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「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
「よ、さわちゃん」
「やっほー、りっちゃん、澪ちゃん」
私は悲鳴を上げて座り込み、震えていた身体をゆらゆら起こして前を見た。
確かにそこには、律と、さわ子先生がいた。
「って、さわちゃん!?」
普通に挨拶していたと思った律が、今更驚いたように仰け反った。
さわ子先生が「何よー」と唇を尖らす。
「っていうか何でさわちゃんがここに!?」
「何でって、それはこっちの台詞よ。ここ、私の地元なのよ、いるのは当たり前でしょ?」
「いや、まあ別にそれはいいんだけどさ、……なんでこんな森の中を……」
律はそう言って、さわ子先生の全身を見て、そして再び仰け反った。
さわ子先生の手には狸が握られていた。
「あぁ、これ?美味しいわよ?良かったら家で食べてく?」
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気が付くと、さわ子先生のいつもの車に乗せられ揺られていた。
どうやらあの狸のせいで気を失ってしまっていたらしい。前の席で、さわ子先生と
律が談笑していた。ふと後ろを見ると、狸の死骸が乗せられていて、私は慌てて視線を
逸らした。
「お、澪、気付いたか?」
律が座席から身を乗り出して私を振り向いた。
「もうすぐ家に着くわよ澪ちゃん」
「あ、はい」
頷くと、本当にすぐに車は止まった。「降りていいわよ」と言われて車を降りると、
意外と大きな日本家屋が私と律の前にどっしりと構えていた。
「さわちゃんって結構いい家の育ちなんだな……」
「何よー、何か文句ある?」
「いや、別に」
さわ子先生がどんどんと家に入っていく。私たちもそれに着いて行きながら、
珍しげに辺りを見回しているとさわ子先生が玄関を開けながらにこやかに言った。
「今日は両親でかけているのよ、それであんたたちに頼みごとが……」
「お断りします」
言われる前に律がきっぱりと言い放って、踵を返そうとした。するとさわ子先生は
「じょ、冗談よ冗談!」と引き攣った笑顔で言って「せっかくだから寄って行きなさいよ、
りっちゃんには話さなきゃいけないこともあるし」と律と私の手を引っ張った。
さわ子先生が律に話?
それで私は、今まで忘れていた大学の話を思い出した。
「あ、うん」
律はあまり私に聞かせたくないのか、面倒臭そうにそう返事をした。
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さわ子先生の手料理をご馳走してもらい、(さっきの狸を使った料理は二人で
丁寧に遠慮した)落ち着いているとさわ子先生が「さて」とわざとらしく咳払いを
した。
「ほんとは次の日学校で聞きたかったんだけどね」
「ま、ついでだって思えば良いじゃん?」
「アンタはねえ……。まあそうね、他の子の進路相談もあるし、ちょうど良いかもね。
それでりっちゃん、大学の件、大丈夫そう?」
「うん、大丈夫。準備は万端だぜい!」
私は何となく、聞かない振りをして二人の話に耳を傾けた。
さわ子先生の言い方、まるで大学受験はもうすぐみたいな言い方だ。
それとも律の受ける大学というのは普通のところより早いのかな。
「卒業式はちゃんと来れそう?」
「うん、多分な」
「そう、それで澪ちゃんにはちゃんと言ったの?」
突然私の名前が出てきて、私は「へ?」と俯いていた顔を上げた。
さわ子先生が、私と律を交互に見る。
「……ちゃんと話しなさいね」
「わかってるよ」
律は頷いた。
だけどその後、律はまた話を違う方向に持っていった。さわ子先生の昔話とか、
そんなどうでもいいことばかりが私の耳に入ってくる。
「りっちゃん、そろそろ行かなきゃいけないんじゃないの?」
いつもよりも、まるで何かの穴を埋めるように話をする律の言葉を止めたのは、
意外にもさわ子先生だった。そろそろ帰らないか、って私が口にする前に。
律はあぁ、うん、と頷くと、立ち上がった。私も律と一緒に立ち上がる。
「それじゃりっちゃん、頑張ってね。澪ちゃん、ここのことは言語道断よ。それから
駅はこのすぐ近くにあるから」
「あ、はい」
「じゃーな、さわちゃん。ありがと」
律が玄関を出て行く。私は一旦振り向くとさわ子先生に「ありがとうございました」と
頭を下げ、律を追いかけた。
空はそろそろ暗くなってきていて、丁度いい時間帯。私が駅の方向へと歩き出そうとすると、
律が「澪」と私の名前を呼んで手を引っ張った。強い力で引っ張られ、手を振りきろうとしても
振り切れなかった。振り切りたくなかった。何となく、離してしまったらだめな気がした。
だから私はそのまま、駅とは反対方向の道を歩き出す。
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律に引っ張られる形で辿り着いた先は、さっきと同じ海岸だった。
けどさっきと違うのは、夕日が海に沈んでいくところで青じゃなくオレンジ色に
輝いているところ。
暫くの間、私たちはその光景に目を奪われて何も言えなかった。
夕日が沈んで、辺りに闇が下りてきたとき、律はやっと口を開いた。
「ほんとはさ、期待してた」
突然、律は言って苦笑を浮かべた。私は何を言われているのかわからずに、
ただ律の次の言葉を待った。
「澪が止めてくれるんじゃないかって」
「……大学のこと?」
「そう」
「止めないよ」
私は言った。
だって、止めたって律が私と同じ大学に行くわけじゃないし、何よりも律が自分で
決めた進路だ。私が口出しする権利も無いし、律だってそれくらいの覚悟じゃないはず
だから。
「そっか」
律はそう言うと、少しだけ寂しげに笑った。
何でそんな風に笑うんだよバカ律。どうしてか泣きそうになった。
「今日な、こうやって澪を誘ったのはさ、最後に澪と二人でいたかったから。
別に澪ん家でも私ん家でも良かったんだけどな」
「最後、って?」
「私、推薦で大学受けることにして、その推薦入試がもうすぐなんだよ。それで、
学校からも許可貰って少し早いかも知んないけど向こうに行くことにした」
何だよ、それ。
私はただ驚いて、どうすればいいかわからなくて、律を見詰めた。
先に目を逸らしたのは私だった。
「……そう、なんだ」
律が遠くへ行ってしまう。しかも突然。私の前から居なくなってしまう。
ほんとはわかってたはずだ、いつかこうなることなんて。
けどまだもう少し先だって思ってた。なのに。
今日の律の行動や言葉を次々と思い出す。
律は無鉄砲に見えるけど今日みたいに無茶苦茶に行動する奴じゃない。
それにあの大きな荷物。もしかしたら今日、そのまま直行するつもりなのかも知れない。
少しだけ変だって思ってた。けど大して気にしなかった。
こんなことならもっともっとちゃんと、律と一緒の時間を過ごしたかった。
律はずるいよ。
何で今まで何にも言わずに黙ってたんだよ。
ほんとはわかってたんだろ?こうしないと私が止めちゃうことを。
私が止めたら律は止まっちゃうことを。
「まあけど、来年の二月くらいにはこっち戻ってくるし、ちゃんと卒業式も出るし」
律の言葉が突然、止まった。
暗闇に染まる海に、律の声が吸い込まれていく。
「……なのに……、何でこんなに寂しいんだろうな」
震える声で、律は言った。
私は泣いちゃだめだって思った。泣いたら律が見えなくなる。律の声が聞こえなくなる。
そんなのやだ。
「昨日からずっと、さ。おかしいんだよ、私……。何するにも感傷的になっちゃって、さ。
それにもっと早く、澪に大学のこと、言いたかったんだけど……、言えなくて。
あ、唯とかムギには、さ、ちゃんと言ったんだけど……あぁ、もう、無茶苦茶だな、今の私」
律が笑った。涙を拭おうともせずに、律は笑いながら「ごめんな、澪」と謝った。
「ほんとはちゃんと、言いたかったし、……笑って、別れたかったのに、だめだなあ、
私……、もう、どうすればいいかわかんねーや……」
「バカ律」
もう、耐え切れなかった。私も泣いていた。
本当に、どうしてこんなに寂しいんだろう。どうしてこんなに悲しいんだろう。
永遠の別れじゃないってわかってるのに。またすぐに会えるってわかってるのに。
ずっと会えないわけじゃない。
それなのにどうして。
律が「何で澪が泣いてるんだよ」って泣きながら笑った。私も「うるさい」と笑いながら
泣いた。
「なあ、律。私たち、離れても――」
私は訊ねようとした。けど怖くて聞けなかった。律は何も言わなかった。
私たちはただ、身を寄せ合うようにして静かに泣いていた。
.
別れの儀式はそれだけだった。
それだけで充分だった。
それ以上律といると、私はきっと律にすがってしまったから。
だからそれでよかった。
律と二人、暗い道を歩く。
暗闇で前が見えないのに、不思議と怖いとは感じなかった。
昔のことを思い出す。
そうだ、私はあの時もこうして二人で歩いていた。親が迎えに来るまでの間、
私たちはずっと手を繋いでいた。そして今も。
駅が近付いてくる。
お互い手を握る力が強くなる。
私たちは、別々の電車に乗ることにした。どっちが先に乗るかで揉め、結局律が
先に乗ることになった。
電車が近付いてくる。
絡まった指が解けてゆく。
私はまだもう少し、律の温かさを感じていたくて手を伸ばした。
電車に乗り込んだ律が振り返った。
伸ばした手は冷たいドアに阻まれ、律に届かなかった。
電車が走り出す。私は叫んだ。力いっぱい。さっき訊ねられなかったことを。
「律、私たち離れても、親友だからな!」
私の声は、夜の闇に消えていった。
返事は返ってこなかった。
――――― ――
あの日から、私と律は暫く連絡を取り合わなかった。
律がいない生活は、私にとっては窮屈で、色褪せていた。だけど軽音部の
皆やクラスメートがいてくれたから、私はいつもどおり笑顔でいられた。
私も律も、別々の大学に無事入学した。
大学に合格したことがわかった日、私は律が遠くへ行ってから始めてメールを送った。
桜の絵文字が一つだけ書かれたメール。ほかには何も書かなかった。
律から返事は返ってこなかった。けど、それでよかった。
そして今。
私と律は一緒に通いなれた通学路を歩いている。
二月に一旦戻ってくると言っていたくせに、律が私の前に現れたのは結局今日。
向こうで何をしていたのかは知らないけど、私は何も聞かなかった。律も何も言わなかった。
今日は卒業式の日。
卒業式も、そして軽音部の引継ぎも無事済ませた。
私たちはずっとそうしてきたように、帰り道を二人で辿っていた。
何か言わなきゃいけない。わかってるけど言葉が出てこない。
ずっと伝えなきゃと思っていた想いが沢山あるのに、いざ律を前にしてみると
どこかへ飛んでいってしまう。
私たちは無言のまま、ただ足を動かし続けた。
もうすぐで、律は行ってしまう。今度こそ、遠いところへ。
多分、会いたいと思ってもすぐには会えない、そんなところへ。
「そういえば」
律の足が突然止まった。
「なに?」
私も足を止めて、律と向き合う。
律は真剣な顔をして、言った。
「澪、今日のパンツは何色?」
突然、今までぐだぐだと考えていたことがどうでもよくなった。
律はいつもどおりの律で、きっとこの先も何も変わらない。
「うるさい」
私が律の頭に拳骨を落としてやると、律は「最後なのに澪が怒ったー!」と
大袈裟に泣き真似しながらも、どこか嬉しそうな表情をしていた。
そうだ。私たちはいつもどおりでいい。
いつもどおり、別れ道で「じゃあな」「またな」でいい。
そうじゃないと、もっともっと辛くなる。
再び歩き出しながら、律は言った。
「なあ澪」
「ん?」
「ずっと思ってたんだけど、澪、私の行く大学のこと、知ってたよね?」
「知らないよ」
「え?」
「調べてないし、興味も無い。何の学部があるのかとか、全然わかんない」
私は答えた。
本当はどこにあるのかとか調べるとよけいに律との距離が開きそう怖かったし、
興味が無いわけじゃないけど、私はそう言った。
「律が何になりたいのかとかも、何にもわかんない。だからさ、律。今度帰ってきた
ときに私に教えて、何になったのか」
律は少しだけ驚いた顔をすると、いつもの笑顔で「当たり前だろ」と頷いた。
別れ道が近付いてくる。
自然に私たちの足が遅くなる。
「いつ発つんだっけ」
「明日」
「見送りに行ってほしい?」
「いいよ別に」
「じゃあここで」
「うん、ここで」
私たちは立ち止まった。あの夜、悲しい涙や寂しい涙は全部流した。
だから私はもう、絶対に泣かない。
律は私に手を振ると、背を向けた。私はその背中に声を掛けた。あの日と同じ言葉を。
「なあ律」
私たち、離れても、親友だからな、と。
律は一旦立ち止まると、振り向くことはなく、ただ「たぶん」と答えた。
私は満足した。
それでいい。先のことなんてわからないのだから。容易く「当たり前だろ」なんて
答えられるより、「たぶん」のほうがずっといい。
律はやっぱり振り向くことはなく、私に手を振って「じゃあな」って言った。
私は「またな」って返した。
私たちはきっと、離れたって何も変わりはしないだろう。
たぶん、ずっと――
終わり。
最終更新:2010年11月06日 23:34