数分後
梓「お、お待たせしました~…」
うん、多分何とかなった。香りは良いし。
紬「ふふ、ありがとう。」
ムギ先輩はいつもの笑顔で微笑みかける。
この微笑の影で、この人はどんな生活をしているんだろうな…
…て、よく考えればこれって話を聞く絶好のチャンス?
今こそ聞くべきときという神の啓示か何か?
…澪先輩いないのに。私だけで?
うー、ちょっとそれは難度高くないですか神様?
梓「む、ムギ先輩!」
紬「!…な、何かしら。」
でも、渋る私の心とは裏腹に言葉は勝手に飛び出してくる。
腹をくくるしかない。聞くんだ今こそ。
…いや、何でこんな壮大なプロジェクトみたいになってんだろう?
梓「ムギ先輩のこと、聞いてもいいですか?」
ストレートな言葉。拒否されるかもしれない。はぐらかされるかもしれない。
でも、自分の気持ちを乗せて真っ直ぐに問いかける。私にはそれしか出来ない。
紬「ええ、構わないわよ。」
梓「あの…お家のこととか、中学時代のこととか。」
話の核心部分に迫る。誰も知らない。先輩のプライベートや過去のこと。
紬「……」
梓「……」
一瞬の間。
紬「…あ、あの」
梓「……」
紬「あの、そんなに改まらなくても…何でもいいわよ?」
…随分あっさりした返事。
冷静に考えると、そもそも先輩だって隠してたとかじゃなくて話すタイミングが
無かっただけのことかも知れないのに。変に込み入った事情を想像していた自分が恥ずかしくなる。
梓「す、すいません…なんかかしこまっちゃって。」
紬「ふふ、いいわよ。気にしてないわ。」
ムギ先輩はいつもの笑顔で微笑みかける。
紬「梓ちゃんが聞いてくれるなんて嬉しいわ。何でも聞いて♪」
こうして、私とムギ先輩の会話が始まった。
梓「先輩って、その…お金持ちなんですよね?」
紬「そうね。子どもの頃とかは実感無かったけど。自分で言うのもなんだけど、かなりのね。」
梓「ああ、何となくわかります。別荘とか凄かったですもんね…」
紬「ふふ。」
梓「でも、こうして接している分にはあまり実感ないですね。」
紬「そう? ふふ、ありがとう。」
梓「そう言えば中学校とかはどうだったんですか?」
紬「一応、幼稚園から私立の一環校に通っていたわ。」
ここで聞いた学校の名前は、大学まである有名な私立だった。
梓「すごいですね…でも、何で桜ヶ丘に?」
紬「うーん、そうね…ちょっとしたわがまま、かしら。」
梓「わがまま…ですか?」
紬「そう、わがまま。」
紬「早い話、空気が合わなかったの。」
梓「…」
紬「周りの友達も結構大きい家に住んでたりしてたけど、私だけは別格扱いだった。」
梓「別格ですか。」
紬「うん。最初はよくわからなかったけど、何となく気分は良かったわね。
でも、通っているうちに気付いた。彼らの目線、特に親御さんや先生
たちの視線ね。それが、私自身ではなく琴吹の名を見ていたことに。」
梓「お友達も、ですか?」
紬「全員、てわけじゃないけどね。ちゃんと私自身を見てくれた友達も沢山いたし
中学時代が楽しくなかったわけじゃないの。でも、どうしても耐え切れなくなってね…」
梓「それで…桜ヶ丘を受けたわけなんですね?」
紬「そう。大変だったわ。初めて両親と言い争いになったもの。でも、お父様は
最終的に私のわがままを聞いてくれた。」
梓「良かったです。そのお陰で、今先輩と一緒に音楽が出来てますからね。」
紬「ふふ、ありがとう。上手いこと言うのね、梓ちゃん。」
梓「…う。」
紬「?…どうしたの?」
梓「あ、いえ。何でも。」
紬「……」
梓「……」
紬「……淹れ直すわよ?」
梓「……すいません。」
紬「ふふ、任せて。美味しいの淹れるから。」
梓「(慣れないことはするもんじゃないわ。味が薄くて不味い……)」
紬「はい、おまちどおさま」
梓「うう、ありがとうございます。」
紬「ふふ、今度機会があればちゃんと教えるわ。」
梓「すいません…私、いつも先輩にお茶を淹れさせてしまってますね。なんか申し訳ないです。」
紬「あら、良いのよ。私が好きでやってるんだもの。」
梓「すいません…そういえば、先輩は普段からご自分でお茶を淹れたりするんですか?」
紬「ええ。たまにだけどね。」
梓「たまに…ということは、あれですか?メイドさんが持ってきてくれたりとか。」
紬「そうね。頼めばやってくれるわ。」
梓「うわあ…なんか別の世界だ。ちょっと憧れます。」
紬「うーん、でもそんなに良いものでもないわよ。周りがやってくれるばっかで
自分はやりたくても何も出来ないんだもの。ほら、私ってやりたがりだから。」
梓「そうなんですか…多分、私だったら周りに任せっきりだろうなあ。」
紬「ふふ。」
梓「あ、でも。やっぱり私後輩ですし、先輩にこういうのやらせておくの駄目だと思って…
今更なんですけどね……」
紬「気にしないで、ね。先輩の顔を立てると思って。」
梓「は、はあ……お言葉に甘えていいんでしょうか?」
紬「どんとこいです!」
梓「先輩は、なんで軽音部に入ったんですか?」
紬「楽しそうだったから。」
梓「え、それだけですか?」
紬「ええ。最初は合唱部かなって思ってたんだけど。ここの雰囲気に惹かれてね。」
梓「あ、私先輩のこと合唱部っぽいって思ってました。」
紬「そう?」
梓「はい。あ、ただのイメージですよ。」
紬「ふふ。でも、軽音部に入って良かったわ。皆といるの凄く楽しいし。それに…」
梓「…?」
紬「梓ちゃんにも出会えたしね♪」
梓「う、上手いこと言いますね?」
紬「さっきのお返しよ。私、さっきそう言って貰えて嬉しかったから♪」
その後も、私とムギ先輩は話し続けた。家での生活のこと、休みの日のこと、音楽の
こと。先輩は語ることに全くの躊躇も無く、時には身振り手振りを交えて面白おかしく
話をしてくれた。楽しかった。でも、私の中には複雑な思いが渦巻く。話を聞けば聞く
ほど、私の想像がいかに過ぎたものであったかを思い知らされたから。
ムギ先輩はムギ先輩。唯先輩の言っていたこと。
本当にその通りだった。今、私に見えている姿が、多分すべてだったんだと。
軽音部にいる理由。そんなことを、あまりにも私は深く考えすぎていたんだ。
さわ子「はーい、皆頑張ってる!?」
不意に開くドア。現われたのは、顧問の
山中さわ子先生。
……いや、正直今日はちょっと邪魔なんですけど、先生。
さわ子「あら、今日は二人だけ?」
紬「はい。皆、それぞれで勉強するらしくて。」
さわ子「へえ…ムギちゃんもきっちり勉強しなさいね。模試は良かったけど、油断は禁物よ。」
紬「はい。ありがとうございます。」
さわ子「というわけで、私レモンティーお願いね~。」
紬「は~い。」
一瞬教師らしい姿を見せたかと思えば、いきなりお茶を注文する先生。
いや、矛盾してますよ。勉強の心配しといて、お茶を注文って…え、何ですかこの人?
さわ子「さーて…」
先生がイスに腰掛ける。先輩は、お茶を淹れに行った。
さわ子「それにしても、珍しい組み合わせね。何してたの?」
梓「何って…ちょっとお話してただけですよ。」
さわ子「ふーん…ま、いいけどね。」
梓「あ、そういえば先生ってムギ先輩のご自宅に行ったことありますよね?」
さわ子「ええ、一度だけね。」
梓「…どんな感じでした。」
さわ子「どうって…凄かったわよ。」
梓「凄かった、ですか。」
さわ子「うん。超凄かった。」
梓「…家の中には入られたんですか?」
さわ子「ちょっとした応接室にね。これまた凄かった。メイドさんの実物、初めて見たわ。」
梓「は、はあ…そうですか。」
さわ子「何? そんなに気になるのなら遊びに行けばいいじゃない。」
梓「あ、いえ…別にそんな意味じゃ。」
さわ子「ふーん……」
紬「お待たせしました~。」
ムギ先輩が先生にお茶を持ってくる。
さわ子「ありがとう。」
紬「ふふ、どうぞ。」
先生が来たお陰で、先ほどまでの流れは完全に止まった。
ここから先はちょっとした世間話が続くだけなのでちょっと割愛。
気が付けば日は沈み始めていた。
さわ子「あら、そろそろ下校時間ね。あなたたち、そろそろ帰りなさい。」
梓「あ、もうそんな時間ですか。」
紬「わかりました、じゃあ私食器洗ってきます。」
ムギ先輩が出払い、先生と二人になる。
チャンスだった。私がもう一つ引っかかっていること。それを聞ける。
梓「あ、あの。先生。」
さわ子「ん?」
梓「あの…先生は、良家のお嬢様であるムギ先輩にお茶を淹れさせることに抵抗とか…」
言っては悪いかも知れけど、さわ子先生は結構、見かけや体面というものを気にする人だ。
あまりに雑用っぽく扱って、先輩の不興を買うということを怖れていないのだろうか。先輩の
家の力を怖れていないのだろうか。私は不躾であることは承知していたが、聞かずにはいられなかった。
さわ子「梓ちゃん…あなたが私のことをどう思っているのか、何となくわかったわ。」
睨まれた! 思いっきり睨まれた!!
つーか、完全に私の思考がバレバレじゃないの。私、先生のこと舐めすぎてた?
さわ子「ま、いいわ…今度二人っきりになったときは覚悟しておきなさいね。」
すいませんごめんなさい調子乗ったかもしれません勘弁して下さい。
さわ子「大体ね…ムギちゃんは家柄どうこうの前に私の生徒なのよ。」
梓「は、はあ…」
さわ子「それを家に遠慮するとか、私のガラじゃないし。何より面倒だわ。」
梓「はは…(先生らしい)」
さわ子「それに、単純な話。ムギちゃんはムギちゃん。それだけのことじゃない。」
梓「!?」
唯先輩と同じ言葉。さっき私が反芻した言葉。
何も考えていない(あ、失礼なんだろうけど…)唯先輩が言うよりも遥かに、その
言葉は私に重く圧し掛かった。
さわ子「梓ちゃんは、もし家のこととか詳しく知ったら。ムギちゃんへの態度変わる?」
梓「い、いえ! そんなことは、ないと…多分。」
さわ子「ふふ、自信持ちなさい。軽音部の皆はそんな子じゃない。私が保証するわ。」
梓「は、はあ…(先生が保証って当てにならない気が…)」
さわ子「あの子ね、軽音部に入って良かったって。何度も言っていたわ。」
梓「……」
さわ子「最初は、りっちゃんと澪ちゃんになんとなく惹かれただけだって言ってた。
でも、今は違う。皆と音楽をしたい、心の底から楽しみたい。そんな気持ち
だと思うわ。前に家にお邪魔したとき、軽音部のこと凄く楽しそうに話して
たもの。あの笑顔に、少なくとも嘘偽りはなかったわ。」
梓「…そう、なんですか。」
さわ子「そう。だから、難しいこと考えないの。」
梓「はい…」
先生から、初めて先生らしい言葉を聞いたような気がする。
結論は、最初に唯先輩から聞いたものと同じ。でも、それ以上にわかったことがある。
唯先輩と律先輩は、何も考えていないだけだと思っていた。でも、この二人は自分の
目に映る相手の姿こそが正しいとわかっていたんだろう。過去やプライベート云々で
はなく、まさに今接しているムギ先輩の姿。それを信じているからこそ、家のこととか
全く気にならなかったんだ。
澪先輩も、自覚はないんだろうけど多分そうなんだ。ただ、澪先輩は一度気になって
しまうと必要以上に気にしてしまうタイプ。今まで気にならなかったようなことを私
が質問してしまったことで、先輩は自信を失くしてしまった。私が吹き込んでしまった
ようなもの…澪先輩には、凄く悪いことをしてしまった気分だ。
そして、私。思えば、学園祭の時もそうだった。「ライブのこと考えてくれるのかな…」と
先輩方を信じていなかったフシがある。
結局、私はまだ先輩たちとの間に壁を作っていただけなのかもしれない。
紬「終わりました~。」
さわ子「ご苦労様。じゃ、鍵閉めるから荷物まとめなさい。」
紬「は~い。」
梓「……」
何故か、先輩の顔を真っ直ぐ見れない。改めて感じる自己嫌悪。それが今、私の心
の壁を更に高くしている。これじゃいけないのに……
紬「梓ちゃん。帰ろうか。」
梓「は、はい…」
私たちは学校を後にした。
帰り道
紬「はー…すっかり寒くなったわね。」
梓「そうですね…」
紬「ごめんね梓ちゃん。今日練習できなくて。」
梓「あ、いえ。いいですよ。いつものことですし……」
紬「ごめんね…」
ちょっとした沈黙。
梓「あ、あの。ムギ先輩っ!」
紬「?…何かしら。」
梓「あの…また、いつでも部室来て下さい。私も…一人じゃ寂しいので。」
紬「あら、そう? ふふ、じゃあお言葉に甘えようかしら。」
梓「はい!お待ちしてます!」
紬「ふふ、ありがとう。」
梓「……」
紬「……」
梓「そうだ、先輩。」
紬「?」
梓「ギター…覚えませんか?」
紬「私が? ギターを?」
梓「はい。興味あるみたいですし、もし弾けるようになれば作曲の幅とかも広がるんじゃ
ないかと思うんです。」
紬「そうかしら?」
梓「はい! あの、私。先輩の作る曲好きです。これからも、良い曲を作って欲しいから…」
梓「…」
紬「…これ、からも……」
梓「は、はい!」
紬「……うん、うん! わかった! やってみるわ。」
梓「はい! で、あの良ければ…私が教えますよ?」
紬「梓ちゃんが?」
梓「はい。あの、人に教えるのも勉強になりますし、来年新入生が入ったときのことも考えて。」
紬「そうね…それじゃ、お願いするわ。先生♪」
梓「はい! 厳しくやりますから、覚悟しててくださいね。」
紬「ふふ、お手柔らかに。」
先輩方との付き合いも1年半を超える。私はまだ、先輩たちの輪に入りきれてない。
だから、これから。私は、私自身の壁を取っ払っていかなければいけないんだ。
帰ったら、まずは澪先輩にメールしよう。今日あったことを全部伝えよう。
律先輩には、次に会った時に報告しよう。あの人はあれで、私のことを気に掛けてくれているから。
唯先輩とは…うん、多分いつもどおりだ。今のままでいいと思う。
そして、ムギ先輩。私は今日、先輩のことをたくさん知った。おそらく、他の先輩方以上に。
でも、結局私の中の先輩像は何一つ変わらなかった。素の先輩は、私の知る姿そのままだから。
…これを機に、考えすぎる自分の性格も少し改めようかな。
もう少し直感に頼ってみても良いかもしれないし。うん、頑張ろう。
紬「そうだ、梓ちゃんもキーボード弾いてみない?」
梓「えっ、私がですか?」
紬「ええ。梓ちゃん、音楽に詳しいし。弾けるようになれば色々と幅が広がると思うの。」
梓「さっき私が言ったままの言葉じゃないですか。」
紬「いいじゃない。私、梓ちゃんの作った曲とか聴いてみたいの。」
梓「わ、私が作曲ですか?」
紬「そう! もし良ければ、色々教えるわよ?」
梓「う、う~…」
紬「…荷が重いかしら~?」
梓「そ、そんなことないですっ。やってやるです!」
おしまい
最終更新:2010年11月07日 02:51