二人が帰っていくのを外で見送ると、私は部屋に戻った。聡も両親も出かけている。
家は一人だった。無性に誰かの体温が恋しくなった。
携帯を開けて、誰かの電話番号を押そうとした。けどそれは、もう電話しすぎてすっかり
指が覚えてしまった梓の電話番号だった。
私は指を止めると、今押した数字を全て消して別の数字を並べた。発信ボタンを押す。
電話の相手はすぐに出た。
「澪?」
『律……?」
「あのさ、今から家に来れる?」
『え?……でも』
「澪に会いたい」
うん、わかったと澪は返事すると電話を切った。あとものの数分で澪は家の前に
立ってるだろう。
私はずるい、最低だ。澪の気持ちをわかってるくせに。
「律、あのさ」
「何?」
律は何度も来ているはずの私の部屋にちょこんと居住まいを正して座っている。
いつもなら人のベッドの上をごろんとかしてるはずなのに。それは私もだけど。
「いや……何も。で、でもどうしたんだ、急に呼び出して」
「だから言っただろ、ただ会いたかったからってだけ」
こう言ったら澪は何かしてくるかな、なんて思いながら私は言った。
けど澪は違った。少し心配そうに眉を顰めると、「梓と、何かあったのか?」と
訊いてきた。
「何で、……」
「律がそんなこと言うなんて……、ありえないし」
澪はそう言って、少し哀しげに微笑んだ。そんな澪の様子に私の胸が痛くなる。
「私、梓と『恋人』同士だったんだ」
「……え?」
私は軽く目を逸らすと、話し始めた。今までのこと、全部全部。
話してる間、何度も泣きそうになった。けど泣いたらだめだって我慢した。
澪は最後まで、話を聞いてくれた。話し終わってつい耐え切れなくなって私が泣き出すと、
「辛かったな」って頭を撫でてくれた。
「なあ、澪」
「ん?」
「何で私……『恋人ごっこ』なんて始めちゃったんだろう」
ここ数日ずっとずっと考えていたこと。けど、今更後悔したって仕方無い。もう
後には引けないくらい、梓への想いは確かなものに、重いものになっていた。
澪に話しながら、やっぱり私は梓を忘れることなんて出来ないって思った。
そして、やっぱり梓は私なんかじゃだめなんだって、そう思った。
私が泣き止むと、澪は一度私の涙を愛おしそうに拭うと立ち上がった。
「じゃあ私、帰るな」
「……やだ」
「やだじゃないの、帰るから」
「やだ澪、もうちょっと傍にいてよ」
「……無理、やだ、却下」
私は澪の手を引っ張った。けど澪はいやだいやだと首を振った。澪の肩が震えていた。
それがあの時の梓と重なる。
「澪……」
「律、私わかんないよ、何で女同士じゃだめなのかなあ、私か律が男だったら良かったのに。
そうだったら私、無理矢理にでも梓から律を奪えたのに」
「……っ」
「私、やっぱりまだ律のこと諦められないよ、無理だってわかってるのに。
だから優しい顔で律の頭撫で続けるなんて出来ない、自分がおかしくなりそうだ、
だから……ごめんな、律」
私は何度、人を泣かせれば気がすむのだろう。
澪は私の手を振り払うと部屋を出て行った。
私は追いかけなかった。追いかけたってどうにもならないことは知っているから。
ただ一人、私は自責の念に苛まれた。
そんな私に構わず、開け放った窓から優しく冷たい風が吹き込んでくる。
ふとカレンダーを見ると、夏休みは明日で終わりだった。
昨日の夜は一睡も出来なかった。
梓になんて言おう、梓を見てどんな顔をしよう、そんなことばかり考えていて。
昨日、私は梓に一通のメールを送った。来てくれるかどうかわからない。
見てくれているかどうかすらわからない。
けど私は、『会いたい』って一言、メールを送った。
場所がどこか、時間は何時かは書かなかった。何となく、何も書かなくても伝わるんじゃないかって
思ったから。
本当に、こんどこそ今日が最後。
私たちは普通の先輩と後輩の関係に戻るんだ。
昨日の間に、気持ちの整理をした。これが一番、私にとっても梓にとっても
いいことのように思われた。勿論、澪にとっても。
久しぶりに来た『秘密基地』は昨日の雨のせいか水たまりや泥がいっぱいだった。
梓が見つけた小さな川は、雨で増水したのか少し流域面積が広くなっていた。
私は待った。
来てくれるはずないって思いながら。ずっとずっと、梓が来るのを待った。
汚れると思いながらも、地面に寝転がりながら。
久しぶりに見た青い空に、雲が次々と流れていく。
それを見ているうちに、最近の寝不足も加わって私はまどろんだ。
「……せんぱい」
夢だと思った。夢の中で梓に呼ばれてるんだって思った。今までどおりの優しい声で。
「りつ……い」
けど、その声はだんだんとはっきりとなっていく。
「りつせんぱい!」
大きな声で名前を叫ばれ、私ははっと目を覚ました。すぐ傍に梓の顔があった。
握っていた携帯を見ると、時刻は昼前だった。
ここに来てかれこれ1時間、眠っていたようだった。
頭が徐々にはっきりしてくる。私は「梓!」と飛び起きた。梓の額と私の額が
ごつんとぶつかりあった。
「いたっ」
「わ、悪い梓!」
「い、いえ……」
私たちは何がおかしいのか、そう言うと思わず噴出して笑い出した。
それから私たちはお互い見詰めあう。これが最後、最後だ。
梓もきっと、わかってる。私が何を言い出すのか。きっと、わかってる。
「梓、あのさ」
「先輩、その先は言わないで下さい」
だけど。梓は私の声を遮った。私が黙り込むと、梓は私の膝に自分の頭を乗せると
ごろんと寝転んだ。
「服、汚れるぞ」
「いいんです」
「……梓」
梓は私の瞳を探るように見詰めてから、顔を逸らした。
そして話し出す。
「私、あの後、自分の気持ちをよく考えてみたんです。何であのとき、先輩を
拒んじゃったんだろうって」
「……うん」
「律先輩のこと、好きなのに。……けどあの時は確かな自覚がなくって、だから
きっと私の恋に対しての憧れからの想いなんじゃないかって、だから私は律先輩を
拒んだんじゃないかって、そう思ったんです」
けど、と梓は一息吐いて続けた。
「私、きっと怖かったんだと思います」
「いつか絶対に、律先輩と今までどおりの関係に戻っちゃうってわかってたから、
だから怖かったんです」
梓は言うと、突然ひっくと嗚咽を漏らした。きっとずっと、泣くのを我慢していたんだ。
私が梓の頭を撫でてやると、梓はそれでも話を続けた。
「律先輩とほんとの『恋人』じゃないって、わかってた……っ、始めは遊びのつもりだった、
けど、けど私、いつのまにか律先輩のことが……」
「ごめん、梓。別れよう」
その先の言葉は聞かなかった。聞けなかった。だから私は梓に次の言葉を言わせず
遮るように言った。梓は「え」と言うと、私の真意を確かめようとして私を見た。
私はもう、梓から目を逸らさなかった。
逸らしたら、梓に縋りついてでも夏休みが終わっても私の『恋人』でいてくれなんて
かっこ悪いことを叫んでしまいそうだから。
梓の目からぽたり、と涙が落ちて私の膝を濡らした。梓はのろのろと起き上がると
「どうして」と言った。
「どうして……、先輩、私のこと好きだって、言ってくれたじゃないですか!
わがままだって、わかってます!最低だってわかってます!だけど私は!」
「梓、始めに言っただろ、これは遊びだって。ただの恋人『ごっこ』。
本気で言うわけないじゃん、そんなこと」
嘘だ、本当は嘘だ。梓のこと、本気で好きだった。今も、梓のことが好き。
だからこそ、私は自分の気持ちに嘘をついてでも、梓を今この瞬間傷付けてでも、
未来の梓を傷付けないように、私は言葉を紡ぐ。
私はへらりと笑ってみせた。梓の大きな瞳から、次々と涙が零れ落ちていく。
ごめん、ごめんな梓。
けど私じゃ、私なんかじゃ梓を幸せになんて出来ないから。
このまま『恋人ごっこ』を続けていても、お互い傷つくだけだから。
だからお願い、梓。そんな顔はするなよ、これ以上、私の気持ちを揺るがさないでくれ。
「もう、『恋人ごっこ』は終わりにしよう」
「……いや、ですよ!終わりだなんて、言わないで下さいっ!律先輩!」
梓が私に圧し掛かるようにして叫ぶように言った。いやだ、いやだと何度も。
涙をぼろぼろ零しながら。顔をぐちゃぐちゃにして泣きながら。
けど、もう私はそんな梓を抱き締めてやることは出来ない。
もう、『恋人ごっこ』は終わったんだから。
「律先輩……お願いですから……、続けてください……っ、ただの遊びでいいから……、
律先輩が本気じゃなくていいから……!」
そんなこと、できるわけないだろ。梓、私だって終わりになんてしたくない。
けど私たちは女同士だ。最初から、『恋人』なんて無理だったんだ。
所詮『ごっこ』。ただの真似事。私たちには無理なんだ。
「ごめん、な、……梓」
私は耐え切れずにそう言うと、今まで溜まっていた涙が次々と頬を伝って流れ落ちていく
のを感じた。自分の涙と梓の涙が交じり合う。
梓は大きく目を見開いて私を見た。
「――好きになって、ごめん」
その瞬間、梓が崩れるようにして地面にへたり込んだ。大きな声で子供みたいに
泣く梓を、私はぎゅっと抱き締めた。
そしてごめん、と繰り返す。梓はただ、首を横に振り続けた。
「律先輩」
ふいに梓は私の名前を呼んだ。私は「何?」と小さな声で答えた。
梓は自分の手で涙を拭うと、いつもの“後輩”の梓の顔で言った。
「カチューシャはずしてください」
「え?」
「だって、ずるいじゃないですか。私は髪を下ろした姿を律先輩に見せたけど、
律先輩はカチューシャはずした姿を私に見せてくれてません」
「そらそうだけど……」
私は呟くと、渋々カチューシャをはずしてみせた。はずしたカチューシャを
梓に奪われる。下りてきた長い前髪のせいで、梓の姿がよく見えなかった。
「おかしーです」
「へ?」
――本当に一瞬だった。
梓と私の唇が突然、重なった。梓は少し名残惜しそうに離れると、頬を染めて、
目尻に涙を溜めながら、満足げに、微笑んだ。
「律」
梓が私の名前を呼んだ。ほとんど声にならない声だった。だけど私は、
ちゃんと聞こえた。
「大好きだったよ」
梓は囁くように言うと、私に背を向けた。
最後に見えた梓の表情は泣いていた。だけど、さっきまでの苦しい表情じゃなくって
どこかすっきりしたような泣き顔。
『秘密基地』に風が吹いた。冷たい風が吹いた。
夏の終わりを意識させる、風が吹いた。
終わり。
最終更新:2010年10月05日 19:42