三三五五教室を出るクラスメート達
どれくらいの時間が経ったのか…人影がまばらになった教室で、机の上に視線を落とした私の鼻腔に微かな甘い香りが届いた
…憂の香り
憂「梓ちゃん」
内心の動揺を悟られないように、偽りの笑顔を貼り付けて声のした方向に視線を向ける
梓「なんか、ボーッとしちゃった」
大丈夫…いつもと変わらない私だ…
憂「ふふっ、ちょっぴり秋の気配を感じる午後って、ついボンヤリしちゃうよね」
梓「だよね」
…お願い…もう少しだけ…いつもの私でいさせて…
罪人の枷のように重たいギターケースを背負い、憂と並んで教室を出る
帰宅する憂と階段の前で別れた
憂「それじゃ梓ちゃん、また明日ね」
梓「うん、ばいばい」
結局憂は何も言わなかったな…
遠ざかる甘い香り…思わず叫びたくなる…
イカナイデ
ヒトリニシナイデ
鼻腔をくすぐる甘い香りが消え失せると同時に、あの不快感が心も身体も覆い尽くしていく…
梓「…今日は先輩方来てるかな」
音楽室へと続く階段が険しい急峻の如く感じられる
白濁していく意識の片隅で先輩方の姿が浮かぶ
「あれ?ケーキが6個もあるよ」
「さわちゃんの分だろ、ってそれでも1個余るか」
「あら、私ったら何か勘違いしちゃったのかしら」
「お茶の心配もいいけど、少しは練習もしような」
「あら、私の午後の優雅なティータイムにケチをつけるつもり?」
「って、さわちゃんいたのかよっ!」
「相変わらず神出鬼没ですね」
「アハハハハ」
…やめて…こんなの見たくない…もう…嫌だ
後退りするように階段の前を離れ、気がつくと誰もいない教室に戻っていた…
誰もいない教室…
ギターケースを机の脇に立て掛け暫く放心したように立ち尽くしていた…
梓「…帰ろ」
重たい身体を引摺るように教室を出る
音楽室へと続く階段の存在を無視して、エントランスへと向かう
上履きを履き替え、校舎を後にする
部活の喧騒を背に聞いて、初めてギターケースを置き忘れた事に気付いた…
梓「もう…いいよ」
振り返るのも煩わしく、校門をくぐり抜ける…
近付く秋の気配を秘めた微風に乗って、あの甘い香りが届く
振り向くと門柱を背に憂が空を見上げて立っていた
梓「…憂」
穏やかな微笑みを称えた憂が空を見上げたままで口を開いた
憂「空が高いね、梓ちゃん」
私も見習うように視線を空に向ける
梓「うん」
午後の風に前髪をくすぐられるままに、瞳を閉じた憂が続ける
憂「吸い込まれちゃいそうだね」
梓「うん」
…甘い香り…その透明さを隠す事無く佇む憂の存在にこそ吸い込まれそうになる…
ゆっくりと私に視線を移した憂がいつもの柔らかい微笑みを浮かべる
憂「一緒に帰ろう」
不意に込み上げて溢れそうになる涙を押さえて、ただ静かにうなづいた
梓「うん」
昨日は怯えるように走り抜けた帰路を、今日はゆっくりと歩みを進める
私を覆い尽くした心の澱は消えてはいない…それでも昨日とは違って嘲るような視線に怯える事もない
ただ憂がそこにいてくれる…並んで歩いてくれる…たったそれだけなのに
微かな甘い香りが、記憶の片隅に眠る幼い日の自分を見せたような気がした…
キラキラと穏やかな午後の陽光を反射する川面を下に見る土手の道を無言で歩く
不意に憂の柔らかくて温かな手が私の手を包んだ
憂「少し寄り道しちゃおうか?」
川面を間近に見る芝生の斜面に並んで腰を降ろす
お互いの掌は重ねたまま
この場所で、唯先輩と2人で演芸会の演目を練習したあの日が遠い過去のように浮かんで消えた…
ただ黙って川面を見つめる…重ねた掌から憂の存在が流れ込んでくる
…駄目…だよ、こんなの
私は憂の優しさに甘えているだけだ…
分かっていても離れられない…
甘い香りが不意に私に近付いた気がした
振り向くと視線の先には憂の透明な存在だけ…
…お願い…優しく…しないで
瞳が揺れる…駄目…泣いちゃ駄目だよ…
こんなのは狡い…憂の優しさに付け込むような真似だけはしたくないよ…
重なる視線…どこまでも透明で吸い込まれそうな憂の瞳
…私なんかに…どうして…
不意に重ねた掌が離れた
…嫌…お願い…離さないで…
まるで時間の流れがゆっくりになったような世界の中で、憂が私を優しく抱きしめてくれた
押さえていた全てが溢れ出す…嗚咽が耳に届く…泣いてるの、私?
…駄目だよ…こんなのは…嫌だ
抱きしめてくれる憂の全てが心地よくて…
でも…お願い…駄目だよ…私の存在が憂の透明さを汚してしまったら…私は自分を許せなくなってしまう
憂「我慢しなくていいよ、私が受け止めてあげる」
梓「…優しくしないで…お願い」
抱き締めてくれる憂がほんの少しだけ離れる…互いの顔を至近に見つめられるだけの間に
瞬間、透明さを称えた憂の瞳に鮮やかな色彩が浮かんだ気がした…
これが本当の憂の色…なのかな
あまりの鮮やかさに瞳を逸す…
憂「…梓ちゃん」
互いの唇が触れ合う
重ねた唇から伝わるぬくもり…優しさ…身体の奥深く…凍えてしまった私の全てを溶かすように沁みわたっていく
触れた唇が離れると同時に凍っていた時間が動きだす…
梓「憂、いまの…」
憂「素直になれるおまじない」
いつもと変わらない透明な笑顔…色褪せた世界が鮮やかに色を成していく
それからはよく覚えていない…ただ憂の胸に身を委ねて全てを溢れさせた
出会いの喜びと別れの予感の辛さ…
不安と増長した己の醜さ…
我侭で臆病な私…
気がついた時には降り積もり溢れた澱が全て消え去っていた
胸一杯に広がる憂の甘い香りが、さっき一瞬垣間見せた幼かった頃の記憶を鮮やかに甦らせてくれた
アルトサックスを携えて私に微笑む若き日の父
隣りには真紅のドレスに身を包んだ若き日の母
私と同じ黒くて艶やかな髪に鮮やかな花が飾られていた
甘い香り
母が己の髪に飾られていた花を私の髪に挿してくれた
無邪気な笑顔を浮かべる私
梓「そうか…クチナシの香りだ」
初めて父と母の立つステージを見たあの日、いつか自分も…音楽の道を志した瞬間…
何も言わずにただ優しく抱きしめてくれた憂の胸から身を起こした
照れ隠しに笑顔を浮かべてみせる
梓「エヘヘ」
偽りなんかじゃない、心からの笑顔だ
そんな私を優しく見つめた憂が、胸のポケットから小さな紙片を取り出して私に差し出す
憂「梓ちゃんにあげる」
受け取った小さな紙片は紙包みになっていた
甘い香り…憂の香り
クチナシの花びらが押されたそれを自分の胸ポケットにそっとしまう
憂と同じ香りになった自分に少し照れたりもする
寄り添うように座り、川面を見つめる
浮かんだ疑問を素直に聞ける私がいた
梓「ねぇ、憂は知ってたの?この花がビリー・ホリデーの代名詞のような存在だって」
小さく小首を傾げる憂
憂「有名な女性ジャズシンガーだよね?でも、クチナシの花の事は知らなかったなぁ」
偶然なんだ…ううん、むしろこの花を憂が好きな事が必然に感じられた
憂「それじゃあ梓ちゃん、クチナシの花言葉って知ってる?」
今度はこっちが小首を傾げる番だ
憂「私は幸せです」
最高の笑顔、やっぱり憂にはかなわないよ
突然土手の上から大きな声が上がる
純「やーっと見つけたぁ!」
土手を下る階段を純が駆け降りてくる
梓「どうやって見つけたのかな?」
憂「野生の本能?」
顔を見合わせて笑いあう、なんの屈託もない笑い声が耳に心地よい
純「なによそれー。人が折角…って、梓いい顔してんじゃん」
梓「そうかな?」
分かっていて少し惚けてみせる
照れ隠しだよ、うん
純「まぁ、いいや。ほい」
両肩に1本ずつ、2本のギターケース
そのうちの1本、紛れもなく私のムスタングが入ったケースを私の膝の上に置く
梓「純、わざわざこれを?」
純「教室に忘れ物を取りに帰ったら、梓の机に立て掛けてあんじゃん。これはおかしい!と思ってさぁ」
憂「それで野生の本能で駆け出した、と」
純「そうそう!って、その野生はやめてよねっ」
憂「アハハ、ごめーん」
憂、純…何を悩んでたんだろうね、私
私の隣りに腰掛ける純
ケースからベースを取り出すと、おもむろに弦を弾く
アンプを通さなくても伝わる
秋の訪れを拒むように奏でる盛夏のリズム
梓「Summertime bluesって…それでいいのか、ジャズ研?」
純「好きなんだからいいじゃん。んな事よりあんたも弾きなさいよ、どうせ弾けるんでしょ?」
梓「その挑発、乗った!」
ギターケースからムスタングを取り出す
もう指先が震える事もない
いつもの私とムスタングだ
梓「やってやるです!」
ちょっぴりチープでマヌケなセッション
それでもなぜか満足感
乗ってきた純が憂にムチャ振り
純「ほら、憂も歌う!」
おいおい、ジャズ研。そりゃ無理ってもんでしょ
憂♪~O Lord,I got to raise a fuss
梓「にゃっ!」
純「うわおうっ!」
憂♪~sometimes I wonder
what I'm a gonna do
透明感溢れる歌声、それはまるで憂の存在そのものが音になったように耳に心地よく響いてくる
憂♪~Lord,there ain't no cure for the summertime blues
観客もいない、ちっぽけだけど最高のライブだ、うん
純「梓はともかく、憂には参ったわ」
憂「エヘヘ、お粗末様でした」
純「なんで歌えちゃうの?」
憂「ナイショ」
本当に憂は宝石箱みたいだ
中に詰まったピッカピカの宝石で、時々私を驚かせてくれる
って…ヤバいヤバい!さっきの憂の柔らかい感触が甦って…アツいよ
純「んで、梓はなんで真っ赤になってんのよ?」
梓「ちょっと気合い入れすぎて、火照っただけだもん!」
純「本当かぁ?なーんかあんた達怪しいのよねぇ」
梓「な、なによそれ?」
純「んー、べっつにぃー」
純「んで、憂。本当のところはどうなのよ?」
こらこら、変な所で鋭い奴め
まぁ、憂が何も言う訳が…
憂「あのね、梓ちゃんとキスしちゃった」
…え?憂?なにそのホッペを押さえて、照れ照れアピールは
純「なんだとぉー!」
憂がチラッと視線を投げてくる、悪戯な色が瞳に踊っている
…アハハ、やっぱり憂にはかなわないや
純「うーっ、憂ばっかりズルイー。私も梓にチューしてやるぅ」
おいおい、熱中症にやられたか、ジャズ研?
憂「ダメだよ、純ちゃん!梓ちゃんは僕のものだよっ」
純「僕って…誰?」
憂「さぁ、分かんない」
梓「アハハハ」
おっかしい。笑いが込み上げてくる
胸ポケットにしまったクチナシの押し花の香りが教えてくれる
「私は幸せです」
純「よし、それじゃ半分こしよう!」
憂「それなら許す!」
いや、許すとか許さないとかそんな問題?
憂純「せーの」
憂と純が私を挟んで両側からホッペにキスをする
こらこら憂、その携帯のカメラは何を撮るつもり?
その夜
自室のソファーに腰掛け携帯の画面を見つめる
両側から悪戯な微笑みを浮かべて、私の頬にキスする憂と純
困ったような戸惑うような、それでも笑顔の私
もう大丈夫だよ…ありがとう
憂の香り、テーブルの上に置いたクチナシの紙包みに視線を移す
昼間は気づかなかった、中に書いた文字がうっすらと透けて見える
ゆっくりと慎重に包みを開く
中には茶色く変色したクチナシの花びらと、一篇の歌
我が恋をなどて語らむ夕闇にクチナシの花はただ香るなり
梓「…大好きだよ、憂」
私は幸せです
お し ま い
最終更新:2010年09月09日 23:37