「いったいどうしちゃったんだよ、お前は」

翌日の音楽室。澪が唯の肩を強くゆする。

その日の唯はひどい有り様だった。

明らかに寝不足の顔で登校してきた彼女は、授業のほとんどを寝てすごし、教師に二回も呼び出された。

昼食は半分以上も彼女の鞄で食べられるのを待っている。

日常生活ですらこの有り様なのだから、演奏などまともにできるはずがなかった。

「唯ちゃん、何か悩んでることでもあるの?私でよければ相談に乗るわよ?」

紬が心から心配そうに言う。

「……じゃあ、ムギちゃんに相談。ちょっとトイレまで来てくれるかな」

唯が低い声で言う。

「りっちゃんに澪ちゃん、ごめんね。どうしてもムギちゃんと二人で話したいの。ここで待っててくれる?」

「おう、何百年でも待ってるぜ」

明るさをよそおっているが、女優の訓練を受けていない律の声は心配を隠しきれていなかった。

……

「ごめんね、わがまま言って」

「いいのよ。何でも相談してみて」

唯の髪は艶やかさを失い、目の下にはクマができていた。わずか数日でここまで変わってしまうとは。紬の胸が痛む。

「……ムギちゃん、女の子同士のお付き合いを見るのが好きなんだよね?」

「え?……ええ、そうね」

「見てると、どういう感じがするの?」

「どんなイメージか、ってことかしら?」

唯はうなずく。

「そうね。……赤やピンクのお花畑をお散歩しているような、ラズベリーのアイスを舐めているような、そんな甘酸っぱい感じ」

紬の言葉が、唯の漠然としたイメージに明確な形を与えてくれる。

「それをムギちゃんは、何て言葉で表現する?」

「そうねえ……恋、かしら。私は女の子同士のお付き合いそのものに恋をしているのかしらね」

「恋……」



その晩、唯がオルゴールのネジを巻くことはなかった。

代わりに彼女は、木馬に乗った少女を何時間も見つめ続けた。ガラスのドームに穴が開いてしまいそうになるほど。

……気づいてしまった。いや、とっくに気づいていたのに、気づいていないふりをしていたのかもしれない。

いずれにせよ、唯はいまやそれをはっきりと自覚していた。

恋。

私は恋をしている。

……オルゴールの中の、木馬に乗った人形の少女に。

正気の沙汰ではない。唯は自分にそう言い聞かせる。

そう、相手は女の子なのだ。それ以前に人形なのだ。

決して許される感情ではない。

狂っている。気違い沙汰だ。

捨ててしまおう。滅茶苦茶に壊して、きれいさっぱり忘れてしまおう。

唯は自分に何度も言い聞かせる。けれども、振り上げた金槌を下ろすことはできなかった。

代わりに唯は考える。

私は今まで、誰かを恋愛の対象として見たことなんかない。

それがどうして、急にここまで思い悩むことになってしまったんだろう。それも人形相手に。

それにしても。唯はこうも考える。

私が恋にここまで苦しむとはね。

普段その手のことに鈍感な人ほど、自分の番になったら深く思い悩むのだろうか。

唯は考える。けれど、いくら考えても答えは出てこなかった。



数日が過ぎた。

唯はオルゴールを忘れようと努力した。

ある時は机の奥深くに押し込んだ。

またある時はギターの練習にへとへとになるまで打ち込んだ。

それでも、気がついたら彼女はオルゴールのネジを巻き、回る木馬と人形を凝視していた。

ネジを巻きすぎて壊れてしまうのではないか。そう考えることもあった。

唯はそれを心のどこかで望み、そして恐れた。

ガラスのドームを打ち壊して、中の人形に直接触れたい。愛の言葉を囁きたい。

そんな衝動に襲われることが幾度もあった。

そして実際に金槌を振り上げたことも。……結局振り下ろすことはなかったが。

そんなことをしても、どうにもならないのだ。ガラスといっしょに、紬の好意が粉々になるだけだ。

そして、ますます胸の疼きがひどくなるだろう。

そのようにして、鬱屈した冬の日は無駄に過ぎていった。そしてクリスマスがやってきた。


律の一言で開催されたクリスマスパーティーは華やかだった。

憂は豪華なパーティー料理を作ってくれ、軽音部の仲間達は沈みがちな唯の気分を盛り上げようと大いにはしゃいだ。

それでも、唯が心から楽しそうにすることはなかった。

数日前から、彼女の心の表面には氷河のように堅く冷たい壁ができていた。壁は容赦なく疲弊した彼女を寒々とした気分にさせる。

……もしあのオルゴールの子と結ばれるなら、私はここにある物、いる人すべてを差し出してもいい。

唯は思う。そしてそんな自分を憎んだ。


パーティーが終わった後、唯は自室のベッドに大の字になり、ぼんやりと天井を眺めていた。

……楽しそうに振る舞えたかな。みんな私を心配していないかな。

胸の疼きは、もはや回復の見込みがないように思われた。

この苦しみと一生を共にするのだろうか。そう思うと彼女の疼きはますますひどくなる。

「……キミを見てると、いつもハートドキドキ……か」

ああ、神サマお願い。

二人だけのdream timeください。

「今夜もオヤスミ……か。えへへ、バカみたい……」

そして唯は眠りに飲まれてゆく。夢の中だけが安住の地だった。

……凍てつく夜空に冷ややかな月が浮かんでいる。無数の星が瞬いている。

クリスマスの夜空。サンタクロースの姿は見えない。

その代わりに、一つの星がゆっくりと舞い降りてきた。それは季節外れの蛍のように、冷たい光を放っている。

星はやがて、明かりの消えた平沢家の窓を音もなく開ける。星の前には、鍵などまったく意味をなさないのだ。

そして星は、唯の机の上に置かれたオルゴールにふわりと着地した。

唯は目を覚ました。

静謐な青白い光が、部屋を満たしている。唯が今まで見たことのない光だった。

彼女はベッドから起き上がり、息を潜めて光の源……オルゴール……を見つめる。

どれくらいそうしていただろう。やがて彼女は、震える手をオルゴールに伸ばす。

ガラスに触れる。……それはすでにガラスではない。静かに波打つそれは、この上なく不思議な感触だった。

そのまま、物質に手を押し込んでゆく。不意に何かに強く腕を引かれ、唯は深く沈み込んでいった。銀に輝く虚無の中へ……。


「……先輩、唯先輩。ダメですよ、こんなところで寝ちゃ」

唯は再び目を覚ます。彼女は柔らかい緑の草原に横になっていた。

目をこすりながら、ゆっくりと身を起こす。

ピンク色の空。

静かに回り続ける回転木馬。

そして、白いワンピースを着た、ツインテールの少女。唯の初恋の相手。

「あなたはどうして、私の名前を知っているの?」

唯は尋ねる。少女は笑みを浮かべる。子猫のように愛らしい。

「私はなんでもしっているんです」

唯は自分が純白のワンピースをまとっていることに気づく。少女とおそろいのワンピース。

「それじゃあ、あなたの名前は?」

「梓です」

「あずさ?」

「ええ。私を作った職人さんは、私をそう呼びました」

「質問していいかな」

「どうぞ」

「どうしてここのお空は、ピンク色なの?」

梓は微笑みを浮かべたまま沈黙する。意味をなさない質問に答える必要はないのだ。

「それじゃあ、梓ちゃんは前から私を知っていたの?」

「はい。楽器屋さんのウィンドウにいた頃から、私はあなたを見つめていました。びっくりしましたよ、あなたが金槌を振り上げた時は」

「すいやせん……」

「いいんですよ、もう。あなたはよく我慢しました。これからはずっといっしょです」

「さあ、質問は終わり。行きましょう」

梓が唯の手を握る。穢れを知らない、小さな愛らしい手。

「最後に一つ、いいかな」

「どうぞ」

「……あずにゃん、って呼んでいいかな」

「……変なあだ名ですね。でも構いませんよ。さあ、行きましょう」

そして二人の少女は、回転木馬に向かって駆ける。裸足のまま、手をしっかりと握りあって。

そして、二人だけの静かな時間が始まる。

二人は遊具に身を委ねる。コーヒーカップ、観覧車、そして回転木馬。ここにはたくさんの遊具があった。

外から見ているだけでは、わからないこともあるのだ。

木馬が回る。カップも回る。観覧車も回る。

あずにゃんも、そして私も回る。

こうして回り続けていれば、いつかバターみたいに溶け合って、一つになれるのかな。


「唯先輩、飽きてきましたか?」

「ううん」

「お腹はすきましたか?喉は乾きますか?」

「ううん」

「そうでしょう。ここはそういった感覚がまったく意味をなさない場所なんです」

その通りだった。唯は飽きも飢えも乾きも感じない。そこは満たされた場所なのだ。

「唯先輩」

何度目かの観覧車に乗っている時だった。梓が真剣な表情で言った。

「唯先輩は、帰ろうと思えばもとの場所に帰ることができます」

「……うん。それで、帰る方法は?」

沈黙。

「それじゃあ、私が帰った後はどうなるの?」

「私は永遠にひとりぼっちですごすことになります」

唯と梓が乗ったリフトは、まもなく頂上にたどり着く。

「もし帰るのなら、約束して下さい。オルゴールを今度こそ粉々に砕くと。そうすれば、私は寂しい思いをせずに眠れます」

梓の澄んだ瞳は、すでに潤み始めていた。

唯は一瞬、元いた場所のことを思う。そしてすぐに首を振る。

「大丈夫。私はどこにも行かないよ。大好きな人と、ずっといっしょにいられるから」

リフトが頂上にたどり着いた瞬間、唯は梓の小さな体をぎゅっと抱きしめた。梓の目尻から、熱いものが一筋こぼれ落ちた。

「私も、唯先輩が大好きです」

そしてリフトは降下を始める。抱き合う二人を乗せたまま……。



翌朝、唯の部屋。

姉の枕元にプレゼントを置きに来た憂は、思わぬ姉の不在に戸惑っていた。

お姉ちゃん、ジョギングにでも行ったのかな。こんな寒い朝に。

ふと、机の上のオルゴールに目をやる。ガラスのドーム、回転木馬、二人の少女の人形。

……あれ、気のせいかな?このオルゴールのお人形さんは一つだけじゃなかったっけ?

それにしても、こっちのお人形……なんだかお姉ちゃんに似てるなあ。



終わり



最終更新:2010年10月17日 00:20