梓「同じ窓から見てた海」


遥か西の空を滑る黄金色の雲が目に沁みる。ジッと見つめて、だけどまだ少し眩しくて、直視できなくて……。
でもいつの間にか慣れていて、太陽の輪郭すら分かるようになって、そしてその頃には……夜が間近に迫っている。

……そんなもの。

輝く何かを追えば……その光が無くなった時途端に目の前が暗くなって、やがてそのまま途方に暮れて、そこで……終わり。

こんな他愛も無い話を哲学的と位置付けて無視出来れば幾分かは楽だが、これは残念ながら私自身の事。
目の前の眩い輝きが無くなって、途方に暮れようとしているのがまさに今の私。

……気だるい。考えるのも、動くのも、両方。


今日、先輩達が大学の入試に合格した。あれは何時間目だったか……昼前だったのは確かだけど……。
とにかく退屈な授業の途中で結果報告のメールが届き、画面の中で桜が四つ咲いていたのは鮮明に覚えている。
零れ落ちそうになる粒を堪えるのがやっとで、何とか押し止めようとたまらず目を合わせた相手の瞳はやはり濡れぼそっており、授業が終わる頃には互いに真っ赤に腫れ上がっていた。

……嬉しかった。祝福のメールも打てない程、本当に。

先輩達が四月から同じキャンパスを歩ける事、そして少ないながらこれからもバンド活動が続けられる可能性が残った事。
人の事を掛け値なし、手放し万歳でここまで喜べた事なんて、きっと今までの人生の中で一秒たりとも無かった事だ。
……誇っていい。私は間違いなくこの二年で成長した。他人の意見からでは無く、背伸びしていない自分の目線でそれが確認出来る程に。


だけど……それ故に分かってしまう事だってある。例えばこの虚無、虚脱感。そして来る春へ向けての幾分かの焦燥感。

それらを程良く混ぜ合わせて出来た寂寞の重しが、この身体をよく馴染んだ机と椅子から動かなくさせている。そんな事が、今の私には分かる。

「……はぁ」

下校時間はもう間近。いつもなら間違いなく花や蝶やとオチの無い話でも咲かせているであろう四つの影が、今日はこの部屋に姿を現しもしない。
確か学校に合格の報告をしに来た後、昼休みにチラと私の教室まで顔を覗かせに来て、その後はそのまま四人揃って下校したと先生が言っていた。

実際、私の携帯のメールフォルダには例の『サクラサク』メールの上にその手の内容のメールが四通蓄積されているのだ。
内容は四様四様で、一人はこの後家族とお祝いパーティー、一人は家族で外食、一人は明日から早くも始まる家探しについて、一人は疲れたからもう寝る、と何だかいつも通りな感じだった。
魚の骨の絵文字が奇妙に羅列されていたり、後輩宛とは思えない程丁寧な文体であったりと、メールのレイアウトもメールを開く前に予想した通り。

あの四人をまとめて分析させたら私の右に出る者など居ない。さして秀でた能力も無い私が唯一誇れる唯一の長所。

……だが、今となってはその長所も……。

「……ふう」

吐く息が徐々に白く彩られてきた。こうなると本当に厄介だ。
暖房の電源も入れていなかった自分のせいとは言え、足元辺りに蔓延って来る冷気を避ける為に椅子の上で身体を抱え、余計に席を立つのが億劫になる。

帰らないと……。と、頭ではちゃんと理解している。
家に帰れば炬燵に蜜柑。温かいココアに昨日の残りのシチューだってある。冷たい夕凪が吹き荒ぶ家路をちょっと我慢すればいいだけだ。
そんな温い言葉が脳裏を掠める。

……ダメだ。これはどう考えたって本心じゃ無い。頭で思っているだけ。身体が脳髄から垂れる思考に反発している。膝を抱える両腕がまるで動こうとしない。

「……あ」

まさかのまさか。やけに空気が冷えるスピードが早いと思ったら、私の天敵である雪が降って来てしまった。
まあ望もうが望むまいが私の意思など関係無く降る物は降り、積もる物は積もってしまうのだろうが、それでもどうしても吐かずにいられない言葉がある。

「……バカ」

天気を司る神様の名前なんて知りもしないが、この脆弱な生き物が発する精一杯の罵詈雑言をしかと受け取って欲しいものだ。
冬は嫌い。寒いから。そして……春なんか連れて来るから。

私の発した素晴らしく愚昧なクレームが本当に届いてしまったのか、米粒程度だった雪のサイズはみるみる膨れ上がっていった。
私がぼんやり注視していた僅かな間に屋根裏の埃サイズまで成長した白い空爆が更に勢いを増したので、私は悲しくなって膝に顔を埋める。
思えば外はいつの間にここまで暗くなったか、そもそも何処からあんなドス黒い雪雲が湧いたのか、私には全く分からなかった。

「寒っ」

今更そんな事に気付いた魯鈍極まりない脳の回転に辟易し、私は合わせた両膝の間に目一杯の温かい息を吐く。

……寒くて辛い。そんな時は楽しい事を考えればいいといつか誰かが言っていた気がする。
炬燵で蜜柑、シチューとご飯、ごはんはおかず。ごはんはおかず? ……ダメだ。ついに邪念まで脳を温床にし始めた。

「ご飯はおかずじゃないよ……」

シチューが主食で、ご飯がおかずで……。

……あれ? ……おかしい?



ついに視界ゼロにまで辿り着いた超の付く程の大降雪。
もう帰らなくていいんじゃないか? 雪が物凄くて帰れなかった、は言い訳にならないか?

ああ……でも学校に泊まるには教員の許可が居る。それどころか両親の許可だっている。その為には何をしなければならない?
まず長い階段を降りなければならない。そして顔見知りの教員を探して、雪道の危険性とこの豪雪の異常さを認めさせた上で宿泊の許可を取る。
それから寝袋を用意して、少ないけど鞄の中の食べ残しメロンパンを齧って、それから……それから……。

……って、何を考えているんだ私は。有無を言わさず「さっさと帰れ!」の一言で校舎からつまみ出されるに決まっているじゃないか。
下校時間とっくに過ぎてるし、ここに居る理由も無い……し。

……不思議と「私、何をやっているんだろう?」とだけは考えなかった。

どんなに愚鈍な思考でも、どんなに魯鈍な頭でも、私がここで膝を抱えている理由だけは見失わなかったからだ。

「…………」

体温を維持しようと震える身体。この隅々まで赤い血液が巡っているなんて微塵も信じられない程手が白い。それはもう、叩けば折れて割れそうなくらい。
この皮膚の真下に毛細血管なんて物が本当に埋まっているのか? 残念ながらこの状況では少々信じ難い物がある。カッターで切ってみようか?

……いや、ソファーに置いてある鞄から筆箱を取り出すのが億劫だ。そこまで歩くのが……いやいや、そもそも足を床に下ろすのが億劫だ。

「眠い……」

少し前から猛烈な眠気に身体がダウンしかけている。寒さで半ばやられかけているなけなしのモラルと凄まじい攻防。
もう寝てしまおうか……。警備員だってそこまで真面目に巡回していないだろうし、ソファーに隠れて眠ってしまえば……。



……ああ、何だかんだでもうとんでもない時間になってしまっている。どっちみち親にメールを打たないと……。
やっぱり急いで帰った方がいいのかな。でも今更鍵を返しに行ったらそれはそれでこんな時間まで学校に残っていた理由を教員に詰問されそうだ。
それを立って聞いていられる自信が、途中で意識を失わない様にする自信が、今の私には真夏に石垣島の民家の軒先に生える氷柱は生える可能性程も無かった。
寝る、怒られる。今この状況からどう選択肢を広げても、結局この二つに帰結してしまいそうだ。

「だったら……」

と、私はこちらを選ぶことにした。気だるいながらも床に足を着き、上体を再び机へオン。もうどうでもいい。
ヒヤっとした空虚な冷気が制服の布越しに肌を刺す。少し身を捩らせ、曲げて置いた腕の上に右頬を着地させる。


ああ……いい。すぐにでも眠れそうだ。もう本当にこのまま寝てしまおう。

願わくば……目が覚めたらそこは春先の部室であって欲しい。少ししたら新歓ライブがあって、着ぐるみ着てビラ配って……。
それから……合宿にも行きたい。前回は夏フェスだったから……今度はまた海がいいな。
どうせテンプレであの二人が山か海かの大激論を交わすから、今度は私も割って入ってやるんだ。海派の先輩と肩を組んで主張してやるんだ。
焼きソバで釣ればきっとあの先輩は味方してくれる。肝試し無しならあの先輩だって肩入れしてくれる。

どうせ練習なんかしないんだから思い切り楽しもう。文化祭だって、きっと何とかなる。いつだってそうだった。

「……はあ」

……もういい。だいぶ思考も鈍ってきた。瞼も重い。このまま……もう…………。


ピリリリリリリリリリリリリ


ガタン!と椅子を鳴らして思わず体が跳ね起きた。
キリリと冷えた侘しい静寂が占める空気中に突如響き渡る、耳を劈く様な電子音。
何一つとして物音の無かったこの部屋の中空に向け、突如響き出したその無機質な連続スタッカート音は、私のブレザーの右ポケットから発せられていた。


「マナーモードにしといたはずなのに……」

一瞬で吹き飛んでしまった瞼の重さの代わりに、一気に寒気が肌を刺す。そして先程から一様に鳴り止む様子の無い電子音がフラストレーションと肩の重さを蓄積させていく。

「もう……誰?」

傍迷惑な着信音をがなり立てる二つ折りのそれを取り出して開き、幾何学模様の壁紙を背景にして表示されたその文字を見て、私の頭の上にはクエスションマークが数個浮かぶ事となった。
業務連絡以外でこの人から電波を受信した事があっただろうか? ……いや、無い。
悪戯で凝りに凝ったデコレーションメールが数回来た事ならあるが、全て無視していたら次の日のモンブランが栗以外無くなっていたという事はあったが……。

結局別の先輩が鉄拳制裁してくれたお陰で事態は収束を見たのだが、そういえばあれ以来業務連絡ですら他の先輩から来るようになったんだったな。
別に嫌われてはいないのだろうが、大方イジってもつまらない位には思われているだろう。

しかしまあそんな人からの電話だ。メールでなく、通話の御誘い。

「ん~……」

……何も考えまい。深く考えたら負けだ。
私は何を思うでも無く、白く濁った息を虚空へ一つ送り出し、なけなしの気力で親指に力を込め、エメラルドの光を放つ通話ボタンを押し込んだ。

「もしもし」

耳に当たる受話スピーカーがざらついた返事をよこす。

『おお、出たか』

何て返事だ……。

「出たかって……」

掛けてきたのはそっちじゃないか。

『いやいや、またシカトされるかな~って思ってな』

「何ですかそれ」

まあ確かに悪戯メール事件の一件を考慮すればそんな風にも思われるか。……あれ? でもよく考えればそれって何気にヒドくないか?
私はそこでハッとなり、首を横にブンブンと振る。深く考えたら負け。負けだ。

「えっと……用事ですか?」

『ハハ。雑談も無しかよ』

「?」

何がしたいんだこの人は? 電話なんだから用事があるんだろう?

『いやさ、何か電話したくなっちゃったんだよ。ほら、私らってあんまり一対一で絡んだ事無かっただろ? だから卒業する前に一度ガツンと絡んどこうってな』

口調がやや明るい。おまけに呂律が回って無い?

「ひょっとして……お酒とか飲んでます?」

『へへっ! 人生初飲酒~!』

うわ……。

『合格祝いに親のチューハイ勝手にくすねちったよ~』

何を堂々と自慢してるんだ。


「じゃあ明日は学校来ないで下さいよ? 先生にバレたら洒落になりませんからね」

『二、三本でバレないっつーの。私二日酔いになりにくいし!』

……人生初飲酒だったんじゃないのか? タチの悪い酔い方だけはしないで欲しい……。

「もう……。そんなんで大丈夫なんですか? 大学生活」

『ん? ああ……』

突然言葉に詰まるスピーカー越しの声。それを訝しく思い問い返そうとした時だった。

『大学は良いんだけど……な』

突然落ちるトーン。そして寂寥感溢れる弱々しい声。

「どうしました?」

ん、と帰って来る返事。それに言葉は続く。

『ほら……なんっつーかさ……





……ごめんな』

受話器の向こうで、頭を掻くような音が聞こえた。私は何故自分が謝られたのかが分からず、「……はい?」なんて抜けた返事をよこしてしまう。
その言葉を予期していたのか、はたまたアルコールを摂取しているからなのかは分からないが、ここで声は再び妙に明るくなった。唐突に、と付け加えてもいい。

『ま、なんっつ~かさ、私も一応先輩としてお前の今後を気に掛けてるって訳だ。そんな風には見えないだろうけど』

間髪を容れずに言葉が紡がれる。身に纏わりつく冷気が、ほんの少し和らいだ気がする。

『まあお前に部長らしいなんて思われてないってくらい分かってるけどさ、それでも一応年上は年上だ。だから……』

と、一旦言葉を切り、息を吸って吐く音が聞こえた。

『心配なんだよ……お前がさ』

胸が一つ、酷く大きな音を立てて鳴った。突然真剣になった口調に私は何も返せない。

『だけど思い返せばお前と二年も一緒に居たのにさ、私は先輩らしい事すら何一つしてなかったんだなって思い当たるばかりで……』

はぁ……と、こちらの幸せまで逃げて行きそうな程大きな溜息が私の鼓膜に入り込んで来て、そこで幾度もこだまする。

『だから、ごめん。部長どころか先輩としてもお前にしてやれるようなアドバイスは無い。本当にスマン』

それは、喉の奥から絞り出したような、そして悲痛とさえ取れるような悲しい声だった。私が知り得るどの顔や声とも合致しない、そんな感じの。

「あ……い、いえ……」

そう返すので本当にいっぱいいっぱいだった。
後に続いて然るべきの否定すら出て来ず、お世辞という前置きが前提の感謝の言葉さえ出ない。


……何か言わないといけないのは私だ。なのに脳の中は紡ぐべき言葉の束がこんがらがるばかり。
やがて電波を介して流れ出す気まずさと、妙によそよそしい白けた空気が体に染み込んでくる。
やがて互いの息遣いすらもわざとらしく感じるようになってしまい、やはり何も言えない私は無闇に項垂れてしまうのだった。

そして時間的には数十秒も経っていない無間地獄の終わりは、何とも呆気なく訪れた。それは電話の向こうの『ガコンコン』という独特の打音。
そして小さく、本当に小さく聞こえた『入るぞー』という声。

「あっ、お、お客さんですか?」

不自然にも程がある甲高い声が出た。つられるようにスピーカーから細い笑い声が漏れ、言葉が続く。

『ああ』

と短く切って

『お客さん』

そう答えた受話スピーカーの向こうの人は、バイバイもおやすみも言わずに電話を切った。本当に呆気なく、何も残さず、でもあの人らしい数分間。


「…………」

あの人は何故こんな電話を掛けてきたのだろう。
他愛も無いと言ってしまえばそれまでの、けれどやはり何か意味があるような……そんな感じがした。


……けれど、それ以上今の私に分かる事は無かった。
今ここは明かりの無い部屋で、この胸は何だかやりようの無い想いを心に窶していて、私と言えば膝に落とした携帯をボーっと見つめるだけ。

そして何だか取り留めの無い感情が齎す浮翌遊感に疲弊してしまい、私はまたすぐに上体を机に投げ出した。

雪風が鳴らす窓。そこにはまるで波のようなヴィジョンが映し出されている。


「……行かないで」


言った先は目の前に居座っている大嫌いな冬将軍か、それとも……。

もうすぐ春が来る。望んでいない春が。

去年は五人で見たあの光景が、今年は一体どう見えるのだろうか?

この学校の名前は桜ケ丘。校名の由来は聞きしに勝る桜の散り際の美しさから。

校庭を埋め尽くすその桜の花弁達を「ここから見ると海みたいだぞ!」と揶揄し、はしゃいで私を窓辺に誘った影が一つ。そしてその周りにもう三つ。

もうすぐ無くなる、淡い影。

この窓の外を一人で見るのが……今は本当に怖い。

だから……

「お願い……行かないで……」

返事もしてくれない冬将軍が窓の外で私を見つめる。「その望みは聞けない」と、嵐のような突風だけを残して消えてしまう。
それが『ごめんな』と聞こえたのは……気のせいなのだろうか?

建付けの悪い窓が風と共に鳴らす不規則で勢いだけが良い粗暴な軋音。
それは、正確なリズムの刻めないドラマーのハイハットのような、勇ましくも忙しない音だった。

<梓、了>


唯「同じ窓から見てた海」


唯「というわけで、ここまでありがとうございました~!」

一同「あざっす!!」

唯「ノリで参加して書き始めた時はどうなる事かとハラハラしましたが、何とか書き上げる事が出来てよかったです!」

梓「書くのに掛かった時間合計六時間!」

律「作者は遅筆!」

澪「他の作者の作品が良くて、このポジションで投下する事になったのがかなりアレだったけどな……」

紬「まあ仕方が無いわよね」

唯「じゃあ、最後に晒して消えようか」

一同「そうだね!」

唯「せ~のっ!」


全員「ニコニコの『けいおん!SS紹介動画』の人でした!」

<了>



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最終更新:2010年10月06日 20:42