――ぴちゃぴちゃ

 そんな音を立てながら廊下座り、はだかで遊ぶ少女がいた。

「あーん、えへへ」

 チョコレートシロップ?
 天井をボーっと見つめ、鼻から口に目掛けそれを零す
 その黒い液体がだらしなく開いた口元から溢れ白い肌を汚していった

 胸元に垂れたそれを指ですくい上げ、指ごと口に含んで味わっている少女
 バサリとその腕を投げ、ついにこちらを向く

「あ、梓ちゃん。来てたんだー?」

「ごめん憂、覗くつもりは――」

 ううんと短く断わり、焦点の合わない目で私を見つめる。

「あの、唯先輩は?」

 少女は笑いながら、
 ゆっくりと四つ這いで近づくと私の腕をつかんで立ち上がった。

 後頭部に高く束ねた髪のひもを解き、頭を振るう
 かけていたメガネは外され、床を跳ねた


「私だよ? ――あずにゃん」

 先生から貰った不思議なメガネが無くてもはっきりとわかる。

「唯、せんぱ――」

 途中で詰まる、ボロボロ私の頬を伝う涙
 そんな私を抱き寄せ

「わ、わたしも――会いたかったんだからぁ」

 言いながら唯先輩も泣き始めてしまった。

 長いようで短い時間の抱擁を交わす、
 一月という歳月はその一瞬で間単に埋まっていく。


「どっちが慰められていたのかなぁ、ねえ? あーずにゃん」

 無邪気な笑顔で尋ねる唯先輩に

「お、お相子です」

 照れながらそう返した。

 少し前の、いい訳ばかりの私にさようなら
 唯先輩が好き、この幸せをカサカサに乾いた私の胸は吸い込んで――

 唯先輩の胴へまわした腕に、ぎゅうと力を込めた



「そ、――そういえば、どうして学校に来ないんですか!」

 思い出した、これを聞かずにはいられない

「あずにゃんはさ?」

 いつもは見せない、真剣な表情で

「自分が自分でなくなるってわかったらどうする?」

「え?」

「段々と自分の意思じゃ体が動かなくなって」

「切り離されていって――」

「最後には息も出来なくなって死んじゃうの」

「この世界の私はそうみたいなんだぁ、――ほら見て?」

 私の顔の前に差し出された左手は
 握り拳を作ろうとしても中指と薬指がガクガクして上手く握れていない

「おうちでギー太を弾いてたときに、アレレって」

「それから不安で――ね?」

 無理に笑う唯先輩、その目から先のモノとは違う涙が零れ落ちた。

「だから、自分が自分であるうちにやりたいことはやっておこう、ってさ!」

 無理して威張って見せる唯先輩
 付き合いが短いからなんていっても、そのくらいはわかってしまう。

「あずにゃんも折角だし、何かやろうよ? ――何したい? 何してほしい?」

「と、とりあえず、服を着てください」

「――あ!」

 今更頬を染め、押えてみても無駄
 内心そう思いながら視線を外す

 アハハと笑いながら、
 何故か私にチョコレートシロップを預け、脱衣所へ逃げていった。

「――それ、美味しいよー!」

「食べませんから!」

 こんなやり取り、小さい頃の思い出のように懐かしくて、楽しい
 クスリと小さく笑った。

「お待たせしました! あーずにゃん、ぎゅっ」

 はぁ、前言撤回
 嬉しいけど少しうっとうしい、猫は構われるのが嫌いなんだから

「あずにゃんは何処か行きたいところある?」

「いえ、私は特にありませんけど」

「じゃあじゃあ、海行こう! うーみーはひろいーよ、おおきいーよー」

 さっきまでと人が変わりすぎ、少し不安
 これも空元気なのかな? そう考えると気持ちは湿気ていってしまう。


「でもいまさら海に行くって、夜だし電車だと時間かかりますよ?」

「ふっふっふ、夜の海で月を眺めるのが粋、って誰かが言ってたのだよ!」

「誰かって誰、――それよりもアレ、憂に怒られませんか?」

 黒くチョコレートで汚れた床を指差した
 いくら好きな姉だろうとこれは許せないと思う。

「うん平気、怒ってないよ!」

「――へ?」

 唯先輩が髪の毛をたくし上げながら


「私はね、梓ちゃん――」

 唯先輩? 違う、憂の顔がぼんやりと見えた

「この世界ではお姉ちゃんと体を共有してるの」

「お姉ちゃんのことが好き、
 だから私の魂を受け止める器が無くても、――私は幸せ」

「お姉ちゃんのすることは何でも受け止めてあげたいって思うんだー」


「私には、それができる」

 笑顔でそう話し終え目を瞑る憂
 髪を押える手を離すと、ゆっくりと目を明け唯先輩に代わる。


「――だそうです!」

 満面の笑み、一応それに私も笑顔で返す

 憂の言った、――私にはそれができる
 その意味は私にはよくわからない
 抑制なのか、宣言なのか、驕りなのか 

 ただ、私を奈落の底へ蹴落としていったのは間違いなかった
 唯先輩の笑顔と憂の笑顔がダブり、胸がギリと痛む

「それよりー! うーみはひろいーよ、大き――」

「行きましょう、海に」

 憂に負けたくないから、――パッと彼女の顔にあかりが灯る
 それだけで“何か”をしてあげられたのだ、と誇れるものがあった。

「でも、どうやって行きます?」

「ちっちっちっ――あずにゃん、ここは夢の世界なんだよっ?」

 得意げに笑うと、右手を高らかに上げ

「きっとね? 行きたい場所を思い、指をこう――」

 ――スカッ

「ああ! そういえば私、指パッチンできないんだったー」

 一つのコントを終え、唯先輩はガクリと膝を落とした
 そうか、夢の世界なんだからその気になれば瞬間的に移動ぐらい出来そう

「私が代わりにやります」

「えへへ、わーい」

 私の腕に唯先輩がしがみつく
 左手を顔の高さまで上げ、目を閉じ、親指と中指を擦る。――パチン


 ――――――――――――

「――にゃん! おーい、あずにゃーん!」

「ん、ん――ここは?」

 薄ら目を開ける、前には覗き込む唯先輩の顔があった。
 見て見て! と上を小さく指差す
 砕いたダイヤモンドを散りばめた、それがキラキラ光る空
 今にも落ちてきそうな白く、真ん丸の大きい月が浮ぶ

 体を起こす

「水着、持ってくるの忘れちゃったねー」

「誰も、いませんね」

「うん! ニ人きりだよっ!」

 膝までズボンを捲くり、彼女は波打ち際に向かっていった。
 背の高い波が嘲り、それを腰辺りまで濡らす

「むー!」

 こちらまで戻ってくると、大胆に服を脱ぎ始めた唯先輩

「ほらー、あずにゃんも! 私だけじゃつまんないよー」

 促されるまま、ブレザーやブラウスを私は砂浜に落としていく

「んー! 素敵な一夜にしようぜ、子猫ちゃん?」

 唯先輩に手を引かれ海に入る
 少し冷たい水が、私の熱を奪っていくのが心地良かった。



「そーれ、それそれー」

「ちょっと、もう!」

 水をかけ合い遊ぶ、私は少し本気でやり返した
 空に浮んだ塩辛い水の玉が、彼女の肌にぶつかり――割れる


「…………」

 その様に見とれて手を休めていると、大きな水の塊が私の顔を襲った。

 うう、――しょっぱい

「あははははは――」

 唯先輩は乾いた砂を蹴り上げながら逃げる
 その後を私は追いかけていった。

「あずにゃーん? こういうのドラマでよくあるよねー!」

 砂浜につけられた二人の足跡は
 ――徐々にその間隔を詰めてゆく

「おーほっほっほっ、私を捕まえてごらんなさーい? なんちゃって」

 足跡が増えることの無くなった砂浜は
 二人の軽い吐息と波の音だけを湛えていた


「はあ、――はあ」

「あずにゃん、つーかまーえたっ!」

 追いかけていたはずの私が、逆に捕まる
 唯先輩は私に抱きつくと、そのまま砂浜に身を倒した

「…………」

 反射して映る私の頬が、赤くなっているのが分かる
 それくらい澄んだ彼女の瞳を見入ってしまう。

「――ここであずにゃんに質問です。」

「あずにゃんは今、何したい? 何してほしい?」

「…………」

 私はとっさに視線を夜空の方へと外す
 何したい? 何してほしい? そんな言葉が、頭の中で優しく繰り返される


「私はね?」

 一瞬、唇に伝わる彼女の体温

「こうしたい」

 自然と私の目からこぼれた一筋の涙は、
 海水を吸った砂浜に落ちて同じ色に馴染んでゆく

「あずにゃ――」

「わ、私はもっとこうして欲しいです!」


 彼女の背中に腕を回し、抱き寄ると
 スッと目を閉じた唯先輩の唇に私のそれをかさねた
 下唇をあまく噛み、もっとおいしい奥地を吸い込まれるように求める

 できるだけ長く彼女を感じたい
 できることなら私の全てを重ねてしまいたい


「ふふっ、ごちそうさまでした!」

「こ、こちらこそ!」

「あずにゃん、私とのキッスのお味はいかがでしたでしょうか?」

 体をサッと起こし、星空を見つめて

「しょっぱかったです」

「そーですかー」


 嘘――本当はとても甘かった
 その味なのか、その行為自体だったのかはわからないけど

「うんしょっと」

 唯先輩が起き上がる。

 私の後ろに回りこむと両腕を首筋から前に投げた
 その腕は私の胸元で組まれると、優しく私を包み、抱きしめてくれた。

「あのね――」

 背中に伝わる彼女の鼓動は、先の行為を意識させる。
 ドクドク、と私の心をノックする。

「私の一番を通り越しちゃったみたいなんだー。」

「さっきキスしたときに、私このまま死んでもいいやって」

 慌てて振り返る、そんなこと言わないでください。
 その言葉も喉から出ることなく、詰まってしまった。
 彼女の優しい笑みは日頃見せない、母が子に見せるそれのように穏やかで


「でも、でも――そんなの酷いですよ!」

 何か言わないと、唯先輩が風にきえていってしまいそうな気がして

「勝手すぎます! 私だって、今こうして幸せで」

「それを壊すようなこと言わないで」

 ああ、そうだったんだ

「憂よりも、誰よりも――唯先輩が大好きです!」

 私は

「どうしても死にたいのなら、私も連れて行ってください」


 この恋にこわれてる


「ありがとう、――それとごめんなさい」

「…………」

 ダメだ、堪えきれない、涙がボロボロ落ちてゆく
この夢で泣いてばかり、嬉し涙、悔し涙、枯れることはないの?

「死んじゃえばこの幸せを持ったままでいられかな? って」


 唯先輩の目からもキラりと涙が落ちて、私の涙の池に混ざった。

「でも、おかしいよね? 今は生きたいって思ってるんだー」

「私のドキドキいってるここが動いてるうちに、
 あと何回あずにゃんとのキスを数えられるんだろうってね?」

 私の悔し涙は、嬉し涙のパイプに切り替わる。

「そ、そんなの! 忘れちゃうくらい、いっぱいしてあげます!」

「本当? 現実の世界でも?」

「――もちろん。」

 そのぐちゃぐちゃになった視界を閉じて
 深い眠りの向こう側

 また彼女と口づけた。


 ――――――――――――――――――


 長い眠りから目を醒ます
 最近は無かった心地よい夢、海に揺られるような夢


「んー」

 薄らと目を明ける
 緑の長い草が風に吹かれ揺れているのが目に入った。

「はあ、よく寝た」

 体を起こし、携帯電話で時間を確認する。

 今は午後三時か
 カバンを拾い上げ、大きく伸びをした。

 確かここから近かったはずだよね?

 目的地は図書館じゃない
 石段をテンポ良く登りそこへ向い歩みだす。


 ――“平沢”の表札

 カバンを開け、中からノートを取り出す。
 その一枚を破りとると、また短く気持ちを書いた。

 真っ白いノートに、今度はちゃんと見える黒い文字で


「お姉ちゃーん?」

「ごめんよー! ういー!」

 玄関から唯先輩と憂が飛び出してきた。
 目が合う、夢の中とは違い意外と普通そうだけど?

「お! あずにゃんお久しぶりです!」

「梓ちゃん、聞いてよ! お姉ちゃんったら――」

 憂から事情を聞いて力が抜けてしまった。

「へ、へぇー!」

 この一月は、家族で海外旅行だったらしい
 それを唯先輩は学校にも部員にも伝えるのを忘れてしまう
 留守番電話に残っていた先生からの怒号を再生し、追い回され今に至った。

 唯先輩らしいといえばらしいな、
 役を成さないその紙切れをグチャと握り潰した。


「えへへー」

「えへへじゃないよ、お姉ちゃん! 先生凄く怒ってたんだから!」

「あーずにゃーん!」

 こちらに駆けてくると私を盾にした。
 その私の肩を触る左手には包帯が巻きつけてある

「あの、それは?」

「ああ、これ? 骨折しました!」

 そう威張る彼女に怒りはこみ上げてこない、
 呆れてしまっている、と言うほうが今の私には正しかった。

「アハハ」

 その場に倒れこみそうなくらい
 振り返る、昨日までの自分を苦しめていた物のくだらなさ

「ねえ、あずにゃん?」

「…………?」


「また海に――」

 私をドキドキさせる、――そんな魔法、彼女の言葉       おわり






最終更新:2010年09月10日 22:07