私といるときは梓ちゃんの話が多かったので、ちょっと意外でした。
高校一年のころ、梓ちゃんと仲良くなる前に勝手にやきもち焼いてしまった私がばかみたいです……。
梓「お互いがいない時でも、ずっとお互いのこと考えてるんだよ。大丈夫じゃないわけないじゃん」
憂「そうだったら……うれしいな」
知らないところでお姉ちゃんが私の話をしているのは……見てみたいような、恥ずかしいような気もします。
――大学入っても、唯先輩はあんな感じなんだろうね。
ちょっとあきれた笑いとともに梓ちゃんがつぶやきました。
だけど実感の伴ったその言葉は、大学生になるお姉ちゃんとの未来から不安を取り除いてくれたみたいです。
梓「それに……」
憂「それに?」
梓「あっうんなんでもない。ってかもう夕方だし、唯先輩そろそろ帰ってくるんじゃない?」
梓ちゃんははっとしたように顔をあげたかと思うと、ごまかすように笑って話をそらします。
とっさに何かを隠したみたいですが、不思議とわるい予感はしませんでした。
しばらくして、梓ちゃんと入れ替わりにお姉ちゃんが帰ってきました。
唯「あずにゃん、うちの憂を頼んだよっ」
梓「嫁に出すみたいなこと言わないでください…」
憂「えへへ、じゃあ梓ちゃんこれからもよろしくね?」
唯「えっ…! あずにゃんあずにゃん、妹にうわきされたよぉ!」
憂「そんなことないよ、私はお姉ちゃんのものだもん!」
梓「ねぇ私帰っていいよね、憂…」
お姉ちゃんが帰ってきたとたん、窓の外からやわらかな光が射し込むように部屋があったかくなったようです。
帰りたいとぐちをこぼす梓ちゃんも、そんな私たちのことをほほえみ混じりに見守っていました。
梓「じゃあ……唯先輩、お元気で」
唯「って言っても、来週の日曜にはスタジオ入りだけどねぇ」
桜高軽音部を引退したお姉ちゃんたちですが、放課後ティータイムはそれとは別に継続していくみたいです。
私も梓ちゃんの軽音部に入るために紬さんにキーボードを習い始めたので、いつかお姉ちゃんと演奏するかもしれません。
唯「憂もがんばってね、今年の演芸大会はゆいういで出場するから!」
お姉ちゃんは私の両肩に手を置いて、なにやら気合いを入れてくれます。
そんな姿を見ていた梓ちゃんは少しほほえみながら、楽しみにしてるね、と言ってくれました。
梓ちゃんが帰った後、私はお姉ちゃんと一緒に晩ごはんを作りました。
お姉ちゃんはしばらく前から私に料理を習いはじめました。
こうして毎日一緒に作るのも、最後だと思うとちょっとこみ上げてくるものがあります。
唯「うい、どしたの?」
憂「……たまねぎ、切ってただけだよ」
唯「そっかぁ。じゃあ、代わりに切ったげるよ」
お姉ちゃんが手を差し伸べてくれましたが、遠慮しておきました。
なんとなく、私にできることは私がやらなきゃいけない気がしたんです。
二人で食べる、最後の晩ごはんを食べ終わった後、お姉ちゃんは言いました。
唯「今日はさ。久しぶりに、お風呂はいろっか」
一瞬悩んだ私の手を、お姉ちゃんが強く引っ張ります。
憂「うん……じゃあ、身体洗いっこしたいな」
唯「そうだね! ひさしぶりだからねぇ」
お互いに「最後」という言葉を避けながら話しているみたいです。
私は着替えを持って、お姉ちゃんの待つ浴室へと向かいます。
曇りガラスの向こう側にぼやけて揺れるお姉ちゃんの肌が見えました。
なにやら歌声が聞こえます。あのメロディーはたしか――
唯「あ。ういー! はやくはやく、私から洗うからねっ」
私たちは久しぶりに、互いの身体を洗い合いました。
あの日から成長して身体の形も変わったような気がしましたが、やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんです。
唯「なんかういのおっぱい見てると負けた気がしてくる…」
本当に残念そうにぼやくのですが、私はお姉ちゃんの身体の方がきれいでうらやましいです。
お姉ちゃんのすべすべした肌を、かつてお姉ちゃんがやってくれたみたいに丁寧に洗いました。
明日は、きれいな格好で出発してほしかったのです。
唯「うい、ありがと。とってもきもちよかったよ!」
一緒に入ったお風呂の中で、久しぶりにちょっと抱きついてみたりして。
お風呂の蒸気の中で、こんな温かさが当たり前に続くような……そんな感覚にさえとらわれました。
窓の外からはどこか遠くで、虫の音が聞こえていました。
私はお風呂の中でお姉ちゃんに抱きしめられながら、ぼんやりとその歌声を聴いていました。
あと数時間で日付が変わるときのことでした。
お風呂から上がったあと、繋いだ手を離さないように気をつけて私の部屋に向かいました。
今夜ぐらいは一緒の布団で寝ることになったのです。
半日前までは、お姉ちゃんにふれることすら怖かったです。
やわらかい感触を思い出してしまったら、昔みたいに引き止めてしまいそうな気がして。
でも、きょう梓ちゃんといろいろ話せたからなのか、先の不安も前よりは薄れました。
だから今日は、お姉ちゃんにいっぱい甘えることができたのです。
暗い布団の中で手をにぎりあって、お姉ちゃんとお話します。
憂「ねぇ」
唯「……なあに? うい」
憂「……すき、だよ。」
唯「………うん」
憂「すき、じゃないけどね。……おねえちゃんのこと」
唯「……えへへ。おぼえてるんだね」
憂「忘れられるわけ、ないよ。おねえちゃん」
お姉ちゃんは私をぎゅっと抱きしめると、つづきをいって、とささやきました。
私は、散歩の日に交わした言葉を……声に出してお姉ちゃんに返しました。
唯「うん……わたしもだよ。うい」
お姉ちゃんはふわっとほほえんで、かわんないね、と言います。
その言葉でなんだかとても落ち着いた気がしたので、ありがとう、と伝えました。
あの日ベンチで交わしたその後のやりとりも、はっきりと覚えています。
けれども分かりきった台本をなぞるのはやめて、お姉ちゃんを抱きしめたまま眠ることにしました。
うすらぼやけた意識の狭間で、眠りの海のさざなみを感じるころ。
くちびるが熱いもので満たされた気がしました。
夢うつつの私は手をぎゅっとにぎりかえして、深い眠りについたのです。
朝、私はお姉ちゃんの腕の中で目を覚ましました。
手が繋いだままになっていたのがうれしかったです。
憂「お姉ちゃん……朝だよ、おきて」
唯「ん……うい、おはよう」
今朝も今までみたいにお姉ちゃんを起こして、一緒に朝ごはんを食べました。
私の作ったハムエッグに、お姉ちゃんはおいしいと言ってくれます。
いつも通りの朝、変わらない会話。
それは私に、お姉ちゃんと二人で一緒に暮らす日々が、ずっと続くんじゃないかって錯覚を起こしました。
もう、電車の時間は近づいているのに。
憂「じゃあ……そろそろ行こっか」
唯「あ、憂。その前に、ちょっと聴いてほしい曲があるのですが……」
ふいにお姉ちゃんがそんなことを言ってはにかんだのです。
私はわけも分からずお姉ちゃんの部屋に手を引かれます。
すると、昨日までなかったはずのアンプとお姉ちゃんのギターがそこにありました。
憂「どうしたの……?」
唯「えへへ、実はあずにゃんにこっそり持ってきてもらったんだぁ」
昨日の梓ちゃんの不自然な様子と、今のお姉ちゃんとがつながります。
そっか……こういうことだったんだ。
唯「あずにゃんと練習したからね! 憂だけのための、アコースティックバージョンなんだよっ」
鼻息荒く、お姉ちゃんは気合を入れます。
けどアンプにつないでる時点で、アコースティックじゃないんじゃないかな……。
お姉ちゃんは慣れた手つきでギターをチューニングしなおすと、アンプのスイッチを入れました。
そうしてベッドに腰掛けた私の前に立ち、ギターを構えます。
……お姉ちゃんの大きな瞳が、やさしく細められました。
唯「じゃあ最後に一曲だけ聴いてください。 ――U&I、ソロバージョン!」
そうして世界で一曲だけの、お姉ちゃんが私だけに向けた歌が始まりました。
U&Iは、私が世界で一番好きな曲です。
お姉ちゃんが部活で遅くなる間、カセットテープに録ったのを何度も何度も聞き返したり。
晩ごはんを作っている時に、思わず口ずさんでしまったり。
そういえば、鼻歌で歌っていたらお姉ちゃんがハミングしてくれたこともありました。
メロディ、息遣い、楽器の演奏、お姉ちゃんの歌声……そのどれもが、私の中でずっと鳴り止まずに残っているものです。
お姉ちゃんは、歌いながら少し涙ぐんでいました。
私もときどき目頭をこすりながら、お姉ちゃんの歌う姿を目に焼き付けようとしました。
――ありったけの 「ありがとう」
歌に乗せて 届けたい
この気持ちは ずっとずっと 忘れないよ
演奏が終わってギターが置かれ、アンプの音がぷつんと切れたとき。
私はお姉ちゃんを抱きしめました。
……届いたよ、お姉ちゃんの歌。
そろそろお姉ちゃんが出発する時間です。
私は駅まで、お姉ちゃんを見送ることにしました。
ここから東京まではおよそ一時間ぐらいで、それほど離れた距離ではありません。
手を伸ばせば、届く。会いたくなったら、会いにいける。
それはこれからのお姉ちゃんと私のためにちょうどいい距離なのだと思います。
玄関先で靴を履くと、お姉ちゃんはドアを開けました。
ドアのすき間からはやわらかな陽の光が差し込んで、向こう側の世界が色鮮やかに映ります。
唯「じゃあ、行こっか」
憂「うん」
私はお姉ちゃんと手をつないで、外へ出ました。
やわらかくてあったかい手を、ぎゅっと握り締めて。
お姉ちゃんと二人で、家の前の道を並んで歩きます。
駅への道のりも途中までは通学路と一緒なので、歩いているといろいろなことを思い出します。
家を出て少し歩くと、住宅街を抜けて広い道に出ます。
途中で和ちゃんやとみおばあちゃんと小さい頃から一緒に遊んだあの公園が見えました。
錆び付いたブランコが風に揺れて、細くきいきいと鳴いています。
唯「かわらないねぇ」
憂「そうだね」
しばらく駅に向かって歩くと、家の近くの川が見えてきました。
橋を渡っていると、欄干の下で川面に陽の光が天の川のように光っていました。
そういえば塾の帰り道に、いつもこの橋を純ちゃんとお姉ちゃんと三人で渡って帰っていました。
ここから見る夜空はとてもきれいで、二人の間で両手を握られて見たのを思い出します。
唯「ねぇ、うい」
憂「なあに?」
唯「……卒業したら、うちに来てほしい、かも」
お姉ちゃんは、手をきゅっと強く握りしめます。
車が一台、私たちの後ろ側から走り抜け、追い越していきます。
声に出そうとした言葉はその走行音にかき消され……そのままでした。
駅に着きました。
私はパスモで改札を抜けようとしたのですが、チャージ金額が足りなくて引っかかってしまいます。
しょうがないので券売機でチャージしなおして、無事に改札を通りました。
向こう側ではギターを背負ったお姉ちゃんがもう待っていて、私は慌てて追いつきます。
上り電車のホームに着くと、人はまばらでした。
平日の十時過ぎだと利用客も少ないみたいです。
唯「……ねえ、」
お姉ちゃんが何かを言おうとした時、構内放送が流れました。
『まもなく二番線に電車がまいります』
憂「お姉ちゃん……」
電車の近づく音が少しずつ大きくなってきました。
あの電車が来たら、お姉ちゃんともう離れ離れになる。
そう考えるだけで息が詰まって……伝えたかったことも、言葉にならなくなってしまいます。
唯「うい……しっかりだよ」
憂「………うん」
唯「お姉ちゃんも、がんばるから」
憂「……じゃあ、待ってて」
唯「んー?」
私は、振り向いたお姉ちゃんを抱きしめました。
ホームの白線から足を踏み出して、車内に足を一歩踏み入れたお姉ちゃんを抱きしめます。
発車のベルが鳴り響くまでの数分間、お姉ちゃんは私に身体を預けてくれました。
みるみるうちに涙があふれてきて、私はお姉ちゃんの服を汚してしまいました。
憂「あのねっ…おねえちゃん、わたし……」
唯「……だいじょうぶだよ、うい。だいじょうぶだからね」
いままでと同じように、お姉ちゃんは頭をなでて大丈夫と言ってくれます。
憂「わたし…ほんとの、ほんとの恋人になるっ、からぁ……」
唯「……そうだね、大人にならなくちゃ、だよね。やくそく、だもんっ」
いつしかお姉ちゃんも涙声になっていました。
時間が止まってほしい――そう思った瞬間、発射のベルが辺りに響きはじめました。
お姉ちゃんは私の腕をそっとはずして、ふるえる私の手を両手でにぎりしめました。
唯「……うい、まってるからね?」
憂「うん、おねえちゃん、ぜったい…おねえちゃんのとこ、いくから…!」
ベルが鳴り終わる寸前に、お姉ちゃんは私の顔を引き寄せて、口づけをしました。
唇から愛する人の熱が伝わった、ほんの数秒後。
私はホームの側にそっと押し戻され、ドアが閉まりました。
泣き顔のお姉ちゃんを乗せた電車は動きだし、次第に遠く小さくなって、やがて見えなくなったのでした。
取り残された私は、顔をぐしゃぐしゃにした涙を拭う気力も出ないままふらふらと階段を上ります。
いまもひくひくと少ししゃくりあげながら、改札へと戻りました。
改札を抜けようとしたとき、お財布を落としてしまいました。
中のものが散らばって、慌ててかき集めます。
そんな中……懐かしいものがそこにありました。
『ゆい&うい』
『ずっといっしょだよ!』
六年前にお姉ちゃんと一緒に映った、プリクラ写真です。
中学一年生のお姉ちゃんはその頃の私を抱きしめて、キスをせがんでいました。
憂「あは……お姉ちゃん、変わってないなあっ…」
なんとなく……自分の手のひらをひろげて、プリクラの中の自分と眺めてみました。
小学生の頃と違って大きくはなったけれど、右手首の骨がすこしずれているのは変わりません。
唇から心の奥へと流れ込んだ、熱のようなもの。
絡め合わせた指と、少しの汗に溶けあった手のひら。
耳元のささやき声はあのメロディーと溶け合って、はっきりとお姉ちゃんの歌声となって頭の中を満たします。
憂「……変わっても、変わらないよね?」
写真のお姉ちゃんに問いかけたら、そのままの笑顔でうなづいたように見えました。
――だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。
耳元でささやく声が、聞こえた気がしたのです。
私はそのお守りをお財布の中にしまうと、ハンカチで顔を拭いて立ち上がりました。
駅を出て見上げると、海のように澄んだ青空がロータリーの上空に広がっていました。
お天道様も照っていて、なんだか散歩するのにちょうどいい天気です。
憂「……うん。がんばろっと」
大きく伸びをした私は、頭の中のメロディーを口ずさみながら、また家に向かって歩きました。
それは三月のよく晴れた水曜日のことでした。
おわり。
最終更新:2010年10月23日 00:47