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いつの間にか私を抱きしめる腕が離れていた。
私の顔のすぐ横に手をつき、澪はその腕を伸ばす。

私と澪の間に生まれた僅かな距離。
互いの顔はほとんど見えない。
どこからともなく差し込む夜の明かり。
雨降りの夜の明かりはどこからやってくるんだろう、なんてくだらないことを考える。

仄かな明かりに照らされて、朧気な澪の表情。
涙だけがきらりと光を返している。

「澪…。」

特に何かを伝えたかったわけではない。
ただ、無性に名前を呼びたくなった。

「律、ごめん。」

澪は何故か謝った。
謝らなければならないのは私の方なのに。


言葉の意味がわからない。
私は澪を見つめる。
澪も視線を反らそうとはしない。
まるで瞬きをしてはいけないという小学生の我慢比べだ。

不意に私の頬に冷たい何かが落ちる。
それは重力の通りに頬を伝って、なじんで消えた。
我慢比べに負けたのは澪の方だった。

「私…私…。」

なんだよ、早く言えよ。気になるだろ。
言おうとしたけど、声が出なかった。
仕方がないから視線で続きを促す。
どうやらそれはきちんと伝わったみたいで。
澪はゆっくり話し始めた。

「最低だ…。」
「…。」
「さっき律が言ったこと、全部嘘だろ…?」
「…。」
「律が何を思ってそんなこと言ったのか、なんとなくわかるよ。」
「…。」
「でも、ごめん。」
「…。」
「律のその嘘を真に受けて終わりに出来る程、私…物分り良くないんだ。」



なんてこった。
私の決死の嘘はお見通しだったってことか。
作戦が失敗したというのに、私は何故か少しだけ安心した。
澪が私の本心を見抜いてくれてると思うと嬉しくもあった。
もしかしたら、私達はとっくに後戻りの出来ないところまできているのかもしれない。

それが怖い。
でも、澪がいなくなるのは…もっと怖い。

「律がそんな嘘をついてまで私から離れたいんだって思うと、凄く悲しかった。」
「澪…。」
「律の気持ちはわかる。だけど、もう…手遅れだろ?」
「あぁ…。」

洗脳されているとき、人はこんな感覚に陥るのだろうか。
澪の手が私の頬を優しく撫でる。
触れられるだけで気持いい。
そんな人、後にも先にも澪だけだろう。

どうしたらいい?なんて問い掛けはもはや意味を成さない。
なんでって。
どうしたらいいか、何が正解なのかはわからないけど、どうしたいかはハッキリしているから。
そんでその欲望に勝てる気がしないから。
だから私は本能のままに行動する、それだけ。


澪の首まで手を伸ばす。
そのままくいと首を引き寄せる。
力を入れる必要はなかった。
澪が自ら近づいてきたからだ。

申し合わせたかのように発情する私達。
せーので結論を先延ばしにする私達。

なんだか滑稽で少し笑ってしまった。
互いの唇を貪り合う最中、私のくぐもった笑い声が少しもれる。
澪の動きが止まった気がしたが、それも一瞬ですぐにまた行為に没頭した。

息が出来なくて苦しくて。
四方を壁に塞がれた空間、灰色の世界、穏やかに流れる雲、アンバランスな蒼い空。
そんないつかの私の妄想が重なってフラッシュバックした。

口の中で澪の唾液と私の唾液が混ざる。
時折それを飲み込むうとするけど、上手くいかない。
そりゃそうだ。
まともに呼吸すら出来ないんだから。

段々それも億劫になって、飲み込むことすら放棄する。
口の端から何かが伝った気がするが、どうでもいい。



いつもと違う味が混ざっている。
それが私達の涙だと気付いたのは唇を離してからだった。

「澪…。」
「律…。」

互いの名前を呼び合う。
さっきと同じで、それに意味なんてない。
別に愛を確かめ合っているわけでもないし、
何か用事があるわけでもない。

強いて言うなら互いがそこに確かに存在しているのだと、自分に思い知らせるため。
そして声が返ってくると私達は漸く、暫くの間安心することが出来るんだ。
名前を呼び合うだけで済む場合もあるし、そうじゃない場合もある。

澪の顔が近づいてくる。
どうやら今回は『そうじゃない場合』らしい。

「ちょい待ち。」

私は掌で澪の顎を押しのける。
途端に澪は不安そうに首を傾げる。
私はため息をついて言ってやった。


「別に、嫌なわけじゃない。ただ…。」
「ただ…?」

私は片手をついて身体を起こした。
そして空いている方の手で澪を少し押す。

「お、おい…律?」

戸惑っている澪は置いてけぼり。
大丈夫、今にわかるから。

久々にベッドから背中が離れた。
エアコンなんてつけていないけど、汗で濡れた背中が少し涼しくて気持ちいい。
澪は私を見つめる。

何?
そんなことを言いたげな視線。

「おい、律ってば…何を」

その言葉を遮るように私は澪に抱きついた。
どんっ、と。
そんな音がするくらい思い切り、澪の胸に飛び込んだ。
そして後ろに回した手に力を込める。


私が何をしたいのか即座に理解してくれたみたいだ。
澪は痛いなんて文句も言わずに、強く抱き締め返してくれた。

セックスも好きだけど、私はこうしている方が好きだ。
こうしている方が一つになれた気がするから。

でも、私は同時にセックスは嫌いだし、こうしている時間も嫌いだ。
肌を重ねている間は何も考えられなくて、終わってみればただの現実逃避にしか思えないことが多々あるから。
こうしていると所詮私たちは別のモノであって、肌で分けられている限り一つになんて成り得無いと気付かされてしまうから。

好き、嫌い。
そんな行為を懲りずに繰り返す私は馬鹿なんだろう。

一つになりたい。
私の色と澪の色。
もっともっと混ぜ合わせて、元の色なんてわからなくなる程に。

澪の鼓動が聞こえる。
生きている。
その事実が今の私の全て。
どうか止まらないで。
いつか生きるのが面倒になったら私が止めてやるから。
相当病んでるな、そんなこと言ったとしても笑い飛ばしてくれる人はもういない。


唯も紬も梓も、憂ちゃんですら私達の関係を受け入れてしまったのだから。
きっとみんなそんなことないよ、なんて言ってフォローするに決まってる。
表向きは『親友の延長線上のような関係』を今だに装っているから。
私達が裏でこんなにも束縛し合っているなんて、誰も知らない。

『今日あの子となんの話をしていたんだよ』

澪と付き合うようになってから何度この言葉を言っただろう。
そして、何度この言葉を言わせただろう。
互いの友人に嫉妬し合って、些細な喧嘩を繰り返してるなんて。
本当に、誰も知らないんだ。

「律…。」

まただ。
また、澪が私の名前を呼ぶ。

「ん。何?」

私はくっついたまま返事をする。
それどころか、腕に込める力をより一層強くする。


「私達、離れ離れになんて…ならないよな?」

耳に残る残響。
その余韻だけで達してしまいそうだ。

先程のもう一人の私のそれとは比べ物にならない、本当の悪魔の囁き。
肯定していいのか。
このまま、閉鎖的に愛し合うのが私達にとっての幸せなのか。

わからない。

わからない。

教えてよ、澪。

「り、つ…」

ぐらりと世界が揺れる。
そしてぼふんと音を立てて崩れる。

何事かと思いきや、澪の眠気が限界らしい。
私は抱えられたまま横になっている。


起き上がるのも面倒だ。
今日はこのまま寝てしまおう。
目を閉じると澪の呼吸と鼓動がよりクリアに聞こえた。
どんな音楽よりも心地良い。
揺り篭の上なんかよりも、私はこっちの方がいいな。

答えなんてなくて。
出口なんて見つからなくて。
それでも私は澪が居ればそれでいいんだ。

結局、明日を変えることはできなかった。
未来は変わらなかったんだ。
だから私は明日も澪を求める。
そして澪は明日も私に寄りかかる。

終止符を打たれたのは私達の関係ではなく
私達の未来だったのかもしれない。


でもそんなことも、もうどうでもいい。
すぅすぅと寝息を立てる澪に口付ける。

父さん、母さん、澪のおばさん、おじさん。
そんで、澪。
私…やっぱり澪を手放すなんて出来ない。
みんな、ごめん。

そんなことを考えながら眠りにつく。

-私達を囲んでいた壁の一部が崩れて
-そこへ乾いた風が初夏の匂いを運ぶ
-相変わらずマイペースな空が飛行機雲を浮かべて
-私はそれを澪と手を繋ぎながらぼんやりと見上げている

朦朧とした意識の中で。
そんな夢を見た気がした。



おわり



最終更新:2010年07月14日 00:15