――翌日。
「…話がある?」
登校中の通学路で会った梓ちゃんは、開口一番に話を切り出した。
「そう。和さんが、放課後生徒会室まで来て欲しいっていう話だよ。」
「分かった。でも、どうしたの?」
「あれ、昨日の夜メールが来なかった? 軽音部の活動再開を先生方に提案してくれるって。」
「ほんと!?」
「それで、憂にも来て欲しいらしいんだ。…多分、関係者だからじゃないかな。」
…関係者。
お姉ちゃん絡みの話だろうと予想はついた。
でも、どのような心の準備をすればいいのか、よく分からない。
「大丈夫だよ、憂。」
そんな私を見透かしたように、梓ちゃんが優しく声をかけてくれた。
学校に着くと、軽音部の皆さんと和さんが、教室の前で待ってくれていた。
「あ、お二人さん! 今日もまた仲睦まじそうで。熱いねー!」
「もう、律先輩、からかわないで下さいよ。」
膨れっ面の梓ちゃん。
以前と同じ、軽音部らしい和やかな空気が流れた。
でも、皆の顔には、以前にはなかった何かが宿っている。
それは、梓ちゃんの歌声が帯びていたのと同じもの。
…それが何なのか、今の私には理解できるような気がした。
梓ちゃんが頬をしぼませるのを見てから、遠慮がちに質問を発してみる。
「皆さん、今日の放課後って…。」
「ああ、生徒会で軽音部の休部措置の取消しを提案するの。」
誰ともなしに投げかけた疑問に、和さんが答えてくれる。
「憂ちゃんも、来たいでしょ?」
「行きます!」
もちろん即答。
「良かった。昨日メールしたんだけど返信なかったから、ちょっと心配してたのよ。」
え、メール?
「あれ、そんなの着てないような…。」
慌てて携帯を確認するが、やはりそんなメールは来ていない。
「…あ、ごめんね。皆に同時送信したつもりが、操作ミスで憂ちゃんだけ抜けてたみたいだわ。」
「和、意外とおっちょこちょいだなー!」
律さんが、昨日の梓ちゃんと同じ感想を述べる。
「うふふ。でも、しっかり者のイメージとは裏腹な、」
「そういう意外性のあるギャップが、」
「いいんですよね!」
紬さん、澪さん、梓ちゃんが連携すると、珍しく和さんは顔を赤くした。
「も、もう! 先生方を説得するのって大変なんだからね!」
「大丈夫! 軽音部に不可能はないのだっ!」
律さんが自信満々に宣言する。他の皆も頷いて同意を示した。
「あ、そういえば和さん、このカード落ちてましたよ。」
「え? ああ、ありがとう。どこにあったの?」
「音楽室の前に…。」
「ああ、あの時か…。驚いたわ、下校時間過ぎてるのに憂ちゃん達が歌っているんだもの。」
「え、聞いてたんですか?」
「ええ。でもなんか2人が良い雰囲気だったから、声をかけないで帰っちゃった。」
「声かけて下さいよー。」
和さんは、そんなクレームを笑って受け流して、私と梓ちゃんを見る。
「じゃ、頑張りましょう。放課後またね。」
「はい!」
「よろしくお願いします!」
そして放課後。
授業終わりに純ちゃんにノートを貸したり返してもらったりしていたら、なんだかんだで遅くなってしまった。
梓ちゃんと一緒に生徒会室へ行くと、案の定、他の皆さんは既に廊下に揃っている。
「すみません、お待たせしてしまって…。」
「大丈夫だよ、憂ちゃん。」
でも、澪さんがフォローを入れてくれた。
「よーしっ! 皆の者、準備は良いかっ?」
律さんが声高らかに鼓舞すると、
「「おーっ!」」
皆が声で応えたのに対して、紬さんだけは、声だけでなく右腕を高々と振り上げて応えた。
「他の皆、腕も振れー! もう一回だ!」
…でも、二度目の気合注入は、突然開かれたドアに遮られた。
ドアを開けるやいなや、その人物は口を開く。
「ちょっと、静かにし…、って皆!」
「あ、和さん。」
「和っ! 先生方の説得、私たちに任しときなっ!」
そう威勢良く宣言して生徒会室に踏み入ろうとする律さんの腕を、和さんが掴んで引き止めた。
「ああ、もう大丈夫よ。」
「はひ?」
「私がもう説得しといたわ。案外すんなり納得してくれた。」
「ふへ?」
「軽音部、また活動できるわよ。学園祭にも出ていいって。あと1ヶ月だけど、頑張って。」
「やったー!」
律さんは飛び上がって和さんに抱きついた。澪さんと紬さんも抱き合って喜んでいる。
ということは、
「やったね、憂!」
…梓ちゃん、あったかい。
「ほ、って言って欲しかったわ…。」
タイミングの悪いツッコミを入れる和さん。
おっちょこちょいかも知れないけど、やっぱり頼りになるね。
「じゃあ、今日から練習再開だっ!」
「「おー!」」
律さんの鼓舞に、今度は全員、右腕を振り上げて応える。
「澪、ちゃんとエリザベスは持って来てるか?」
「当たり前だ!」
「あ、ティーセットも持って来てるわよ、安心してね。」
「流石です…、ムギ先輩。」
軽音部の皆を突き動かしている想いが、私の胸も満たしていく。
「わ、私も練習、見に行ってもいいですか?」
「「もちろん!」」
返事はもちろん即答だった。
…そして今日から、和やかな放課後の音楽室が戻ってきた。
最初は、梓ちゃん一人だけだった。
でも今は4人。私も入れれば、5人。
皆、自分達の音楽を、そして幸せを取り戻すために、練習に励んでいる。
口には誰も出さないけれど、全員がお姉ちゃんの回復を信じていた。
…初めは梓ちゃんが一人で歩み始めた、幸せを取り戻すための小さな一歩。
今は皆が一緒になって、千里の道を踏破すべく、一歩一歩、歩みを進めている。
それは、解せぬ他人からすれば、単に演奏の練習に打ち込む姿にしか見えないだろう。
でもこれは、重く尊い意思を宿した、前進のための偉大な一歩。
私はもう、後悔と未練の泥沼に足を踏み入れることは絶対しない。
いくら過去を悩んでも悔やんでも、その先には進めないのだから。
ふと窓の外を見上げると、満天の星空。もちろん主役は、大きな満月。
それは、今は見えない太陽の存在を、穏やかな月光で確かに示していた。
なんだか懐かしい。地上を照らす光の中に、そう思わせる温もりを感じる。
その時、澄み渡った夜空の彼方に、一筋の流れ星が光った。
――♪
同時に、梓ちゃんの歌声が音楽室に響き始める。
音の連なりの内に秘められた真実の声を、私は確かに聞き取った。
それは、ベース・キーボード・ドラムの伴奏を得て、耳にした者に絶対の希望と信頼を与える不思議な力を生み出し続けていた。
――1ヶ月が過ぎ、今日は学園祭の日。
軽音部の演奏を聴きに来た人々で、講堂は溢れかえっている。
私はそれを、後ろの壁際から見渡した。群集の期待が熱気を帯び、演奏の始まりを待ち焦がれる空気が充満している。
…前にもこんなことがあった。あの時も、あの人は忘れ物を取りに帰って遅刻した。
でも、みんな待っているから大丈夫だよ。
―バタンッ
勢い良く扉が開き、誰かが駆け込んでくる。
すぐに私に気付き、Vサインを決めてから、また走り出した。不釣合いにも見える千羽鶴をギターケースに下げて、舞台へ向かって駆けていく。
…これって奇跡?
ううん、きっと違う。
だって、ずっと信じてたから。
「…奇跡じゃなくて必然、だよね。」
また一つ、小さな呟きが漏れる。
その独り言は、今までで一番、幸せに満ち溢れていた。
おしまい。
最終更新:2010年08月18日 21:40