裾を掴む手は弱弱しく、まるでいつもの彼女ではないようだった。
震える指と唇が何を紡ぎ出そうとしているのか注意深く読み取ろうとするけれど、やはり計り知れない。
「せんぱい、」
思いつめたようなそれが求めているものは何かなど、どうでもよかった。強く、抱きしめた。
「ねえ、私っておかしいかも知れない」
「はあ?」
振り返った純の、怪訝な表情が痛い。
そりゃあ、こんなことを突然言われれば、誰だって同じ反応をしたくなるだろう。
しかし、自分から言い出したこととはいえ、落ち込んだ。この先を話す気が失せた。
もともとフォローなんて期待もしていなかったが。
たくさんの教室が続く長い廊下で、梓はため息を吐いた。
「唐突に何さ。梓はわりとそうー……凡庸だよ。真面目だしね」
怒られたいのだか何なんだか、真面目な顔でそう言ってくる純は、いい奴だと思う。言葉択びが少々雑なだけで。
背後でにこにこ笑っている憂だって、まあいい奴といえばいい奴なのだが、自分が正常かどうかを、少なくともこの問題に関しては彼女には諮れない。
信用しているかどうか等の意味ではなく、だ。
もちろん理由はいわずもがな、彼女の異常に過剰なシスターコンプレックスにある。
「まあそれを言ったら私もそうだね! いいじゃん、凡庸。
完璧なのにシスコンとか、天然が過ぎてニート候補とか、眉毛が沢庵だとか、出番なくて忘れられそうだとかよりは」
ふはは、と純が笑う。どうも梓の周りのメンバーのことを言っているらしい。
出番云々は和のことなのだろうか。でもそれ。お前の言えることか。
そう言ってやりたいけれど、言っても口論になるのがオチなので、むずむずする口をあえて噤んだ。
「そうかな。まあ、そうか」
例え自分がおかしいとしても、彼女らのように他人に迷惑を掛けるわけでもなし。いや、唯以外は迷惑掛けている訳でもないか。
まあ、そんなことはいい。自分が迷惑を掛けたとしてもそれは一人にだけだし、寧ろそのようなことは絶対に起きてはならない。
おかしな言葉だが、そんなことが起きるようであれば自ら自分を全力で阻止する。
一人頷いた梓に、純は言った。「何で? どこが?」
「へ?」
「だから、梓のどこがおかしいの?」
梓は思わず眉間に皺を寄せた。こいつは、髪の毛のハネ具合のみならず話題の持って行きかたまでもがハチャメチャなのか。
それを先に聞いてから答えを出すべきであるということがわからないわけでもなかろうに、何故純は結論から述べたのか。
理由はわからないが何か落ち込んでいそうな友人を励ますことが先だと考えたのか。
何にせよ、それはいい手ではないことが今実証された。
「なにがあったの?」
「もう、いい」
真剣な顔で訊いてくる純に、梓は首を振った。
「なんだよ、言いなよー」
ちょっと怒ったふうな口調に、安心する。
「そっかじゃあいいか」などと言われたのではこの話題を振った意味がない。
もともと自分で処理しきれないから純に言ったのであって、決して雑談をするためではないのだ。
とはいえ、事実をそのまま伝えるには勇気が足らない。それはそうだろう、こんなこと。
「まあ、それはとりあえずいい。それより、だ」
ごほん、とわざとらしく咳払いをする。純はまだブーブー言っているが、梓は気にせず続けた。
「純は女の人を愛おしく思ったことはある?」
漸く本題に入れた。梓はため息を吐く。しかし、ほっとした気持ちよりもやはり不安のほうが大きかった。
純は一瞬何のことやらわからないという表情をしたが、すぐにはっと肩を震わせて、それから暫しの間無言になった。
そして出てきた言葉がこれだ。
「悪いことじゃあないよ」
不自然な笑顔の裏に好奇が見える。完全にそういった世界に目覚めたと思われている。
まあ当然の考察だと思う。それに、こちらにも感づいてほしいという気持ちはあった。
しかしこう、直接的に言われては。意味は無いと思いつつも、梓は言った。
「私のことじゃあない」
「だから、悪いことじゃあないって」
「……だから!」
自分のことではないというのは、一割くらいが本当で、九割くらいが嘘だ。
つまり殆ど嘘なのだが、それでもここは主張しておかなければならない。そうでなければ話も進めづらい。
「愛おしいといってもね、そんな、あれじゃないよ。ただ……抱きしめたいとか、」
「ふうん、そりゃあ、真性だね」
「……そう、なのかな」
深刻な顔をする梓に、純は少々慌てたふうに言った。
「そんなマジにとるなって! お前……マジでマジだね」
本当に悩んでいなければこんな話をしたりはしない。それでも、やはりしなければよかった。
梓は後悔した。
「もういい。本当にいい」
「おい、ちょっと、今更やめないで。気になる」
「もういい、忘れて。あとこれだけは言っておく。私はそっちの気はない。じゃあね」
「ちょっと、待てよー」
じゃあも何も向かう先は同じなのだが、梓は純の顔を見たくなくて、早足で次の授業のある体育館へと向かった。
それはおかしな夢だった。
自分が、自分ではなかった。目の前にいる自分が、自分のことを「先輩」と呼んだ。
「澪先輩」
そう言われて、気が付いた。自分は、
秋山澪なのだ。目の前の彼女は自分ではない。
中野梓という、後輩だ。
「なんだ、梓」
澪は、俯く後輩に優しく問いかけた。しかし、梓は一向に口を開こうとしない。
「どうした」
もう一度、問いかける。ゆっくり顔を上げた梓と目が合った。
何かを訴えかけているような目。どうしたことだろう、かち合った視先が逸らせない。
自分の中の妙な動悸に焦りを感じて、口を歪める。沈黙に耐え切れずに、一歩近付いた。
すると、梓が、制服の裾を掴んだ。
「せんぱい、」
思い返して、梓は、顔を赤くした。本当にばかばかしい。自分を、愛しく思うなんて。それも、彼女の姿で。
梓は、澪のことは好きだ。けれど、そういった目で見たことなど一度としてない。尊敬できる上級生だと思う。
彼女に対する感情は、それ以上でも、それ以下でもない。
あの夢の暗示するものは、自分を愛しく想うような所謂ナルシシズムなのか、はたまた澪からあのように想われたいという願望なのか、
どちらにしても寒気がする、と梓は思った。
夢になど意味はないといわれればそれまでだ。しかし、どうしてもあの夢は異常である。
笑い飛ばせないのは自分の中に何か思い当たるようなものがあるからなのだろうか、いや、そんなことはない、しかし、と堂々巡りが続く。
体育館の前まで来て、梓は振り返った。
さっきまで自分を追って来ていた純と、おまけに純をなだめていた憂の姿が見えない。
仕方がないので探しに行く。せめて二人一緒にいてくれ、と願いながら校舎のほうへ足取りを戻した。
「お、梓じゃないか」
その声に、思わず固まった。澪だ。こちらへ向かってくる。
「こ、こんにちは」
「体育だったのか?」
「あ、いえ、それはこれからで……」
移動中に他学年とすれ違うことはそれほど珍しくはない。けれど、いくらなんでもタイミングが悪すぎる。
梓は下唇を噛んだ。
「どうして校舎のほうに向かってるんだ。忘れ物か?」
少しからかうような口調の澪に、梓は慌てて言った。
「ち、違います。友達を見失って……その子、ヤンチャだから」
「そうか、大変だなあ。律ってすぐどこか行っちゃうもんだから、私もよく見失ったよ」
しみじみと言う澪。知らないうちに、勝手に口が開いていた。
「あの、」
「なに?」
「先輩は、男の人は好きですか?」
言って、何を訊いているんだ私は、と梓は焦った。
しかし、それ以上に澪が焦っているふうなのを見て、なんだか少し落ち着いた。澪は答えに窮しているようだった。
そして暫し考えるようにしてから、梓を控えめに眺めて、小さな声で言った。
「心配するな、その、何だ、みんなそういうふうになるときはあるから」
何の話をしているのやら、と思った。まさか、と思わず夢のことを思い出す。
誰しも、一度は同性に対し愛しく思うことはある、と。
そんなはずはない。梓は言葉の意味を考えた。
多分、恋をしたとか、それで悩んで澪に相談しただとか、そういうふうに勘違いをされているのだろう。
「そうでは、なくてその、先輩個人のことで……」
梓が言うと、澪は先程とは比にならないくらいに動揺し、挙動不審になった。頬を染め、徐にうろたえている。
「な、なんでそんなこと訊くんだ!」
「え、いえ……その」
何故だといわれれば、梓も困ってしまう。勝手に口から出た言葉なのだ。
「好きじゃない! ……だ、だからといって嫌いってわけじゃ、ない。いや、」
しどろもどろになりながら、澪は言った。
「普通だよ、高校生の女子として」
「そうですか……」
「女の子は好きですか?」
「ん?」
澪は目を瞬いた。
「普通、だよ。……あ、ムギみたいな趣味とかは、ないぞ」
先程と違って随分冷静だ。なんだろう、微妙な気持ち。
梓は、ぺこりとお辞儀をした。
「ありがとうございました。じゃあ、私、憂たち探してきます」
「う、うん。頑張れよー」
首を傾げる澪の姿を後ろに、思い切り走り出す。心の中のもやもやしたものを消すように。
そうか、先輩は、普通なんだな。男の子が、好きなんだ。
いいじゃないか。それでいいはずだ。
それなのに。
自分の中にどこかがっかりした気持ちがあることを、梓は認めたくはなかった。
どうしてこんな気持ちになるのか。わからないけれど、走った。無茶苦茶に走っていると、 純と憂を発見した。笑った。
それから、おかしな夢を見ることはなかった。
終わり
最終更新:2010年07月11日 17:40