澪「暗い」
陽の当たらない私たちの部屋は、いつでも光に満ちていた。
誰も踏み入れようとしない薄暗いそこは、確かに私のためにあった。
彼女がどう思っているかなんて考えはしなかった。
ただ私の前で笑っていてくれればよかった。
「律は、私のことをなんでもわかってくれるんだな」ってそう言ったら、
律は困ったような表情で「そんなことないって、全然」って、笑ったんだ。
高校を卒業して、私たちは大学に進学した。
それを期に、私と律は、実家を出て、ルームシェアをすることにした。
大学は別々だったけれど、一人暮らしをしたがっていた律が、私と一緒ならという条件付きで両親に許しをもらったのだ。
けれど、だんだん律の様子がおかしくなっていくのを私は感じていた。
私と律、二人だけの部屋なのに、人を上げようとしたり、それについて私が苦言を呈すると嫌な顔をしたり。
誰にも覗かれたくないからカーテンを閉めたままにしているのに、勝手に開けたり。
律はどうしてしまったのだろう。
律は、研究課題が忙しいのだと言って、何日も何日も帰らなかった。
勿論最初から全くおかしいと思わないわけじゃなかった。
そもそも一年時では、そんなに大変な研究課題など、少なくとも私の大学にはなかった。
それに夜通し何をするというのか疑問だったし、仮に研究発表の準備などがあるのだとしても、そんなに何日のかかるものだろうか。
どうにもおかしい。
でも律が私に嘘をつくはずはないと思っていた。
私がそうであるように。
しかし、和から、律が何日も唯の家にいるという連絡を受けて、私は真実を知った。
「なんで嘘をついたんだよ」
責めるような口調じゃなかったと思う。
私は別に怒っていたわけじゃなかった。純粋にわからなかった。律が私に嘘をついた意味が。
でも、律がとてもとても、なんていうか、つらそうな顔をしたから、私は少し焦った。
「お、怒ってはないよ? なんでなのか、知りたいだけなんだ」
しかし、そう言っても律は黙り込むばかりで、私はちょっとぞっとした。
何にかはわからない。ただ、なにか今までと違うよくないことが起きる気がした。
微かに震える肩に触れようと手を伸ばすけれど、律が悲しそうにこっちを見るから、
それは暗に私の手を拒んでいるのだと読み取れてしまったから、どうしようもなくて、手を宙に這わせた。
私だって、もともと気の長いほうじゃない。
一向に口を開く様子を見せないものだから、つい強く言ってしまった。
「なにか、あったのか? 私のせい? 言ってくれなきゃ、わからないだろ」
するとどうだろう、律はほんの少しだけれど、笑った。
私にはそれが何を意味するのかさっぱりわからなかった。
私を馬鹿にしているとか、呆れているとか、そんな顔じゃなかった。
いいや、それ以前に、律は、律はそんな奴じゃない。
笑い顔を見せてくれたことに安心して、私も、へらりと笑おうとした。
けれどそれは阻まれた。
「理由とかはないんだよ」
温度が感じられない声に、半分吊り上げていた口角が止まった。
「ただ……」
伏せられた視線の先を見つけようと必死に追うけれど、律の瞳の奥は何も見ていない。
冷や汗が伝う。
「女同士に目覚めたんだよ」
「なに……」
「女子高出身だと珍しいことでもないだろ? ほら、唯って可愛いしな」
かあっと胸の奥が熱くなった。振り上げそうになった拳を必死に抑えた。
どうしてかわからない。理由もわからないれど、悔しい。
「嘘だろ」
情けない声が出た。
「……うん。嘘だ」
律は当然のような顔をして頷いた。私には律の言動の意味がちっともわからなかった。
「どう、したんだよ。どうしてだよ。律の考えてること、全然わからない」
「私もだよ」
鋭い声だった。物凄く、本音を言われた気がした。
「全然、わからないんだ」
「嘘! 嘘だ!」
律は、いつだって私のことをわかってくれた。
私はそれが心地よく、とても特別で、他の誰にもありはしないのだと思っていた。
けれどどうだろう、今の律は。啓けたような瞳でこちらを見ている。
私の知らない顔をしている。
「じゃあ、なんだよ、唯のことならわかるっていうのかよ」
「……唯は、私に期待なんてしないよ。私が自分の全部をわかってるなんて、思いはしないんだ。
普通は、そうなんだ」
正しいのは私で、おかしいことを言っているのは律だ。
何を言っているのかちっとも要領を得ない、わからない。わからないはずなのに、痛いのはなぜだろう。
唯は期待しない。
私は、する?
唯は、律が自分の全部をわかってるなんて思いはしない?
だってそれは。
「そりゃあ、そうだろ!? だって、だって律は私のことだけわかってればいいんじゃないか!
唯や、みんなのことなんか、私のことと同じふうにわかってるはずない!」
「やめて澪、痛い……」
掴んだ腕を、律が無理くりに振り払った。
弾かれた手がじんじんと痛むけれど、律がそんな顔で私を拒絶することのほうが、余程に痛い。
「ずっとずっと、澪がこわかった。何考えてるのか、わからなかった」
「は?」
「“律は私のことなんでもわかってくれる”って、そう言われるたび、こわくて、心が痛かった。
本当は全然そんなことないのに!」
――他人が入り込むことを拒みつつ、私を盲信していることがおそろしかった。
それでいて本当の私なんて見てはいない。私が何を思っているかなんてどうでもいい。
そんな澪が、こわい。あの部屋に帰るのがこわい。私以外誰も入れない、あの部屋がどんどん完成されていくのを、見たくなかった。
律が言っているのを、私は拷問を受けるような気分で聞いていた。
だって、笑っていたじゃないか。
楽しそうにしていたのに。
確かに私は、律の思っていることなんて、考えもしなかった。明るい顔の裏なんて読み取ろうともしなかった。訊きもしなかった。
それでも私のことはわかっていてくれている、それで律が笑っていてくれればそれでいい。
そう思っていた。
「私が悪いんだ。澪の期待に添えない」
「ちがう……」
「ううん、でも、私は澪のことが好きだったんだ。だから無理だった」
「私だって、好きだよ……!」
「だからなんだ。多分私たちの好きは違う。私は、本当にわかりあっていきたかった」
それはまるで私は閉鎖的で屈折していると言っているように聞こえた。
そうじゃない、ただ私は律以外の誰にもわかってほしくなかった。
誰にもあの部屋に入って欲しくなかったんだ。
それを歪んでいるといわれれば、仕方がない。
けれど律にはわかってほしかった。
受け入れて、「私もそうだよ」と笑ってほしかった。
「ごめん、澪。ごめん」
「仲直りした?」
廊下で出会い頭、ムギに訊かれた。彼女とは同じ大学の別学部に通っている。
律とのことだろうと、ぼうっとした頭で思った。
そういえば、ムギは唯と同じバイト先で働いているのだ。
「うん」
本当は喧嘩じゃないとか、そんなことを言う気もなかった。虚ろな返事にも気に留めず、ムギは言った。
「それなら、よかったわ。唯ちゃんの家に来なくなったって聞いていたから、そうだとは思っていたのよ。
二人が喧嘩なんて珍しいじゃない? だから心配だったの。りっちゃんは私にはなにも言わないし」
私には、という言葉が引っ掛かって、胸がずきんと痛んだ。
けれど、詳しく訊く気にはならなくて、適当に笑顔を作ってやり過ごした。
多分あの部屋に帰れば誰かがいて、それは律と、『私ではない誰か』だ。
律はきっと笑っているだろう。私の前で見せるのとは全然違う顔で。
「おかえり澪ちゃん」
「あ、澪。唯、今日泊まるってさ」
「えへへ、よろしくー」
ほら、やっぱり。
私が隠していた扉はこじ開けられてしまった。
たくさんの光が入ってきたのに、私はちっとも明るくなかった。
あの、薄暗い部屋が。
律と私だけの眩い部屋だけが、私の宝物だったのに。
終わり
最終更新:2010年07月23日 00:44