律の家!

学校を出た時の空は晴れ渡っていたのに、今見上げるとどんよりとした暗雲が立ちこめていた。

少し躊躇いつつも、意を決してインターホンを押す。

唯「ごめんくださーい!」ピンポーン

聡「ほーい。あれ、姉ちゃんの友達ですか?」ドアガチャ

唯「あ、はい。軽音部の平沢唯です。」

聡「ちょっと待ってて下さい。…姉ちゃーん!」

唯「…りっちゃん、元気ですか?」

聡「すみません、今すごく落ち込んでて…。ちょっと呼んで来ます。」

ドアガチャ

律「…唯。来たのか。」

唯「りっちゃん…。」

目の下に浮かぶ、さっきの空の暗雲のような隈が、りっちゃんの灰色の日常を物語っていた。私もあんなだったのかな。

唯「りっちゃん、お話があるの。」

律「…ああ。まぁとりあえず私の部屋来いよ。」



律の部屋(ちょっと汚い)!

律「…で、話って何?」

唯「りっちゃん。…ううん、部長。軽音部、復活させよう?」

律「…ごめんな。もう軽音部のことは、あんまり話したくない。澪や梓のことを思い出して嫌なんだ。」

唯「そんな…。」

律「唯と話すのだって辛いんだよ…。悪いけど、また今度にしてくれないかな。」

唯「…りっちゃん。それは逃げだよ。」

律「そんなことねーよ!」

唯「…人はみんな、辛いことから逃げたがるものだよね。現実よりも夢を見続ける方が楽だもん。」

唯「でもさ、向き合うべき現実から目をそらし続けたとして、それで何かを得られるの? しかも、代わりに絶対に失うものがあるよね?」

…ただ泣き叫んでいても、花は咲いてくれない。一歩踏み出す勇気を伴侶としない限り、悲しみの連鎖から抜け出すことはできず、永遠に引っ込み思案を繰り返すだけだ。

唯「今のりっちゃんは、凍りついた時間の中でただじっとしているだけ。過去に囚われていたら、いつまで経っても望む未来は訪れないよ?」

しかし、次の言葉を口にしようとした刹那、

―――パチンッ!

頬を打たれる音が響いた。


律「…。」

唯「…。」

沈黙を破ったのは、遂に限界を迎えた雲から降り出した、雨の音。

それを合図に、律が再び口を開く。

律「過去に囚われない方がいい? じゃあ唯は、澪や梓を忘れて、自分たちだけ幸せになろうって言うのかっ!? 唯は自分が良ければ満足なのかっ!?」

―――パチンッ! ―――パチンッ!

何度も何度も、痛烈な音が空気を裂く。

でも、頬を打つ手には、りっちゃんの軽音部への想いが込められているのを、私は知っている。頬の痛みから、りっちゃんの苦しみと葛藤が伝わってくる。

もし、心の傷から血を流すことで、心の中の悲しみが少しでも流れ出てくれるのなら。…好きなだけ流していいんだよ。

たとえその血の流し方が、私の頬を打つことだとしても。

律「お前はっ、なんで澪が死んだのか、知ってるのかっ!? 私のせいなんだよっ!」

律「澪は、私がトンちゃんのエサやりを忘れたのに気付いて、学校に戻ったんだ! その時に地震が来て、校舎の下敷きになったって!」

律「私がしっかりしてれば、澪は死なずに済んだかも知れないんだっ! それなのに、私だけ幸せになろうなんて、絶対無理なんだよ!」

とめどなく流れる涙がりっちゃんの頬を濡らす。でも、私はもう涙で視界を滲ませたりはしなかった。


唯「りっちゃんのせいじゃないよ!…自分を責めないで? そんなこと、澪ちゃんは絶対望んでない!」

律「いや私が悪いんだっ!」

唯「…ムギちゃんにも似たようなことを言ったんだけどね? りっちゃんが澪ちゃんの立場だったら、どう思う?」

律「え…?」

唯「りっちゃんは、澪ちゃんのことを許せない? 澪ちゃんが幸せになるのが嫌?」

律「…そんなことないけど。」

唯「澪ちゃんも同じ。今も、りっちゃんに幸せになって欲しいと願ってくれているはずだよ。」

律「…。」

唯「そうしないと、楽しかったはずの澪ちゃんとの思い出も、悲しいものに変わっちゃうもの。」

律「なんでそんなこと言えるんだよ。澪は私のせいで…。」

唯「りっちゃんは、廃部寸前の軽音部を立て直して、私たちの居場所を作ってくれた。澪ちゃんは、楽しい毎日を過ごすことができて、りっちゃんに感謝していたよ。」

唯「澪ちゃんもあずにゃんも軽音部の復活を待ち望んでるって私は信じてる。あずにゃんは最後、間違いなく笑顔だったもん! 澪ちゃんもきっとそう!」

唯「だからね? 澪ちゃんやあずにゃんのためにも、軽音部を復活させようよ?」

律「…。唯、叩いちゃってごめんな…。」

律「…でも、そんなにすぐには納得できない。1日考えさせてくれないか?」

唯「うん、大丈夫。待ってるからね。」

唯「お邪魔しましたー!」

家を出て空を見上げると、さっきまでの土砂降りが嘘のように、吸い込まれそうになるくらい青く澄み渡っていた。



翌日、りっちゃんは颯爽と学校に登校し、軽音部の活動再開に賛成してくれた。澪ちゃんが夢に出てきて、説得されたとか。

でも、これでもう、私たちを阻む障害はないはず!

昨日ムギちゃんが和ちゃんと一緒に、さわちゃん先生に言われて軽音部の学園祭出演を申請してくれたみたいだから、あとは練習あるのみだね!

そう思っていたけれど、肝心なことを忘れていた。



3年2組の教室!

唯「ふうー、移動教室は疲れる…。でもこの後ホームルーム終わったら部活だね!」

律「…ていうかさ、ベースどうすんだよ。絶対必要だろ。」

唯「あ、そっか忘れてた…。」

紬「ジャズ研の人に賛助を頼んでみる?」

律「いや、やっぱ軽音部のメンバーになってくれる人じゃないと…。」

唯「うーん…。」

律「とりあえず、部活の時に考えようぜ! もうすぐ独身が独身ヅラぶら下げて独身ホームルーム始めに来ちゃうし!」

唯(ん? なんか聞いたことあるフレーズ…?)



3年2組の前の廊下!

さわ子「…。」



放課後の音楽室!

律「で、どうする?」

唯「りっちゃん隊員、なんか案はないのー?」

律「…前から思ってたんだけどさ、隊員じゃなくて隊長じゃね? 部長なんだし。」

唯「では、りっちゃん隊長! なにか案はありませんかっ?」

律「ない!」キッパリ

ドアガチャ

憂「こんにちはー。お姉ちゃん、廊下に教科書落ちてたよ。」

唯「あ、ういー! わざわざ届けてくれたの? ありがとう!」

憂「ちゃんと名前書いておいて良かったね。」ニコニコ

律「小学生かよ…。」

唯「そうだ憂、軽音部に入らない?」

憂「うんいいよ。」

律紬(あっさり解決!?)

律「いやいやちょっと待て。憂ちゃん、本当にいいの?」

憂「はい。もちろんです!」

紬(ここまで長かったもの…。今くらい都合良く物事が進んでもバチは当たらないわ…。)

唯「憂、最初から入部してくれれば良かったのにー。」

律「そうだよ憂ちゃん、なんで今になってOKしてくれたの?」

憂「…私が入部しなかったのは、私がいるとお姉ちゃんが私を頼ってしまうからなんです。でも、お姉ちゃんは前よりもずっと立派で強い人になってくれて。」

唯「えへへー、誉めすぎだよー。」ニヤニヤ

紬(やっぱり妹の方が保護者ね…。)

憂「だから私、皆さんと一緒に演奏したいです。お手伝いさせてください!」

律「おっしゃー! ありがとう!」

紬「大歓迎よ♪」

唯「憂、ありがとう。」

憂「えへへ。…でも、私も軽音部で演奏したいと思ってたんだよ。」

唯「ううん、そのことだけじゃないよ。…私、小さい頃から今までずっと、憂に頼ってばかりいた。」

唯「憂は、本当にどうしてそこまでっていうくらい、私のために頑張ってくれたよね。」

憂「そんなの簡単だよ。だって私たち、家族だもん。大好きなお姉ちゃんのためになるなら、私も幸せなんだよ。」

憂の正真正銘の真心と好意に甘えてしまっていた自分を、今更ながら恥じた。

この感謝を表すためには、もう何度ありがとうを繰り返しても足りないけれど、僅かでも伝えるために、精一杯の言葉を紡ぐ。

唯「それでもっ! それでも、何度でも言わせて。…憂、ありがとう。」ギュッ

私の幸せを世界で一番祈ってくれていたのは、他ならぬ憂だってこと、お姉ちゃんは分かってるよ。

…今までなかった新しい幸せを捜し出すより、身近にあって気付かない幸せを見つけることの方が大切だって、もう私は理解している。

そして、あまりに身近すぎて忘れかけていた憂の想い、今では痛いほど分かる。

だから憂、何度でも言うよ。

…ありがとう。



練習!

憂は、ベースを始めたばかりのはずなのに、あっという間に私たちの演奏に溶け込んだ。

本人が言うには、ジャズ研究会の友達にベースを触らせてもらったことがあったらしい。

でもそれだけで弾けるようになるなんて…。憂ちゃんマジ選手。

ジャジャーン!

紬「ほんと、憂ちゃん上手ねー。」

憂「いえ、まだまだですよー。」

唯「さすが私の妹!」エヘン

律「あ、あのさ、今までの曲の他にも、曲練習しとこうぜ! …翼をくださいとかさ。」

唯「そうだね! やってみよう!」

憂紬「うん!」

2人の大切な友達を失ったあの日から、私がずっと追い求めてきた、ささやかな日常。

やっと。本当にやっと、取り戻せたかな。



―――月日は流れ、今日は、高校最後の学園祭。

このライブを最後に、放課後ティータイムは解散する。

唯「…軽音部も今日で卒業だね。」

律「ああ…。」グスッ

卒業という言葉は、どうしようもない一つの区切りと分岐点を示し、また同時に、決定的な脱皮を求められる、そんな悲しいような、そして弾むような、不思議な響きがする。

でも、別れがあるからこそ、積み重ねた思い出の結晶に永遠の輝きが宿るんだよね。

紬「りっちゃん、最後まで笑顔でいよう。」

律「お、おう!」ゴシゴシ

…もし、私が軽音部に入っていなかったら。

澪ちゃんやあずにゃんとも出会うことはなく、大切な人を失う不幸を味わうこともなかっただろう。

そちらの方が、平穏な毎日を送ることができて良いと感じる人もいるかも知れない。温室育ちで苦労知らずの花も、一見すれば美しいのだから。

けれど、風雪に耐えて花を開かせた野花に宿るのは、美しさだけじゃない。

試練を乗り越える強さを知った私にとって、もし軽音部に入らなかったらという仮定が満足な結末を導くことは、もはや永遠にあり得ない。


憂「お姉ちゃん、そろそろMC!」

唯「うん! ええと、次が最後の曲です。」

次で最後か…。

ステージまで持って来ていた、あずにゃんにもらった猫のぬいぐるみを撫でる。

(唯先輩、頑張って下さい!)

ふと、あずにゃんの声が聞こえた気がした。…このぬいぐるみには、あずにゃんの想いが込められているんだね。

(頑張るよ、あずにゃん。)

感謝の気持ちをかみしめながら、力の限り叫んだ。あずにゃんや澪ちゃんにも届くように。

唯「…精一杯歌いますっ! ふわふわ時間っ!」


ジャーン!

…言葉通り精一杯、声の限りを尽くして歌い切った。ステージには立てなかった2人の想いも乗せて。

律「澪、梓、聴いてくれたかな…。」

紬「ええ…。私たちの演奏、きっと届いたわ。」

唯「…これで、おしまいだね…。」





―――アンコールッ!

憂「…! お姉ちゃん!」

唯「アンコール…?」

―――アンコールッ! アンコールッ!

紬「やりましょう! アンコールに応えて!」

律「じゃ、じゃあ曲は、澪がやりたがってた…。」

唯「うん、あの曲しかないねっ!」


…今まで、翼をくださいの「翼」って何を象徴する比喩なんだろうと疑問だった。富や名誉よりも大切な望み。

それは当然、人によって違うのだろう。人それぞれ、望みの形は違うのだから。

でも、人間の多様な望みにも、根底に流れるものは共通している。それは、大昔から何度も何度も、様々な物語や音楽を通じて訴えられ続けているもの。

…人の幸せを願う愛が、富や名誉を超える望みを生み出すのだ。

人間は長い歴史の中で、論理という思考手段を鍛え続けることによって、自らの最良の行動を探し当てる羅針盤を追い求めている。

けれど、行動原理に論理を介在させてなお、人間の行動を決する根本的な価値基準となり、私たちを突き動かす原動力になっているのは、人を想う愛なのだと思う。

…そして、私たち軽音部のメンバーにとって、今求める「翼」はただ一つ。

澪ちゃんやあずにゃんのためにも、最高の笑顔で最高の演奏をしよう。2人を想う愛が、私たちを駆り立てる。

唯「それじゃ、アンコールにお応えして、…もう1曲、歌います!」

唯澪律紬梓憂「翼をください!」

 おしまい。



最終更新:2010年07月13日 23:33