そして二人は、小さな通りを駆け回る。
真っ赤に溶けた加工前のガラス。凍てつく心も溶かしてしまう、オルゴールの音色。独特の妖気を漂わせるアロマキャンドル。
唯はそれらをじっくりと見て回り、そして首を横に振る。
昔から、一つのことに集中すると止まらなくなるのだ。
店に他の客の姿はない。店員の姿すらなかった。
通りには、灯が消えている店も多い。それが眠っているだけなのか、それともすでに死んでしまった店なのかは紬にもわからない。
やがて二人は、大きな洋館のような店の前に止まる。
「次はここだね」
しっかりと石段を踏みしめ、唯は重い樫の木の扉を開ける。
高い天井から吊り下がったランプが、暗い黄色の光で下界を照らしている。……ネジを巻かれるのを待っている、無数のオルゴールたちを。
大小さまざまなオルゴールが、ランプの薄明かりにきらめいていた。唯はこれほどの数のオルゴールが一所に集まっているのを見たことがない。
そこは遺跡なのだ。何十、何百ものオルゴールが眠る遺跡。
紬も目の前の光景に圧倒されていた。
「ムギちゃん、ここに来るのは初めてなの?」
「ええ。……今だから言うけど、こんなお店を見たのも初めてよ。以前ここには、何もなかったの」
二人の言葉が洋館に響き渡る。それはひどく場違いに聞こえた。
唯がそろそろと近くの木製のオルゴールに手を伸ばした時だった。
「おや、お客さまですかな」
乾いた声がした。
唯の頭の中いっぱいに、氷のようなショックが広がる。紬も相当驚いたらしい。両手で口元をぎゅっと押さえている。
いつの間に現れたのか、目の前に年老いた男が立っていた。
男は琥珀色のアーモンドのような目の持ち主だった。両の頬から髭がピンと飛び出している。
着ている衣服はどれも清潔だったが、どこか埃っぽい印象を与える。群青色の燕尾服も、真っ黒なシルクハットも。
「どうやら私は、また閉店の看板をかけるのを忘れたようですな」
「ど、ど、どうも失礼しました。黙って上がって、申し訳ありませんでした!」
男は髭を震わせて笑う。
「いえいえ、こちらの落ち度です。どうぞごゆっくり、私の孫たちを見ていってください」
男の声は乾いていたが、限りなく暖かかった。
「孫、とおっしゃいましたか?」
紬が言う。
「ええ、ここにあるオルゴールは皆、私の孫なのです。歌うことで人々の心を安らげることが、彼らの大切なお仕事なのです」
「歌でみんなを癒やすのがお仕事、かぁ……。なんだか私みたいだね!」
唯は早くも老人に慣れていた。
「ですが皆、自分からは歌おうとしないのです。誰かの助けがないと歌えない怠け者ぞろいで。困ったものです」
「本当、唯ちゃんみたい」
紬の脳裏に、梓や澪に叱られながら練習していた唯の姿が浮かぶ。
「ぶー!」
唯がふくれっ面をする。紬と老人が笑う。
「申し遅れましたが、私はここの館長です。どうぞおじいちゃんとお呼びください」
そして老人は、カウンターに歩いていった。古い木でできた床にも関わらず、足音はいっさい立たない。
「……おじいちゃんの帽子の下に、何があると思う?」
唯が質問する。
「ネコミミかしら」
「やっぱり?」
「……さて、ムギちゃんへのプレゼントを探さなくちゃ!」
唯が改めて意気込む。
「というわけで、ムギちゃんはついてきちゃダメだよ!」
「えー……唯ちゃん、ひどいわ」
「トップシークレットなのです!」
そして唯は、オルゴールが所狭しと並べられた棚と棚の間に消えていった。
玄関に取り残された紬は、何気なく携帯電話を開ける。……圏外になっているばかりか、時計が止まっている。
腕時計を見る。……動いていない。針は眠っていた。
雪は静かに降り続ける。
紬はふと、四歳の頃の雪の日を思い出す。
すごい雪だった。もちろん、この北国の雪と比べたら、ささやかなものだが。
雪片が舞う空。それが幼い紬の雪の日の記憶だった。積もった雪には、まるで興味がなかった。
雪を見ながら、幼い紬は時について考えた。
今までいくつの「昨日」があっただろう。大人になるまで何回「明日」を向かえるんだろう……。
時は過ぎる。彼女はもう四歳の子供でも、高校生でもない。
だが実感はまるでわかない。感覚だけが置き去りにされる。いつもそうなのだ……。
「ムギちゃん、見つけた!早く来て!ムギちゃーん!」
カウンターに行くと、唯が誇らしげに一つのオルゴールを差し出す。
大きなゼンマイがついた、木製のオルゴール。
「聴いてみて!」
紬は黙ってゼンマイを回す。キリキリと優しい音が耳をくすぐった。
優しく切ないメロディが、洋館を満たす。
「これ……『翼をください』?」
「そう!ムギちゃん覚えてるかな、私が入部した日の演奏!」
紬は思い出した。
あの日。唯との最初の出会いの日。
入部を辞退しかけていた唯のために、澪や律といっしょに弾いた曲。
拙い演奏だったが、唯は夢中になって聴いてくれた。
放課後の音楽室。
大好きな仲間たちの笑顔。
二度と戻ってはこない時間……。
気がついたら、大粒の涙が溢れていた。肩を小さく震わせ、紬は静かに泣く。
「ムギちゃん……?」
唯が心配そうに顔を覗き込む。
「ごめんね、余計なことしちゃったかな……」
「……ううん、嬉しい。すごく嬉しい。唯ちゃん、ありがとう」
そして紬は、最愛の人を強く抱きしめる。
「唯ちゃん、大好き。本当に本当に大好き」
「……私もムギちゃんのこと、大好きだよ」
老人がオルゴールを包装してくれた。水玉模様の包み紙と、赤いリボン。
「どうか私の孫を、こき使ってやってください」
別れ際に老人はそう言った。唯は彼を強く抱きしめる。
「おじいちゃん、ありがとう!また来てもいい?」
「いつでもいらして下さい。そちらのお嬢さんもね」
「どうもありがとう~」
重い樫の扉を開け、二人は雪道に降り立つ。いつの間にか、雪はやんでいた。
背後で扉が静かに閉まる。そして雪だけが残った。
紬は腕時計を見る。針はすでに目覚めていた。カチコチと、健康そうな時の音を刻む。
突然、唯の携帯電話が大きな声で鳴り始める。唯はバッグを取り落としそうになった。
暴れる心臓をなだめながら、携帯電話を耳に当てる。
「もしもし?」
『いつまで待たせんだよ、お前らは!』
律の声がスピーカーから響く。彼女の声を、何年ぶりかに聞いた気がした。
『そんな寒いところにつっ立ってないで、早く来いよ!温泉とあったかいご飯が待ってるぜーっ!』
「わーったよ、すぐ行くよ~」
「りっちゃんから?」
「そう。早く宿に来いってさ」
「澪ちゃんはどうしてるかしら?」
「待ちくたびれて寝ちゃったって。まだまだ子供だねぇ~」
二人はクスクスと笑う。
「さあ、また怒られないうちに行きましょう」
「そだね~」
「……唯ちゃん」
「んー?」
紬は唯の手をぎゅっと握りしめる。
「……あったかあったか」
「……そだね。あったかあったか!」
二人は手を握りあい、雪道を歩く。
足跡は再び降り出した雪に、早くも飲まれかけていた。けれどもそれは問題ではないのだ。
いくらでも作ろう。足跡も、思い出も。
K-ON! Continues…
Fin
最終更新:2010年10月20日 02:03