「うい…」
気を紛らわそうとして、買い物メモを見る。牛挽き肉、玉ネギ、ケチャップ……
これ、ハンバーグの材料だ。今日の夕飯は憂が作るって言ってたから、きっと憂はわたしの好物を作ろうとしてくれてたんだね。
お昼ご飯のお蕎麦、物足りないなんて思ってごめんなさい。本当は、すごく美味しかった。
その日、憂は具合が悪いと言って部屋から出てこなかった。たった一言、さっきはごめんね、お姉ちゃん。とだけ言ってくれたけど。
わたしが気にしてないよ、と明るく声を掛けても、憂の笑い声はからからと乾いていて、空しさばかりが胸に突き刺さった。
仕方がないから、一人で晩御飯を作って、憂の分は冷蔵庫に入れておくからね、と声を掛けて。
沈んだ気分のせいで味気の無いハンバーグを、身体だけは気分に関係なくご飯を平らげて。
リビングでぼーっとしている間に、せっかく沸かしたのにすっかり温くなってしまったお風呂に入って寝ようとした。
その時だった――わたしの耳が、憂の部屋から漏れてくる啜り泣きをとらえたのは。
カチャ――
鍵は、掛かっていなかった。わたしの目に飛び込んできたのは、寝間着にも着替えずに膝を抱えたまま泣きじゃくる憂の、小さな背中。
いつもはすごく頼りになる妹が、こんなに弱々しく見えたのは、これが初めてだったかもしれない。
◇ ◇ ◇
「憂…大丈夫?」
お姉ちゃんが私の背中を撫でる。隣に座る気配。ダメだ、こんなことじゃ。
こんなことじゃ、お姉ちゃんは何時まで経っても私から離れられない。私から、お姉ちゃんを突き放さなきゃいけない。
「っ…!放っといてよ、お姉ちゃんには関係ないんだから!」
「う、うい…?」
「出てって!出てってってば!!」
強引にお姉ちゃんの手を振り払って、部屋の外へ押し出して、鍵を掛ける。戸口から聞こえてくるお姉ちゃんの心配する声。
ごめんなさい、ごめんなさいお姉ちゃん…!お姉ちゃんの気持ちを踏みにじるような事をして、ごめんなさい…っ!
今までお姉ちゃんにしてきた仕打ちを思い返すだけで、涙が溢れて止まらない。
本当は、今すぐにでもお姉ちゃんに抱きついて、何度も、何度も謝って許しを乞いたいのに。
でも、それをしてしまったらお姉ちゃんへの裏切りになるから。だからせめて、心の内だけでも謝らせて。
結局、また突き放されてしまった。今すぐにでも泣き出したいくらい、目頭が熱い。
でも泣くわけにはいかない。わたしよりも何倍も何倍も、憂のほうが辛いんだから…。
さっきの様子で、疑ってた事が殆ど確信に変わった。やっぱり憂は、高校のクラスメートと上手くいってないみたいだ。
その上、わたしの世話焼きなんて貧乏くじが回ってくれば、不満だって爆発するに決まってる。
そう考えれば、全ての合点がいく。そのくせ、わたしが姉としてしてあげられることは何一つ無くなってしまった。
……いや、あるにはある、のかな。憂の身の回りのお世話、とか…。今までのお返しを、こんな形ですることになるなんて。
頑張ろう。それが、今わたしにできる唯一の憂を支えられる手段なんだ。ふと目にしたカレンダーの日付けに、
やるせなさをしみじみと感じる。…わたしがこの家で憂と過ごせる時間も、そう長くはなくなってきている。
―――――――2/19 唯の日記より抜粋
二日が過ぎた。お姉ちゃんは人が変わったように家事をてきぱきとこなし、私が朝起きる頃には朝食を作ってくれていたり、
お風呂掃除をしようとしたらもうお湯が張ってあったりと、まるっきり私の仕事がなくなってしまうほどに働いてくれるようになった。
ご飯の支度もすっかり一人でできるようになったみたいで、私が手伝おうとすると「わたしにはこれくらいしかできないから、憂は休んでて」
とやんわり断られてしまって、なんだか寂しい。相変わらず週末は出かけるみたいだけど、もう心配はないと思う。
今までの態度の理由と事情を説明して、お姉ちゃんに謝ろう。そう決心したけれど、
今更どうやって謝ったらいいんだろう。きっとお姉ちゃんは、内心私の事を嫌ってるに決まってる。
今までのような、仲良し姉妹に戻る事はできるんだろうか。そんな事ばかり考えていた。
不安で不安で、気を抜くと泣き出してしまいそうなくらいに心が不安定だった。
でもお姉ちゃんの前で泣くわけにはいかない。今の私にそんな資格は無いんだから。
どうやって仲直りしようかと考えあぐねて、それでもいい案は浮かばなくて、途方に暮れたまま、一日が終わる。
そしてその翌日、私は和ちゃんに呼び出されたのだった。
「どう、唯は頑張ってる?」
「うん、和ちゃんのアドバイスのお陰で、お姉ちゃんの事はもう心配なさそう。」
「そっか。やっぱりというか元気ないわね、憂。…少し、散歩しない?」
「うん…」
和ちゃんと二人、並んで歩く。お姉ちゃんは今頃、家でお夕飯を作ってくれてるのかな…。
仲直り、できるのかな…。
そんな事をぼんやり考えながら、私達が辿り着いたのは、昔よく遊んだ近所の公園。
今日は誰も遊んでいなくて、私と和ちゃんだけが夕日に照らされている。
コンクリートに固められえた遊具に寄り掛かるようにして並び、ぽつりと和ちゃんが切り出した。
「唯ね…あなたが学校で虐めにあってるんじゃないかって、心配してたわ。」
「えっ!?」
「どうも梓ちゃんに電話して様子を訊いたらしいんだけど、元気がないって聞いて。
道で滑って転んで制服を泥だらけにして帰ってきた時の事で、虐められてるって完全に信じ込んじゃったらしいの。」
「そんな!それじゃあ私、ずっとお姉ちゃんに心配掛けっぱなしで…」
「そうね。というか、心配ならずっと掛けっぱなしだったと思うわよ?唯の事だもの。
どんなに一方的に嫌われたとしても、たった一人の大切な妹が心配にならないわけがないわ。
でも、憂が甘やかさずに接してきたからこそ、結果として唯はひとりだちできるくらい、
生活力が身についたと思うわ。……本当に、今までよく頑張ったわね、憂。もう……我慢しなくていいのよ。」
「のどか、ちゃ…うぅ、うわぁぁぁぁん!!」
もうすぐ大学生になるというのに、私はみっともなく大声を上げて泣いてしまった。
ずっとずっと胸の奥に閉じ込めていた想いが堰を切ったように溢れ出て、次々に口を衝いて出てくる。
こんな所で和ちゃんに懺悔したところで、何の解決にもならない事は判りきっているのに、涙は止まることを知らずに溢れ続ける。
「わたし…わたしイヤな子だった…お姉ちゃんの事をアゴで使って、大変な事全部押し付けるようにやらせて…
お姉ちゃんの不満が溜まるのも当たり前なのに、恩着せがましく今までの事を掘り返してお姉ちゃんに罵声を浴びせて…っ!!」
「うん、うん…辛かったわね。でも憂は、唯のために家事をすることは苦じゃないんでしょう?本当は唯の事が、大好きなのよね?」
和ちゃんの胸に顔を埋めたまま、濁った返事をする。
「う゛ん゛っ!でも゛…っ!!」
「その気持ちがある限り、あなた達はいつまでも仲のいい姉妹よ。唯も絶対、分かってくれる。幼馴染の私が保証するわ。」
「っ…わ゛だしっ、ぜっだい、おね゛えぢゃんに嫌われぢゃっだ…!」
「そうかしら?私はそうは思わない。あなたのしてきた事の真意を知った今なら、尚更、ね。」
「……それは、ぐすっ、和ちゃんが、全部知ってるから…」
洟を啜りながら、詰まった声で紡ぎだす。しかし和ちゃんは澄ました顔で、唇の両端を吊り上げてみせた。
「本当にそう思う?なら、直接本人に訊いてみましょうか。ねぇ、唯?」
…えっ?
のどかちゃんの言葉を合図に、遊具の影から姿を現した。
今わたしは、どんな顔をしてるんだろう。
きっと、泣き笑い、に近い表情だと思う。
「おねえ、ちゃん…」
「うい…そう、だったんだね…憂は私の事を心配して、だから――」
「ごめ゛ん゛…ごめ゛ん゛ね゛おね゛え゛ぢゃん゛っ…!」
「ううん、わたしこそ、文句ばっかり言ってごめんなさい。憂、これ……」
震える手で憂に差し出したのは、三日月の飾りがあしらわれたペンダント。
「これって…」
「やっぱり忘れてたんだ。今日、憂の誕生日だよ。それでね、
何がいいかずっと悩んでたんだけど…やっぱり憂とおそろいにしたくて。」
首に提げている、太陽の飾りをあしらったペンダントを引っ張り出す。
実を言うと、オーダーメイド。純銀だし、決して安くはなかった。
何をあげようかと悩んでいたわたしがこの選択に至ったのは、和ちゃんがぽつりと言った事が切欠だった。
月と太陽。
太陽は誰にでも惜しみなく光を与え、生きとし生けるものの命の糧となる。
月は夜の帳を、太陽の助けを借りて穏やかに照らし、孤独に疼く心を優しく癒す。
まるであんたたち姉妹みたいね。わたしには憂が、憂にはわたしが必要なんだって。
たとえ距離が遠くなることはあっても、切っても切れない縁なんだって。
「ごめん、柄にも無い事言ってるわ。今のは忘れて」と苦笑して言われたけど、不思議とわたしの耳にはその時の言葉が残っていた。
「憂、唯が週末家に居なかった理由はね、憂へのプレゼントを買うんだって、短期のアルバイトをしていたからなの。」
「え…!?」
「のどかちゃん、それは言わない約束…!」
「ふふ、観念しなさい、唯?」
「ぶぅ。…えへへ、なんだか面と向かって言うの照れくさいけど…貰ってくれる?」
「っ…もちろん!!大事に、大事にするからね…っ!」
「ありがとう憂~!」
もう、我慢できない。思いっきり憂に抱きついて、全力で頬擦りして、ぎゅうっと抱きしめて、抱きしめ返されて。
憂の匂いと、あったかさとやわらかさを体中で感じて。私の心には一足早く、春がやってきた。
きっとそれは、憂も同じなんだろうと思う。ぴったりと密着したわたしと憂の頬の谷間に伝う雪解け水は、
少しだけしょっぱい味がした。今日はお父さんもお母さんも「少し遅くなるけど必ず帰る」って言ってたから、
のどかちゃんも一緒に、みんなで憂の誕生日祝いをやろう。料理は準備万端。ケーキも作ったし、あとはロウソクを立てるだけ。
お店のものに比べたら味や見た目は落ちるかもしれないけど、込めた真心だけは絶対に負けない。
「ふぅ、無事、一件落着ね。それにしても誰よ、憂が虐められてるかもなんて厄介な誤解を吹聴したのは。」
「りっちゃんです…」
「律……唯も唯よ?律がちょろっとそんな事言っただけで鵜呑みにしちゃうなんて…」
「うぅ、面目ない…」
「…ふふ、でも律さんのお陰で梓ちゃんと純ちゃんがよく教室に遊びに来てくれるようになったんだよ。
悩みがあったらいつでも言ってねって言われちゃった。心配してくれてありがとう、お姉ちゃん。」
「そっか…ねぇ、憂。今までありがとね。これからはわたし、料理も洗濯も掃除も買い物もちゃんとやるよ。
憂ばっかりにやらせたりしないから。だから、これからもよろしくお願いします。」
今まで憂に掛けた負担と、自分のぐうたら加減を恥じて頭を下げる。
こんなだらしない姉なのに、憂は笑って許してくれた。
「ううん、私こそごめんなさい。本当はお姉ちゃんにご飯作ったりするの大好きなのに、
イヤだったなんて嘘吐いて、お姉ちゃんにも辛い思いさせて……これからは、一緒にやらせて?」
「もちろん!憂と一緒にお料理するの、わたし大好きだもん。大歓迎だよ~。」
「お姉ちゃん…」
「うい…」
「「大好きっ!!」」
Side:Nodoka Manabe
本当にもう、この子達は世話が焼けるんだから。…でも、無事に仲直りできて良かった。
こうして姉妹仲睦まじく寄り添っているのが一番絵になるものね、この子達は。
心底幸せそうな二人の笑顔を見てると、私の心配なんか本当に微々たるものなんだって感じられる。
唯、憂、二人とも頑張ったわね。もう喧嘩しちゃだめよ?…なんて、元凶の私が言えた事じゃないか。
私は二人に、と買って二人の名前を刺繍にしたエプロンの入った手提げを腕に掛ける。
そよそよと南風が吹き抜けてゆく。こんな季節に、何故?と一瞬考えて、やめやめ、とかぶりを振った。
きっとこれは、姉妹仲が元通りになった事への祝福なんだろう。誰から?…誰だっていいか。
ささやかな奇跡とも言うべき自然の気まぐれよりも姉妹の絆がより強くなった事こそが、なによりの誕生日プレゼントのはずだから。
放っておくといつまでも抱き合ったまま離れようとしない姉妹の頭にポンと手を乗せる。
「ほらほらお二人さん。イチャイチャするのは結構だけど、家でやってくれるかしら?」
はぁーい、と仲良くいい返事が返ってくる。
恋人のように手を繋いだままの二人の背中を押して、私はふっと笑みを零しながら平沢家に足を向けるのだった。
―――Dear 憂, HAPPY BIRTHDAY!!
◇ ◇ ◇
2/22
自分でもすっかり忘れていた誕生日。自分の誕生日を忘れるなんて、お話の世界だけだと思っていました。
正直言って、お姉ちゃんと仲直りできる自信が無くて、お姉ちゃんに今以上に拒絶されるのが怖くて、
きっと和ちゃんが背中を押してくれなかったらこの結果にはならなかったと思います。
本当にありがとう、和ちゃん。今度は精一杯、お礼をさせてください。
それにしても、私が学校で虐められてるんじゃないかなんて…そんなに私は学校で落ち込んでるように見えたのかな。
どっちにしても、梓ちゃんや純ちゃんにまで話が広がっちゃったみたいで…心配掛けてごめんなさい。
でももう大丈夫!お姉ちゃんとはちゃんと仲直りできたし、結果として私と和ちゃんの作戦は上手くいきました。
これでもう、お姉ちゃんが一人暮らしを始めても大丈夫だよね。お姉ちゃんと一緒にこの家で過ごせるのも、
あと少しなんだなぁ、って実感が沸いてきました。思えば、ご近所さんには生まれた日からの仲良し姉妹で通ってたよね。
小さな事でちょくちょくケンカしたことはあったけど、どっちかが泣くまでケンカしたことは殆どないし、
お姉ちゃんのぐーたら生活改善作戦を実行中は、胸が苦しくてたまりませんでした。
言うまでもなく、そんな私の支えになってくれたのが和ちゃんです。どれだけ感謝してもし足りないくらい…。
でも、信じてました。お姉ちゃんならきっと乗り越えてくれるって。だって、私の自慢のお姉ちゃんですから。
公園でお姉ちゃんに抱きしめられて、頬擦りされたあの時、ちょっと恥ずかしかったけど、すごく温かくて嬉しかったです。
やっと、私達の仲が元通りになれたような気がして…ううん、なったんだよね。
それで、自分でも忘れていた誕生日のプレゼントを二人から貰って…一生の宝物にしますって言ったら、
使ってくれなきゃ困るって怒られちゃいましたけど。お父さんとお母さんも、忙しい中予定を切り詰めて帰ってきてくれて。
あとで訊いたら、お姉ちゃんが「憂の誕生日には、絶対に帰ってきて」ってお願いしてくれたとのこと。
もちろん、お父さんもお母さんも元からそのつもりだったみたいです。
お姉ちゃん、あなたの妹で私、本当に幸せです。だから…だからこれからも傍に居させてね。
ずっと―――
「ずっと…っぅ……!」
ポタリ、ポタリと雫が頁に沁み込んで、インクを滲ませてゆく。
ずずっ、と鼻をすすり上げる。視界がぼやけて、スタンドの明かりが散らばった。
イヤだよ、お姉ちゃんがいなくなっちゃったら、私―――
「うーい。」
「っ…!?」
ぎゅう、と後ろから抱きしめられた。間違えようもない、お姉ちゃんの温もり。
声が出せずにいるところへ、そのまま頭を撫でられる。
「大丈夫だよ~、うい。わたしは憂を置いて勝手にどこかに行ったりしないから。だから、安心して?」
「……ううん、これは私の我侭だから。だから、だから…っ!」
「いいんだよ、憂。わたしね、今まで憂にたくさん元気を貰ったし、勇気づけてもらった。わたしと違って何でもできて、
しっかりしてて、いい子なのも知ってる。でも、それ以上に寂しがりなのも知ってるよ。だって、わたしは憂のお姉ちゃんだから。」
「おねえちゃ…ごめ、なみだ、止まらないよぉ…」
「ありがとう、憂。もう少ししたらわたしはいよいよ一人暮らしを始めるわけだけど、
お休みの日には憂にも会いに行くし、姉妹水入らずのお出かけもしたいな。だから、そんなに泣かなくていいんだよ。
って言っても、無理もないかな。わたしも憂の気持ち、痛いほど分かるもん。立場が逆だったら、って思うとね…だから―――」
「ぐすっ…だから?」
「わたしの胸で泣け!」
ふんす!と胸を叩くお姉ちゃん。それ、ちょっと古いよ?
「…ふふっ、やだお姉ちゃん、それいつの時代の台詞?」
「あっ、ひっどーい!んー…っと、じゃあこれならどうだっ!?」
「?」
いそいそと私のベッドに潜り込むお姉ちゃん。そしてハラリと布団をまくって、ポンポンと自分の隣を叩いています。
「おいで、うい。」
「……うん、喜んでっ!!」
おしまい!
最終更新:2010年08月31日 20:39