとしたが、どうやらマリモじゃなかったらしい。
頭部の左右に、マリモにしか見えない髪のカタマリをひっつけた女は、私と目が合うと品のない笑みを浮かべた。
「憂は何の部活に入るか決めた?」
まるで十年来のお友達のように話しかけてくるソイツ、
鈴木純は私の顔を覗きこんだ。
純「実はさ、私まだ部活決められなくてさ」
なんて馴れ馴れしいのだろう。
確かに中学時代からお互いに顔見知りではあるが、話しをしたことなどほとんどない。
挨拶でさえ交わした回数は五本の指で数えられるほどだ……たぶん。
だいたい私はコイツのことが好きじゃない。むしろ嫌いだ。
うるさいし品がないし。
きっと私みたいな人間のことを陰で馬鹿にして悪口を言いまくっているに違いない。
そのような場面は見たことなんてないし聞いたこともないが、うん、絶対そうだ。
何を悩んでるのかは知らないが、スッカスカの脳みそで何を考えたってムダムダ。
援交でもして警察に捕まってしまえ。ついでに妊娠して一生を棒に振るがいい。
私の心の中の呪詛などもちろん気づいていないマリモ女は更に続ける。
純「そこで私、軽音部の見学に行こうと思って。ほら、たしか憂のお姉ちゃん軽音部に入ってんでしょ?」
思わず眉根に力が入る。なんでそのことを知っているんだ?
まさか私のお姉ちゃんを狙っているのか?そうなのか!?
憂「…………ぁ」
詰問しようとしたが、私は人と話すのが苦手だった。というか喋れない。
人と話そうとすると急に目の奥が玉ねぎをみじん切りしている時の
ようにツーンとなって歯を食いしばらないととてもじゃないが耐えられないのだ。
冗談みたいな話だが私のような人間なら、おそらく分かってもらえるだろう。
純「というわけでよかったら一緒に軽音部見学に行かない?ついでにこれを機会に……」
憂「その、えと……」
純「ダメ?」
憂「き、今日はその、あ……」
純「もしかして用事でもある?」
私は必死に頷いた。はたから見たら首をカクカクさせているようにしか見えないだろうけど。
最終更新:2010年06月22日 23:15