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部屋に戻ってみると、机の上に乱雑に置かれた参考書類の傍にぽつんと置いてあった携帯が
弱弱しい光を放っているのに気付いた。
和は携帯を手に取ると開けた。表示されていた名前は『律』だった。

そういえば、と和は思った。
そういえば、いちごのメールアドレスや電話番号でさえ、私は知らない。
誕生日も、どこに住んでいるのかも、どこの中学出身なのかも。
いちごの肝心なことを、和は何も知らなかった。好きなものや嫌いなもの、そんな
どうでもいいようなことだけを知って、自分がいちごのことを知ったつもりでいたのだと
いうことに和はやっと気付いた。


『まずは友達から始めましょう』なんて偉そうなこと言って。
実際は“友達”にさえなれていない。それなのに、こんな想いを抱えてしまって。
おかしくて、悲しいのに笑いがこみ上げてくる。

和は小さく虚しい笑いを宙に浮かべて、律からのメールを開けた。
内容なんて大体わかってる。律のことだ、どうせ罪悪感を感じて『ごめん』って
謝ってるメールのはずだ。

実際その通りで、考えていた言葉すら同じで、和はまた一人、虚しく笑った。


いつのまにか眠ってしまっていたらしい。
開け放った窓から聞こえる小学生の声で、和は目を覚ました。部屋の時計を確認
すると、そろそろ放課後。唯が来る頃だろうか。
でも唯のことだから学校終わったら家に来るということを忘れてそのまま自分の家に帰ったり、
部室でムギのお茶を飲んでいたりしそう、そう思って、和はもう少し眠ろうと
再びベッドに横になった。

その途端、家のチャイムが鳴り階段を駆け上ってくる音が聞こえた。
和が慌てて身を起こす暇もなく、ドアは勢い良く開いた。

「和ちゃんっ!」

そこには唯がいた。和は寝癖の残った頭で、近くに置いていたメガネを慌てて掛けると
「お帰り、早かったわね」と言った。唯はえへへ、と笑うと「そうかな?」と首をかしげた。

「そうよ、てっきりまだかなって思って……」
「あ、もしかして寝ようとしてた?」
「えぇ……」

「ごめんね、それじゃあ私、いいこいいこしてあげるから和ちゃん寝ていいよ!」
「何でよ。別にいいわよ、眠かったわけでもしんどかったわけでもないし」
「そう?」

和が頷くと、唯はそっか、と言って鞄を放り投げ突然和に抱きついた。

「ちょっと、唯?」
「和ちゃんがいなくて寂しかったから、和ちゃん分補給」
「何よそれ」

和は笑った。だけど、唯が自分がいなくて寂しいと言ってくれて、和は少しだけ
嬉しかった。そう言ってくれる友達がいる。心配してくれる友達がいる。
せめて、それ以上は無理でも、いちごとそんな友達になりたかった、と和は思った。

「あ、そうだ。はい、和ちゃん。今日の分のノートのコピーとその他諸々」
「ありがと」
「あと、りっちゃん、後で和ちゃん家来るって言ってたよ」

「……そう」

律が来ると聞いて、和は唯の肩越しから、枕元においてあった携帯に目をやった。
和はまだ、律にメールを返していなかった。返せない、というより返す気がないというのが
正しいだろう。和は律が謝る理由がよくわからなかった。
確かにいちごのことはある。だけどいちごが決めたことなのだ。律が謝る必要はない。
和は昨日から一夜明けて、そう考えるようになった。

嫉妬なんて、自分には似合わないから――

「気付かなきゃ良かった」

和は呟いた。
こんな気持ち、こんな想い。気付かずに、そのまま過ごせばよかった。
軽はずみで、よく考えもせずに「付き合おう」なんて言わなきゃ良かった。
言わなきゃ、いちごも、そして自分自身も傷つくことはなかったのに。


「何か言った?」

唯が和の顔を不思議そうに覗きこんだ。和は「ううん」と首を振ると、さっき
言った言葉の代わりに唯に訊ねた。

「ねえ、唯。お互い想い合っているのに、恋人になれないなんて、変だと思わない?」

今、いちごが自分に対してどう思っているのかは知らない。だけど少なくとも、
以前のいちごは自分を想ってくれていた。なのになぜこうなるのか。
 そんなの、私が悪いからよね。
和は心の中で呟いて、自嘲じみた笑顔を浮かべた。

唯は暫く、きょとんとした表情をしてから、すぐに泣きそうな表情になって、「ごめんね」
と和に謝って、和の背に回した腕の力を強くした。和は困惑した。



「どうしてあんたが謝るのよ」
「私……、いちごちゃんから話、聞いて……」

和は息を呑んだ。
それで、それでこの子はどう思ったの?軽蔑した?最低だと思った?それとも汚らわしい?
けど唯はそんな言葉は一つも口に出さず、ただもう一度「ごめんね」と呟いた。

「唯……」

顔が見えなくても、唯が泣いているのがわかる。幼馴染だからということじゃなく、
唯の肩が小刻みに震えているのを感じたから。
そんなにショックだったのだろうか。和は見当はずれのことを思ったその時、唯が言った。

「和ちゃんのこと、何も気付いてあげられなくてごめん」



唯は最近、元気の無い幼馴染を心配していた。一緒に帰ろうと言っても「待ってる子がいるから」
と断られる。それに、何も話してくれない。そのことで唯は落ち込んでいた。
そして今日、いちごと律の話を聞いてしまった。

『和、お前のこと待ってるぞ。行ってやれよ』
『やだ』
『なんでだよ!?』
『……、別に。何でもいいでしょ、関係ないじゃん』

それで唯は、和が話してくれるかも知れない放課後も待てずにいちごに詰め寄ってしまったのだ。
普段中々見せない唯の真剣な表情に負け、いちごはすぐに話してくれたという。
今までのことを。

和の言葉を聞くまでは、唯は何で和がそれで落ち込んでいるのかわからなかったという。
けれど、和の言葉で全てを悟った。和の想いを。だから唯は泣かない和の代わりに
泣いているのだと言う。

「バカね」

和は泣きじゃくって話す唯の髪を優しく梳くように撫でて言った。
目蓋の裏が熱くなって、よくわからないものがこみ上げてきた。けど和は泣かなかった。
だって、私に恋愛ごとの涙は似合わないじゃない。

暫くして、唯は落ち着きを取り戻した。

「和ちゃんを慰めるつもりが、逆に慰められちゃった」

えへへ、と笑った唯の笑顔は弱弱しくて、和はごめんね、ともありがとう、とも
つかない笑顔を浮かべて、「本当にバカね、あんたは」って囁くように言った。

「ねえ、和ちゃん」
「なに?」
「いちごちゃんのこと、いいの?……その、私が話を聞いたときは、りっちゃんと
付き合う、みたいなこと言ってて……」

唯が言い難そうに言った後、「あ、でも私その後掃除場所行ったからわかんないけど!」
と慌てたように付け足した。

「いいわよ」
「でも……」

もう、昨日の時点でわかってる。
自分の恋は終わったんだって。いくら好きでも、律から奪うなんてそんな真似、
和には出来ないことがわかっている。
仕方ないのだ、これは。和は諦めたように首を振った。


と、突然枕元の携帯がぶるぶると震えて二人はびくっと肩を震わせた。
唯が「びっくりしたー」と笑った。和も笑うと、携帯を手に取った。
律からだということは、携帯に表示された名前を見なくてもわかった。

『もしもし、律?』
『あ、……和?』
『どうしたの?』
『……、あのさ、和。唯から聞いてると思うんだけど和ん家、行っていい?』
『いいけど唯、いるわよ』
『えっ!?まだいるのか!?……別にいいけどさ』

電話の向こう側で、「どうりで二階のほうから話し声聞こえると思った」という声が
微かに聞き取れた。

もしかして、律は家の近くにいるの?

和はベッドの脇の窓から外を見た。家の門の前で、うろうろしている制服姿の
女子高生の姿があった。

『……何してるのよ、律』
『え?』
『さっさと入って。家の前に不審者がいるって通報されたら大変だから』


律は「おじゃましまーす」と居心地悪そうに家に入ってきた。唯が下に行って
家の玄関を開けてくれた。母親は出掛けているようで、いなかった。

「どうぞゆっくりしてってー」
「それはお前の台詞じゃないだろ」

律は唯の頭をぽかりと叩いた。唯が「のどかちゃーん」とベッドに座る和に
抱き付いた。和が呆れて「もう」と溜息をついた。

「それで」

律はカーペットの敷かれた床に座ると、真剣な表情になった。
それで今から大切な話をするんだな、と察した唯が「私、席外してるね」と外に
出て行った。律は「悪いな、唯」と謝ると、和に向き直った。

「いちごのことなんだけど」
「えぇ。わかってるわよ、いちごから聞いたもの。いちごと付き合うことになった
んでしょ?私は応援するわ」

胸の奥がちくちくと痛かった。けど、律に「応援する」と言えて和はほっとした。
これでもう、大丈夫。明日からちゃんと学校に行けるし、普通にいちごに接することが出来る、と。
だけど律は。

「断ったよ」

「……どうして」

和は声を搾り出すようにして訊ねた。
大体のことは、わかっていた。いちごの言葉からも、前に聞いた律の話からも。

律はいちごが好きだった。多分、ずっと。いちごもそれを知っていた。だから
あんなふうに「律は断らないから」と自信満々に言えたのだ。
それなのにどうして。

「一緒だよ」

律は言った。

「一緒、って?」

「和がいちごを好きだって自覚ないときに付き合おうとしていちごが断ったのと同じ。
自分のこと好きじゃないってわかってるから、だから断った」

律はそう静かに言うと、「あいつ、まだずっと、和のこと想ってる」と呟いた。



その律の呟きは、諦めたようにも、すっきりしたようにも、悲しんでいるようにも、
よくわからない感情全部が混ぜられたような呟きだった。

それからふいに、ずっと驚いたように固まる和に言った。「行けよ」と。

「でも……」
「行けよ、待ってるから、いちご。多分、和のこと、待ってるから」

そう言うと、律は立ち上がって「ん」と和に何か書かれたメモを差し出した。
それには誰かのアドレスと電話番号が書かれていた。

「和のことだからさ、どうせこういうの知らないんじゃないかと思って。
私のときでも澪に教えてもらったくらいだし」
「……なんでもお見通し?」
「ま、唯には負けるんじゃない?私は和の幼馴染じゃないんだからさ」

律は言うと、ドアのほうを目で指した。唯がそっと中を覗いていた。
目が合うと、決まり悪そうに逸らして、それから「和ちゃん、行って来たら?」と
部屋に入ってきた。

「和ちゃん、本当はまだ諦めきれてないでしょ。顔みたらわかるよ、和ちゃん、迷ってる」
「……そうね」

和は頷いた。「ありがとう」といつもの和の声で言うと、和は立ち上がった。



――――― ――

和は学校に向かって歩きながら、メモと携帯と睨めっこしていた。
歩きながらだと携帯の小さい画面が揺れてよく見えない。
それで、メールを打つのは諦めて電話をすることにした。

見たこと無い番号だから、とらないかも知れないな、なんて思いながらも和は
とりあえず電話番号をプッシュして電話マークを押した。
予想の外、いちごは直に電話に出た。

『……はい?』
『もしもし、いちご?』

電話の向こう側が暫く沈黙に包まれた。今、どこにいるのだろう。ざわめき声が
聞こえてくる。学校か、それとも駅や商店街のほうにいるのか。
けどどこにいるとしても和はそこに飛んで行こうと決めていた。

『そう、だけど』

数秒の沈黙の後、いちごは頷いた。誰かとは聞いてこなかった。
だから和は、きっと声だけでわかってくれたんだと少しだけ自意識過剰になることにする。

『今、どこにいるの?』
『……、学校だけど』
『それじゃあ、今直ぐ行くから生徒会室で待っていて』

和は返事を聞かずに電話を切った。
そして、自分には似合わないと思いながらも、誰かに会いたい為に和は走った。


息を切らして学校に飛び込んだ。音楽室の方から音が聞こえてきた。きっと、唯と律
以外の三人が、演奏しているんだろう。物足りない演奏は、だけど今の和には何よりも
心強く感じられた。
友の存在を、感じられたかもしれない。

生徒会室の前に、いちごの姿はあった。大きく肩で息をしながら近付いてきた和を、
いちごは少し驚いたように見た。
和は訊ねた。

「どうして外で待ってるの?」
「……鍵」

あ、と和は呟いた。そうだった、鍵がかかってるんだ、この生徒会室は。
落ち着こうと思っていても、よっぽど心は動揺しているようだ。
和は「ちょっと待ってて」と言うと、職員室へと踵を返した。職員室で鍵を受取ると、
いちごが何も言わないうちに鍵を開けていちごを中に招き入れた。

和は後ろ手で、鍵を閉めた。

「それで、なに?」

いちごはそれには何も言わず、和が休んでいた理由、休んでいたのに学校に来た理由、
そんなこと全て、何も訊ねず、ただ、そう言った。

「無理矢理友達になることないって、言ったよね、私」

いちごはそっぽを向きながら、怒ったような口調で言う。そんないちごを見て和の
心が少しぐらついた。けど、和は深呼吸すると、ずっと心の中で復唱していた言葉を
最後までちゃんと、はっきりした声で言った。

「好きなの、いちごのこと」



「……、うそ」




いちごの表情が揺らいだ。だけど、それでもいちごは無表情を装い言った。
和は「嘘じゃない」と言って、いちごに近付くと俯いたいちごの顔を自分へ向け、
今度はちゃんと目を見て、「好きなの」ともう一度言った。



それでもまだ信じようとしないいちごに、和は無理矢理唇を重ねた。
離れると、無表情だったいちごの顔は驚きでいっぱいになっていた。

「これで、信じられるでしょ?」

いちごが負けを認めた小さな子どもの様に小さく、こくっと頷いた。
和から目を逸らしたいちごの頬は、微かに赤みを帯びていた。

「ねえ、いちご。もう一度言うわ」

私と付き合って。

けど、それを言う前にいちごは「やだ」と言った。
和は「どうして」と訊ねた。今度はちゃんと、落ち着いて。

「……、私たち、まだ友達になってない」
「え?」
「和、最初に言ったよ、まずは友達からだって」
「そうね、言ったわ」

「だから、友達から始めようよ。私を待たせた仕返し」

いちごは笑った。お姫様のように、気高く、勝ち誇ったように、だけど、幸せそうな。
やっと見れた、本当のいちごの笑顔は何よりも綺麗だと和は思った。

終わり。



最終更新:2010年11月03日 21:15