「でも、意外よね、和ちゃん怒るとばかり思ってたもの」

「何がですか?」

「ほら、一昨日、私和ちゃんに怒られたじゃない。
 りっちゃんの監督が不行き届きです、とか言って……」

一昨日、もう律に何を言っても無駄だと察した私は、講堂使用許可申請を先生に書いててもらうように頼みに行ったのだった。

「まあね、それで、金曜日に落ち着いて酒でも飲んで話しましょう、なんて言った私もどうかと思うんだけどね」

「そうですね。教師として問題があると思いますよ」

さわ子先生がじとっと私を見つめる。
ぐいっとビールを飲んで、人差し指で私の頬を突いた。

「楽しみにしておきます、なんて答えた人に言われたくないわ」

「……まあ、いいじゃないですか」

ことん、という音がして、食欲をそそる香りがした。
焼き鳥だ。

「あら、姉ちゃん、どうして眼鏡外してるんだい。男前になっちまってるじゃねえか」

店長さんの声が聞こえたが、その表情が読み取れなかったので、私は眼鏡をかけた。
店長は満面の笑みを浮かべていた。

「やあ、眼鏡一つで顔の印象ってのは変わるもんだなあ。今度は随分と別嬪さんだ」

店長が声を上げるのと同時に、私もけらけらと、声を上げて笑った。
さわ子先生がくつくつと押し殺した笑い声を出しながら、可笑しそうに言った。

「ちょっと、私の生徒を口説いちゃ駄目よ」

私はジョッキに視線を落とした。

「こすぷれじゃあ無かったのかい」

「留年してんのよ」

「そいつはすまねえなあ、気にしてることを言っちまったか」

店長さんが、わざとらしく、すまなかったというような顔をする。
奥に座っていた男の人が立ち上がって、帰りの準備を始めたのを見て、店長さんはレジの方へ向かっていった。
最後に、私たちに、にやにや笑いながらこう言った。

「そんじゃあ、さわちゃんが口説けば良い。男日照りなら、女にも手を出してみりゃいいさ」

下品な笑いかただったが、不思議と嫌な感じはしなかった。

「なに言ってんのよ、馬鹿ねえ」

さわ子先生は、目を伏せて酒を煽った。
顔を赤くして、ガツガツと焼き鳥を口に入れる。
あまり品が良いとは言えない。

「先生、みっともないですよ」

私が嗜めると、先生は、きっと睨んで一言、

「別にいいじゃない、どうせ私のことを見ている男なんていやしないんだから」

酔い始めているのか、目の淵に涙が溜まっていた。
私はメガネを外して、それを指で拭った。

「男前、でしょう?」

「……そうね」

さわ子先生は、眉を下げて、悲しそうに笑った。

酒を飲んだせいか、外は肌寒く感じた。
繁華街の明かりは置き去りにして、月明かりばかりがこの辺りを照らしていた。
財布を出そうとする私を制して、さわ子先生が全額払ってくれた。
生徒の手前、見栄もあるだろうが、なんとなく、大人っぽく感じた。
ふらふらとした千鳥足も、私にはまだ届かない、大人の世界のものに感じる。

「あぁ……気持ち悪いわ」

さわ子先生は結局、自分の分に、私が残したビール、さらにもう一つ追加で飲んだ。
店長さんは、何を考えてんだか、と苦笑していた。

「何を、考えているんですか」

自分の声が、冷えて凝縮した空気を震わせたのに驚いた。
そして、その言葉は、もう私の口の中に戻ってこないことに気づいて、後悔した。

「和ちゃんのこと。和ちゃんが、何を考えているんだろう、ってこと」

さわ子先生は、赤くなった顔を私に向けた。
電灯が彼女の顔を照らし、月明かりはさわ子先生まで届かない。

「分かりましたか、私の考えていることが」

私の声は、何者にも邪魔されず、真っ直ぐに彼女に届く。
それが、憎らしく思えた。

「大体、ね。女子高で教師やってるとね……ほら、私美人だしね?」

困ったように笑って、舌を出した。
私がさわ子先生に近づこうとすると、また、綺麗な指を私に向けた。

「私がどうこうじゃなくてね、世間がどうこうってのがあるのよ」

「世間っていうのは、結局、先生のことじゃないんですか」

「あら、私は人間失格なのかしら」

予想だにしなかった返しに、少したじろぐ。

「言葉に出すのも、駄目なんですか」

「言葉に出すのが、駄目なのよ。出した言葉は戻らないんだから」

私は、さわ子先生の指だけを―――顔を見ないように―――見つめて、近づいた。
さわ子先生が首を振っているのが分かった。
その手が降ろされる直前に、私はその手を掴んだ。
時間が止まった気がした。

「掴んで、どうするの?」

掴んで手を引き寄せて抱きついた。

「駄目だって言ったじゃない」

ため息を付いて、さわ子先生が言った。
彼女も、私も、月明かりだけが照らしている。

「私、何も言ってません」

「でも、してるでしょう?」

「温もりは消えるじゃないですか」

「月明かりは月に帰らないでしょう。光だって、私たちを照らした後は直進していくのよ」

「それなら、私を払いのけてくれればいいんです」

眼鏡がずれた。視界がぼやけて、滲む。

「そうしたら、私も戻っては来ませんから」

また、大きなため息。
優しく頭を撫でられた。

「ずるいね、和ちゃんは」

どんな顔をしているのか、私には分からないが、生徒ではなく、友達と話すような調子で言ってくれたのが嬉しかった。
もっと強く抱きついた。

「ずるいのは先生です。最初から、思わせぶりに、足繁く生徒会に来たりなんか、しないでくれたらよかったのに。
 楽しそうに居酒屋に連れてったりなんか、しないでくれたら良かったのに」

「そうね、ごめんね」

「今も、早く払いのけてくれればいいのに、気持ち悪がってくれたらいいのに」

「そんなことしないわ」

「それが嫌だ……辛いの」

自分の声が震えているのが分かった。
情けない。
顔を上げると、先生が私の顔を覗き込んでいた。
青白い月光は、先生の髪しか、顔の輪郭しか照らしてくれていない。

「私酔ってるから……ほら、息、お酒臭いでしょう?」

先生が息を吹きかけた。居酒屋でさんざん嗅いだ、アルコールの匂いが鼻につく。

「……うん」

私が頷こうとすると、先生は私の顎に手をかけて、クイと上げた。
一瞬、息ができなくなった。


「酔っぱらいだから、世間に中指を立てるくらいしたって、セーフよね?」

私が呆気に取られていると、彼女はさっと後ろを向いた。
乱れた髪から覗いた白いうなじを、ほんのり赤らめて、片方の手を腰に当て、もう片方で顔を仰ぎながら、

「暑いわね、今日は。本当に暑い」

と言った。
私をおいてけぼりにして、ずんずんと歩いて行こうとする彼女が、また電灯の明かりから逃れた時に、私は駆けだした。

「私は寒いですよ」

そう言って、抱きついた。
細い体は、私の腕にもすっぽりと収まった。

「私は暑いのよ」

「私は寒いんです」

子供のように駄々をこねる私の頬を突いて、彼女は笑った。

「じゃ、腕だけね」

抱きついて、上を向いた。
私たちを照らし出す月が憎々しかったけれど、それ以上に―――

「先生、月が綺麗ですね」



………

和「という話だったのよ。どうですか、こんなの」

唯「そうなんだ、じゃあ私音楽室行くね」

和「つれないわね、なんか感想とかあるでしょ」

唯「ないよ、登場してすぐに人のこと追い出しといて、なんでその人に意見求めてんの」

和「だって仕様がないじゃない」

唯「しょうがなくないから。とにかく、ワケ分かんない夢の話を聴かせるのはやめて」

紬「私は楽しかったわ!でも、もう少し肉欲に溺れるべきだと思う!」

和「そうなんだ、じゃあ私生徒会行くね」

紬「なんということっ!」

さわ子「……そういう話は本人がいないところでして欲しいんだけど、とりあえず今度居酒屋行く?」

和「……ぜひ」




終わりです。



最終更新:2010年10月26日 23:39