「皆さんにお伝えしなければいけないことがあります」
 いつもよりトーンの低い声が静寂を呼び起こす。まるで束縛から解放されることと引き換えに、私の知る音が全て消えたようだった。
「知っている人もいるかもしれないけど、私は昔バンドをやっていてずっとベーシストとして活動していました。全員同じ高校の軽音部でした。そのバンドは、私が些細なこと……本当に些細なことで駄目にしてしまいました。それがずっと心に引っかかっていて辛かった」
 みんなの顔が浮かんだ。そして立てかけたままのホコリだらけのベースを思い出した。

「あの時、一人でやっていくとみんなに……正確にはたった一人の仲間に誓いました。そして今日までやってきました」
 スタッフやファンの一部が私のただならぬ雰囲気に何かを感じ始めているようだった。
「でも、結局一人では何も出来ませんでした。ファンの皆さん、本当にごめんなさい。今まで私は自分を偽って心にもないことを歌い続けていました。皆さんを騙していました。本当にごめんなさい。そして支えてくれた関係者の皆様にも……お詫び申し上げます」
 私はマイクに最後の言葉をぶつけた。

「今まで応援ありがとうございました。私は今日限りで音楽活動を全て終わらせます」
深々とお辞儀をし、私は歌手秋山澪という存在を自ら殺した。これでいいんだ。あとはただ残された時間を怠惰に過ごせばいい。シンセもムギに返さなきゃな……。
 ステージ袖が慌しくなっている。稼ぎ頭に突然引退宣言をされたんだから当たり前だよな。ファンもただ私を見つめるだけで先ほどまでの熱気が瞬く間に静寂へと変貌していた。
 この有様だけ見れば、今日のライブは全て幻のようにさえ思えた。だけどもう私には関係のない世界なのだ。すでに秋山澪というシンガーソングライターはこの世に存在しないのだから。

 謝る相手などもうどこにもいない。顔を上げた私は、そのまま舞台袖へ向かって歩いた。みんな、ごめんな。



 カツーン――




 誰もいないドラムからスティックが落下した。その音はリバーブでもかけられたかのごとく会場内に響き渡る。その音に、思わず私は足を止めた。

 あの日が、あの出来事が、フラッシュバックした。

 その瞬間、

「馬鹿澪ーー! 何勝手なこと言ってやがんだああああぁぁぁぁぁーーーーーー!!!」
 長らく記憶の中でしか聞いていなかった、けれど一日たりとも忘れなかった声が聞こえた。まるで、ドラムスティックが止まっていたレコーダーのスイッチを入れたみたいだった。

「澪は一人じゃないだろ! 私はずっと一緒にいたんだぞ! お前が忘れていただけで、お前はずっと放課後ティータイムのベースで……いつも背中が痒くなる様な詞を書いて……ライブで恥ずかしがって赤面して……」
 ずっと私のライブを聴いて声援をくれていたのだろうか。その声は若干かすれている。
「ずっと昔から、今でも、私のドラムを好きだって言ってくれた澪なんだよおおおおぉぉぉぉぉーーーー!!!!」
 忘れてなんかいない。私はずっとお前を見ていたんだから。忘れるはずがないだろう。
 この場から顔は見えない。けれど、そいつは、そこにいる。

「澪! 一人で歌いたくないんならこっちにこいよ! もう昔のことなんてどうだっていいじゃねーか! そうだろみんな!!」
 少しの間を持って新しい声が聞こえた。
「そうだよ澪ちゃん! わたしまたみんなで演奏したい!!」
 声の主は言葉を続ける。
「ギー太だって毎日お手入れしているし、歌だって練習しているんだよ!」
「そうです! みんな、みんな澪先輩のことを待っているんです!」
 私を慕ってくれた後輩の声も聞こえた。
「澪ちゃん、私たちは五人で放課後ティータイムよ。ふふ、シンセサイザー、返してもらわなきゃね!」
 みんながそこにいた。あの日と変わらぬ、みんながいた。

「澪! そーゆーわけだ。お前一人で解決できることなんてないんだよ! だから一緒に考えて、一緒に悩んで、一緒に演奏しようぜ!!」
 今、私は気が付いた。どうしてこんな簡単なことにずっと気付かなかったんだろうか。そう、私が一人だった時なんて一度たりともなかったじゃないか。いつだって一緒にお茶して一緒に演奏して一緒に笑っていたじゃないか。
 いつの間にか四人の声に引っ張られ、会場内には歓声が広がっていた。

 ああ、あんなひどいことを言ったのに、みんなはまだ私のことを応援してくれるんだ――そう思ったら、私は自然と笑顔になり、やわらかな涙と思い出が一緒になって溢れた。
「いいのか……私は戻ってもいいのか? あんな、あんな酷いことを言って、こんな、こんな自分勝手な私でも、戻っていいのかな」
 こんなつぶやきも歓声がかき消していく。それがあいつらの、みんなの答えなんだ。私はこんなにも多くの人に支えられていたのか。
 きっとここにいる人たちだけじゃない、あらゆる場所に私を支えてくれている人がいる。そんな人たちの声も、私は聞いた気がした。

「ありがとう。みんな、本当にありがとう!!」
 私は出せる力全てを出し切ってマイクに気持ちを伝えた。この日、一番大きな歓声が会場に響き渡った。優しいヒカリに包まれた、歓声がこだましていた。
 今からまた、あの日に止まった歯車が動き始める。やっぱり、私の歯車を止めるのも動かすのもあいつなんだな――そう思うと、私は何故だかとても嬉しい気持ちになった。そう、わかっている。もう止まることなんてない。思い出に袖を濡らすこともないんだ。

 私はこの日、歌うことをやめるはずだったのに、もう一度歌うことを誓ったのであった。



エピローグ

 暖かい歓声に包まれながら私は舞台袖に下がる。今日もコンサートは無事終わりを迎えようとしている。

 流されたり汚れたり……そんな時間ばかりだ。

 だけど、それも間違いじゃないって信じた。


 果てのない理想を描き、辿った先にはあの頃と同じ君が見えた。


 探し続けた答えは……その手が握っている。


 アンコールの歓声に答え、私は再びヒカリの中へ飛び込んでいく。しかし、私は独りじゃない。大好きな、大好きなみんなと一緒に……大切な仲間と共に。その手に見つけた答えを抱え込みながら大きな舞台へ舞い戻るのだ。

「みんな応援ありがとう! 色々あったけど、やっとここまでこられました! みんながずっと応援してくれたから、私が忘れていた当たり前のことを大切な人が教えてくれたから……ここまでこられた。だから、またベースを弾く! みんなに聴いてもらう!」

「おい澪ーー!! なんかカッコいいけど早く歌えー!!!」

 聞き慣れた声で後ろから野次を飛ばされる。

「まあまあ! 澪ちゃんも久しぶりのバンドで嬉しいんだって!!」

 微妙にフォローになってないギタリストの野次がこれまた聞こえる。

「ごめんね澪ちゃん♪ 続けてください!!」

 ちゃんとしたフォローをようやく受けた私は満員の会場に向き直る。

「私は、私がやれることをみんなに伝えていこうと思う。だからもしかすると今まで私の歌を聴いてくれていたみんなを困らせるかもしれない。それでも……いいかな?」

 大きな、大きな音が会場に響く。それらの音はその全てが私への答えなんだと実感できる柔らかい声だった。

「先輩! みんな先輩のファンなんですから!! 絶対付いてきてくれるに決まってます!!」

 後輩の声に耳を傾けバンドメンバーを見回す。ある人はギー太を抱え早く早くとうずうずしていたり、ある人は私が返したシンセサイザーの手入れをしていたり、またある人は小柄な体を震えさせつつバンドができる喜びをかみ締めていたり……。
 ほんと、相変わらず協調性のないこと。そしてスティックを構え気合十分のアイツはトレードマークのカチューシャを久しぶりにしている。
 そう、ようやく叶った、私たちの願いを全ての人に届けたい……。私はマイクを握り締め声高らかに宣言する。

「聴いてください! アンコールで『ふわふわ時間』!!」


 卒業式、音楽室で弾いた時から動くことをやめていた本当の放課後ティータイムの歯車が、また動き始めた。


「私たちは、ずっと一緒だ」



 儚い願いは、辿り着くことのないヒカリとなって私と律を照らし続ける。ああ……眩しいな。けれど、もう私は一人じゃない。バンドが、放課後ティータイムが大好きなみんなが、一緒にいるのだから。


~終わり~



最終更新:2010年11月01日 22:14