目を閉じながら、私は密かにある決心をしていた。
寝ぼけ眼で後から後悔するかもしれない。
でも今しかない。
私は目を見開いて、澪に背を向けたまま独り言を言い始めた。
律「みお、聞いてるか~?」
返事はなかった。
律「よし。じゃ、よ~く聞けよ。」
今の私はとてもズルい。
失恋してすぐの相手に投げ掛けるような言葉を言う気など、更々無いのだ。
それも眠っている時に言うなんて………。
だが、私は言葉を続けた。
律「みお、みお………あのなあ………」
いざとなると、その先の言葉が出ない。
思えば私は、澪に何て事を課したのだろう。
いざ自分の段になって分かる。
これは、一世一代の大勝負だ。
眠っている相手にすら、こんな状態なんだから、澪の勇気たるや………。
私は澪に謝りたくなった。
だから、振り返って、眠っている澪の顔に自分の顔を近付けた。
そして言う。
澪が起きてしまわないよう、小さな声で………。
律「みお、ごめんな………本当にごめん」
言ったが最後、また私の頬を幾筋もの涙が伝った。
何度も目頭を手で拭うが、溢れる涙はとどまる事を知らず、
結局私は、今の自分の気持ちを素直に受け入れるしかなかった。
そうさ、『謝った』『気持ちの整理は付いた』、ならもう行動だ。
律「みぉ、起きてるか~?」
鼻声で開き直った私が言う。
返事は、また返って来なかった。
律「よぉし………」
固い決意のもと、私は澪の耳に自分の口元を近付ける。
そして、今度も澪が起きてしまわないよう、そっと囁き掛けようとした。
律「みぉ………」
伝えたい言葉が引っかかる。
勇気を出せ。
澪は、もっと頑張ったんだ!!
唇を噛み締めて、私は伝える。
小学生から、これまで押し込めて来た気持ちを。
ずっとずっと、仕舞い続けて来た想いを………。
律「みお………だいすきだよ………」
澪は眠っていた。
私は、澪の耳に軽く口づけすると、人知れず想いを伝えたのだった………。
台風一過、月曜の朝は雲1つなく晴れやかだった。
私は澪に学校を休むように勧めたが、澪は聞かなかった。
それもそのはず、澪の顔も、まこと晴れやかだったのだ。
泣きじゃくって、全てを流し落とせたのだろうか。
だとしたら、うらやましいと言うか………。
一度自宅に戻る澪を見送り、私は朝食を摂る。
学校への身支度を済ませると、澪の家に向かった。
律「澪」
澪「おぉ、律。行こうか。」
いつもの澪だ。
ロングストレートの黒髪に、少しお高く止まったように見せてしまうつり目、
私の知っている、私の大好きな『
秋山澪』だった………。
何喰わぬ顔で、ムギも学校に来ていた。
いつものあの笑顔が、今日はやけに恨めしい。
はやる気持ちを抑えて、私はムギが一人になるのを待つ。
そして学校で私が取ったムギに対する行動は、
もちろん『体育館裏に連れ込む』などではなく、
こないだと同じように、早めに部室に来てもらう事だった。
それが決まってからと言うもの、授業なんか頭に入らない。
唯達のおちゃらけすら軽く流せない私がいた。
そうして、ムギへの怒りとも辛みとも分からない情念を募らせていると、
あっという間に放課後の予鈴が鳴り響いた。
放課後、日直の仕事を唯に押し付けて、
私は真っ先に教室を出て、いつの間にか居なくなっていたムギを追う。
廊下を走って、階段の取っ手の飾りの亀を意味も無く叩き、
さわちゃんに叱られる。
それでも止まる事なく、私は部室への階段を駆け上がった。
『ムギは、ここで、そこで、何を思っていたのか?』
『どうして澪をフッたのか?』
やっと聞けるはずの答えを目の前にして、私の足が止まるはずがない。
階段を駆け上がり、息を切らせて部室の扉の前に着いた時、
今日もあの旋律が流れて来た………。
律「ムギ!!」
今度は曲中だろうが遠慮しない。
私は豪快に扉を開けると、先週の金曜日と同じように
『ベートベン』の『テンペスト』を奏でるムギに駆け寄った。
しかしムギは素知らぬ顔で弾き続ける。
益々腹が立った私は、口角泡を飛ばす勢いで、ムギに怒鳴りつけた。
律「ムギ!!何でっ、何でなんだよ!!?」
鍵盤越しにムギの顔に自分の顔を近付ける。
まだムギは私に目をくれない。
続けて怒鳴った。
律「澪な!!泣いてたんだぞ!!!!」
これまで親友だったはずの相手に、なぜこんな罵声を浴びせられるんだろう。
自分でも理解出来ないくらいの二律背反な迷いが生じる。
しかし、それとは裏腹に、私はムギの演奏する手を掴もうとした。
そして、その時だった。
これまで流暢に旋律を奏でていたムギの演奏が、突如乱れ始めた。
乱れ始めた演奏は、立て直される事のないまま、
私が手を掴むまでもなく、ムギは演奏の手を止めた。
これでやっと話が出来る。
私は無造作に、うつむいたままのムギの右手を掴むと、こう言った。
………いや、言うはずだった。
というのは、私が右手を掴んだ時、鍵盤の上に零れ落ちる涙を見付けたからだ。
律「ムギ………?」
思えばムギの涙なんて初めて見たかもしれない。
私は途端に狼狽して、掴んでいたはずのムギの右手から手を離した。
私の怒気が薄れるのを、感じ取ったのだろうか。
そこで、やっとムギが私に話し掛けてくれた。
紬「私だって私だって………」
肩を小刻みに震わせて、泣いている事は隠さないムギは、
拳を強く握りしめて、顔を上げた。
そして放たれる、私の胸を深くえぐる言葉………。
紬「澪ちゃんが好きよ!!!!」
その言葉だけに全てのエネルギーを蓄積したのだろうか、
そう言い放ったムギは、両腕で鍵盤の不協和音を奏でて、
鍵盤の上で突っ伏して泣き崩れた。
もう、誰が見ても分かる号泣だった。
そこまで追い詰めて、私は、はたと気付く。
そうだ、私はムギの事をちっとも考えていなかった。
これ以上ない程ムギを悲しませて、私はやっとその思考にまで辿り着いたのだった。
ムギは強い。
突っ伏したままでこそ居たが、ここが部室という事を理解しているからか、
すぐに涙を止めた。
涙を止めた訳だって、さっき気付いた理由と同じ。
というより、私自身が澪に言った言葉通りなのだ。
『ムギって基本的に私達の事好きだろ?』
そう、ムギは『皆』が好きなのだ。
それは誰か1人に与えられる愛情ではない。
この鍵盤の上で泣き崩れた『
琴吹紬』は、そういう女性なのだ。
律「ムギ………ごめん」
私は澪の時と同じで、ムギに素直に頭を下げた。
ムギもまた、1人の人間の求愛を受けて、苦しんでこの場に居たのだ。
頭を下げた私に、ムギは顔を上げてくれた。
顔を上げたムギは、目を腫らしていても、いつもの笑顔で、私に微笑みかけてくれた。
そして「もう少しで皆来ちゃうね………。」と前置きして
ムギは、昨日の事を話してくれた。
お昼のそば屋の事、水族館での事、ゲーセンでの事
最後にライブの話をしてくれた所で、ムギはまた涙を堪えているようだった。
私は「ありがとう。」とだけ言って、もうそれ以上は聞かなかった。
多分これ以上聞いたら、私も涙を流してしまうかもしれないから………。
すると、まるで計ったかのように、唯達の能天気な話し声が聞こえて来た。
まあ、聞かれてはいないだろう。
私は、もう一度ムギに「ありがとう。」と言うと、ドラムセットに歩み寄った。
澪とムギの2人は、バンドの演奏で、昨日の一件の影響を微塵も感じさせず、
それどころか、逆に練習したつもりの私が、梓にダメ出しを喰らう始末だった。
唯が「りっちゃん、今日はお腹空いてるね?」なんて的外れな事を言って、
教科書通りのティータイムになると、もう練習なんてそっちのけで、
結局帰るまで、いつもの放課後『ティータイム』だった。
もっとも、澪とムギが会話を交わす場面はなかったが………。
とはいえ、私だって斜に構えてしまうんだ。
今まで通りの『ティータイム』に戻るには、それなりに時間が掛かるだろう。
そうして、放課後の放課後を迎えると、私達は揃って家路に就く。
いつもの信号機の前で、私達はお互い別れを告げて、「また明日。」と手を振る。
私と、帰る方向が一緒の澪は、2人揃って皆を見送る。
夕日で長くなった皆の影が消えかけた時、
私は澪に、今日のムギとあった事を話そうと思い立った。
今度は誰も泣かせないように、と胸に誓いながら………。
「澪、ちょっといいか?」で、私は澪を近くの公園まで引っ張った。
夕日が落ち掛けるこの時間、子供達も手を振り合って『今日のお別れ』をしている。
次第に人もまばらになり、私は誰も居ない公園のベンチに腰掛けるよう澪を促した。
律「何か飲む?」
澪「まだ飲むのか?」
良かった、いつもの澪の調子だ。
律「そういや、もう紅茶腹だったな。」
澪「だろ?」
私も澪の隣りに腰掛けると、お互い笑い合った。
昨日出来なかった事が、まるで遠い昔のように懐かしい。
澪の笑顔が今の私を一番笑顔にしてくれる。
『ああ、やっぱり私は澪が大好きなんだな。』
たったこれだけなのに、そう思えるのに十分過ぎるやり取りだった。
だからか、この空気を壊してしまうかもしれないのが、怖かった。
それでも、恐る恐る、私はムギの事を口にしようとした。
律「澪。きょ、今日さ………」
ここに来てもおじげづいた私は、言葉に詰まってどもってしまう。
だけど、私のどもり方を見て、澪が私の言わん事に気付く。
澪の表情が少し強張ったのが分かった。
ただ、私は、なおも頑張って話を続けようとする。
しかし、それを遮るように澪が言った。
澪「律。何も言うな」
語気は強いが、澪は笑顔だった。
そう、澪も私と同じ結論まで至っていたのだ。
すると、澪がもう一度私を呼んだ。
澪「律」
律「なんだ?」
ひと呼吸置いて、澪が言った。
私の息の根を止めるような事を………。
澪「人が寝てるのを確認するのは、もっと違う方法がいいぞ」
律「えっ!!?」
私は比喩でも何でもなく、本当に心臓が止まりそうだった。
そんな私を尻目に、澪が続ける。
澪「………でも、律の本音が聞けて嬉しかった。なぁ?律」
律「ま、待ってくれ、あれはその………」
澪「冗談とでも言うのか?」
律「いや、その………」
私は耳まで真っ赤になった顔を伏せた。
澪「りぃつぅぅぅ。そんな冗談は許さないぞ」
律「ご、ごめんなさい」
澪「私だって、勇気出して言ったんだ。だから律もな?」
律「え、ええ!!?」
飛び上がる程驚いた私は、澪の期待の眼差しを見ると、
「昨日言ったし。」なんて軽口も叩けなかった。
澪「ほら、律」
澪が私の手を取り、向かい合うよう促す。
私は、されるがまま澪と向かい合った。
澪「うん、いいぞ、律」
律「いいぞって………」
「物事には順番があるだろ。」って言いたくなったが、
『夕暮れの誰も居ない公園』
『向かい合う2人』
そう、舞台は仕上がっているのだった。
お互いの呼吸すら分かる程近付いて、私は澪の目を見て固まる。
すると、澪が先に焦れて
澪「は、早く言ってくれないと私が恥ずかしいじゃないか!!」
と言った。
律「う、うるせー!!」
心の準備がまだなんだよ、こっちは………。
でも、もう後には引けないか。
私は、意を決して言う。
律「澪。あ、あの………」
知らぬ内に私は、澪の両手を強く握り締めていた。
汗ばんだ私の両手が、澪の手を湿らせる。
………どれだけ私は緊張してるんだよ。
澪「うん………」
来る答えが分かっているのに、お姫様のように目を輝かせる澪。
もう言え、言っちまえ!!
律「あ………だ」
澪「うん」
律「だ、だ………」
澪「うんっ」
律「だいすきだ!!!!!!!」
澪「うん!!!!」
大きく頷いた澪が、一生分とも思える笑顔をくれる。
そして、力が抜け切った私は、その余韻に浸る間もなく、
それがさも当然のように、自然と澪の顔に自分の顔を近付けていた。
察したのか、澪が目を閉じる………。
暮れ行く夕日の中、私達は唇を重ねた。
何にも負けない、私達が描く最上の一枚絵………。
お互いの柔らかい唇の感触が離れると、
照れ隠しにうつむいた澪が、上目遣いで言った。
澪「律、柔らかいのな」
律「み、澪だって」
澪「律………」
もう一度、今度は澪から口付けて来る。
私が受け入れる形で、一枚絵の再現。
律「澪、大好きだよ」
唇を離して私が囁く。
大きく瞬きをした澪が、そっと囁き返してくれた。
澪「わたしもだ、律」
おわり
最終更新:2010年11月07日 00:39