「和ちゃん、今日、ライブ見に来てよね」
私は幼馴染に、眼鏡をかけた聡明な彼女に、私より厚い時間を過ごしてきたであろう、
大人びた表情の和ちゃんに言った。
「え、ああ、うん……きっと行くわ。ていうか、何その声、すごく嗄れてるけど」
和ちゃんはぼうっとしたような表情で、気のない返事をするのだった。
最近、いつもこうだ。
部活を始めてから、和ちゃんと過ごす時間は減っていったし、たまに部活が休みの時があっても、
和ちゃんは私に構ってくれない。
けれど、きっと、明日からは元通り。
ギターが上手になった私を見て、彼女は感心して、けれどやはり私には和ちゃんが必要だから、
いつものように、和ちゃんが私を見守って、私が和ちゃんに甘えるような、そんな毎日が流れる。
「じゃあ、私見回りしなきゃいけないから」
和ちゃんは、生徒会と書かれた腕章を指で摘んで、警察のものを模した帽子をかぶり直してから、
私を置いて歩いていった。
各クラスの出し物は、どうにも、別に文化的でないものばかりだった。
多分、和ちゃんはこういうのは嫌いだと思う。
和ちゃんとは違う、子供っぽい人たちの横を通りすぎて、私は講堂へ向かった。
講堂には、軽音楽部の皆がいた。
「流石にライブの時は遅れないんだな」
なんて言って、澪ちゃんはくつくつと笑っていた。
今朝は随分と緊張していたけど、今では少し落ち着いたらしい。
「次は軽音楽部によるバンド演奏です」
アナウンスが入り、私たちはステージへ上がって、演奏を始めた。
ステージから見て、講堂の奥のほう、入り口のそばに、和ちゃんがいた。
私は精一杯ギターをかき鳴らした。カッティングは完璧だった。
コードチェンジのときにノイズが入ることもなかった。
リズムにも完全に合わせた。お客さんも楽しそうにしてくれた。
けれど、和ちゃんは、私のことをたまにしか見ていなかった。
和ちゃんは終始、隣のさわちゃんと楽しそうにお喋りをしていた。
演奏が終わって、澪ちゃんがパンツ丸見せですっ転んでも、私はそのことばかりを考えていた。
軽音楽部のみんなと談笑しながら、私は文化祭の出し物を見て回った。
今は、和ちゃんも見回りをしている時間だ。うろついていれば会えるかもしれない。
「あれ、和じゃないか、あそこにいるの」
りっちゃんが指さしたところに、私が会いたかった和ちゃんがいた。
彼女を追っていくと、私は物陰に隠れて、見たくなかった光景を見た。
人通りのない校舎の裏で、さわちゃんが困ったように笑って、和ちゃんの頭を撫でている。
和ちゃんは、見回り用の帽子を脇に挟んで、顔を赤らめて下を向いている。
「あらあらあらまあまあまあ」
隣でムギちゃんがうっとりとした声を上げる。
りっちゃんと澪ちゃんは、至って常識的な意見を述べた。
「これって、あれだよな」
「ああ、律が言ってるあれだろうな。所謂大人の……あれだ」
そんな中、私の声は、虚しく目の前の壁に吸い込まれていくのだった。
「嘘だよ……嘘だ」
「あのね、嘘って言うか、勢いって言うか……」
私は頭を掻いて、目の前の女の子に言った。
眼鏡をかけた聡明な、ずる賢い、実は肝心なところで子どもっぽい和ちゃんに言った。
「そんなこと言っても、駄目です」
彼女はくすくす笑って、人差し指で眼鏡を上げた。
「だって先生は、私のファーストキスを返してくれないでしょう?」
「そりゃあ、まあ、無理よね、そんなことは」
「だったら」
和ちゃんは脇に挟んでいた警察帽を深くかぶって、目元を隠して言った。
顔はほんのり赤かった。
「せめて私が飽きるまで、付き合ってくれないと駄目です。でないと、」
それから人差し指を私に突きつけて、親指を立てた。
口で小さくバン、と言って、無邪気に笑った。
「逮捕しちゃいますよ、先生。もちろん児ポ法違反で」
私は、観念した、というように両腕を広げて見せて、言った。
「和ちゃん、それは射殺よ」
すると、彼女は何を勘違いしたのか、私の胸に飛び込んできた。
また、バン、と呟いた。
「悩殺出来ました?」
「和ちゃん、悩殺の音はズキューンよ」
そう言うと、和ちゃんは私の胸に顔をうずめて、子供っぽく言った。
ズキューン。
多分、その瞬間、私は教師でいられなくなった。
和ちゃんは生徒でいられなくなった。
和ちゃんの若さは、それに起因する無責任な優越感は、死んでしまったのだ。
「ねえ、和ちゃん、今日は絶対に音楽室に来て」
唯が真剣な表情で、真っ直ぐに私を見つめて言った。
その手は強く私の手首を掴んでいる。まるで、手錠のように。
「えっと、今から行こうか?」
「違うよ、放課後」
「分かったけど、何か用かしら」
私が顔を見ずに、本を読みながら答えると、彼女は言った。
「話があるんだ。とっても、大事な話」
私は思わず顔を上げた。
彼女はもう後ろを向いていて顔は見えなかったが、明らかにその声は怒気を帯びていた。
「そう、大事な話ね……」
私は少し怖いと思いながらも、おとなしく放課後を待つことにした。
放課後になると、唯は私を置いてさっさと音楽室へ行ってしまった。
勝手なものだと思ったが、私もそそくさと音楽室へ向かった。
「お邪魔します……」
恐る恐る扉を開けると、軽音楽部の皆と、さわ子先生が、机を囲んで座っていた。
ムギは残念そうな顔をして、律と澪は狼狽えたような顔をして座っていた。
さわ子先生は無表情に、そして唯は親の敵でも見るような目で、互いに見つめ合っていた。
私に気づくと、先生は笑顔をこちらに向けた。
「あら。ダーリン、お帰りなさい。和風呂にする、和食にする、それとも和……」
茶化したように言う先生を、唯が怒鳴りつけた。
「さわちゃん!」
さわ子先生はビクっとして、肩をすくめた、
何よう、と呟く先生を尻目に、唯は私に厳しい口調で言った。
「和ちゃん、座って」
私は唯に促されるままに、席に着いた。私が席に着くと、開口一番、唯は言った。
「和ちゃん、さわちゃんと付き合っちゃあ駄目だよ」
訳が分からなかった。何を言っているのか分からなかった。
律は頭を抱えて、馬鹿か、と呟き、澪は気まずそうに私から顔を背けた。
ムギは、別にいいじゃないの、と口を尖らせていた。
「唯ちゃん、貴方は馬鹿よ」
先生だけが、唯を真っ直ぐ見つめていた。
「あなたがこれから何を言うつもりかわからないけど、壊れるかもしれないわよ。
あなたと和ちゃんの十数年間が。ただでさえヒビだらけなのに」
唯は、青筋を立てて、怒鳴った。
「直すんだよ。ヒビは、先生なの」
それから、私を見つめて早口に捲くし立てた。
「ねえ、和ちゃん、よく考えてよ、二人共女同士なんだよ」
どこで知ったのか、いつ知ったのか、そんなことはどうでも良かった。
「気持ち悪いよ、はっきり言ってさ」
彼女がどう思おうが、そんなことはどうでも良かった。
「それに、先生と生徒なんだよ、二人は」
ただ単純に、五線譜の中で泳いでいる彼女が、さわ子先生を音符の中に溺れさせようとしているのか、
「学校にバレたらただじゃ済まないんだよ、和ちゃんも先生も」
それとも、今更五線譜から出てきて、私と彼女が過ごした、無意味な、ただの積み重ねに過ぎない、
「先生はクビになっちゃうよ。和ちゃんだって、いじめられるかもしれないよ」
あの十年間を、簡単に抜けてしまう楔を、リピート記号をつけようとしているのか、ともかくどちらかを企んでいるのが分かって、
「ねえ、和ちゃん、幼馴染だから言ってるの。和ちゃんのために言ってるの」
私はただただ笑うしか無かった。
けたたましく、狂ったように笑うしか無かった。
胸に手を当てて蓋をすれば、あるいは、いつものような、大人びたくつくつ笑いを再現できたかもしれなかったが、
さわ子先生がどけてくれた右手を、再び胸に当てることはしたくなかった。
ひとしきり笑って、私は言った。
「唯、あなた馬鹿よ」
唯は目を丸くして、それから、顔を真赤にして何かを言おうとしていた。
律と澪は、おどおどするばかりで何も出来ないようだった。
ムギは怪訝そうに眉を潜めていた。
「私が学校辞めればいいだけじゃないの」
さわ子先生だけが、目を伏せて、小さく笑って言った。
その声は震えていた。
「和ちゃん、あなたも大馬鹿よ」
私は先生を見据えて、はっきりと言ったのだった。
「でも格好良いでしょう? 先生みたいに」
…
「さわ子さん、行ってくるね」
あれから数日が経った。和ちゃんの親は、娘にあった水準の教育を、とか言って、あっさりと転校を認めたらしい。
和ちゃんの親は、自主性を尊重するとかで、あっさりと独り暮らしを認めたらしい。もっとも、独り暮らしではないけれど。
「行ってらっしゃい。今日の晩ご飯は和ちゃんが作ってよね」
アパートの一室の玄関で、和ちゃんは私に微笑みかけた。
「うん、期待してて。さわ子さんが好きなもの作るから」
そう言って、ドアを閉めた。
彼女の制服は、私が勤める学校のものではなかった。
彼女の行先は、歩く通学路は、今までのそれではなかった。
「なあんで、こんなことになっちゃったんだか」
彼女が棺桶みたいだと言った部屋の中で、私は呟いた。
棺桶の外にあるのはなんだろう。彼女が扉をあけて足を踏み出したのは、どこへだろう。
土の中、草の陰、あるいは、煉獄か。
けれど、とにかく、地獄ではないだろう。
そんなことは、私が許さない。そんな神様の尻穴には、私がギターを突っ込んでやる。
「ふふっ、格好良いでしょう?」
私は携帯電話の待ち受け画面の和ちゃんに微笑んで、職場へ向かった。
「なんだ、来てたのかよ」
放課後、ぞんざいな口調で私に言ったのは、軽音楽部部長だった。
私はピアノの演奏をやめて、彼女の方を向いた。
「先生にその口の聞き方は、ないんじゃないかと思うけど」
そう言うと、部長は、軽く私を睨みつけて、言った。
「和と唯のこと、半分は先生のせいなんだよ、今だって、さ。分かってる?」
私は思わず微笑んだ。
「あなたは、まだ若いのね」
「あぁ?」
ガラの悪い不良のような返事をする部長。
「若いわよ。あなたはまだ、原因と結果が一対一で対応してると思ってる。
あなたはまだ、誰かが動けば、全ての問題は解決すると思ってる」
私はピアノを再開した。
悲しいのと、楽しいのとが、半分ずつ混ざったような、曖昧な曲調だった。
「……なんだよ、わかんないよ、私には」
そう吐き捨てて、部長は音楽室を後にした。
「先生いらしてたんですね」
誰かが音楽室に入ってきた。
一応の敬語で、しかし、敬意はこもっていない言い方で言ったのは、軽音楽部のベースだった。
「そりゃあ、顧問だからね」
ピアノを止めて、私は答えた。
ベースは刺々しい口調で言った。
「今までは、そんなに足繁く通っていなかったくせに」
「これからは来るの。それだけ」
苛立ったように、ベースは声を荒らげた。
「先生のこと、許しませんから。唯も和も、みんなを傷つけて」
私はまた微笑んだ。
「若いのね、あなたも」
ベースは相変わらず私を睨みつけていた。
「あなた、保護者気取りなのね。大人びた態度でいれば、大人になれると思っているのね。
和ちゃんは、もうそんな勘違いは捨てたわよ」
私の言葉を聞くと、ベースは怒鳴った。
「和の話はしないでください……唯は来ませんよ、今日も、明日も……ずっと……」
それから、音楽室を出て行った。
……
「先生、何になりたいんでしたっけ」
今までと同じように椅子に座って、笑って尋ねるのは、ムギちゃんだった。
「ん、幽霊よ。放課後の教室で、悲しそうにピアノを弾く幽霊」
いつもと同じように、紅茶を淹れながらムギちゃんは笑った。
「変なの。ポエティックですね、なんだか」
私は手を止めて、彼女に尋ねた。
「ムギちゃんは変わらないね」
「だって、みんなも何も変わってないから」
思いもよらない答えに、一瞬たじろいで、私は黙り込んだ。
ムギちゃんは続けた。
「変わったのはみんなの関係だけだから……
だから、もし私たちが本当に友達だったなら、きっとまた、友達になれます」
強いな、と思った。結局、私と和ちゃんの関係を知ったときに目を輝かせたこの娘が、
茶化すでも、照れるでも、怒るでもなく、一番私たちをよく見ていたのだ。
けれど、私は一言だけ、彼女から目を背けて言った。
「和ちゃんは、変わっちゃったかもしれない」
ムギちゃんは眼を閉じて、紅茶を啜りながら呟いた。
「じゃあ、唯ちゃんも変わるかもしれませんね」
私は今日も、放課後の音楽室でピアノを弾き続ける。
無人の音楽室でピアノを弾く幽霊を、もしかしたら、彼女が探しに来るかもしれないから。
「真鍋さん、ばいばい」
髪を明るく染めた娘が、私に大きく手を振った。
下品だと思ったけれど、今ではそんなことは私の気分を害さなかった。
私はただの女の子で、他の人とは違う特別な者だなんてことは、無いのだと分かったから。
唯にとって、私はそうだった。ただ、十数年間過ごしただけの、身近にいる女の子だった。
先生にとっても、私はそうだ……
私は今日も人ごみに溶けて帰路を歩く。
心も体も何もかも、私は平均的な、ただの女子高生になる。
それでいいんだ、多分。
「和、ちゃん」
震えた声が私を呼んだ。
私は振り向かなかった。
私は、ただの、この時間この空間に、偶然存在している女子高生でしか無いから、
真鍋 和などという固有名詞に反応するなんてことはあってはならないから、ただ前だけを見つめて歩いた。
「ごめん……ごめんね、和ちゃん」
震えた声は私に追いすがってきた。
夕焼けが、時間を焼き尽くしそうなほどだった。
私は立ち止まって、独り言を零した。
「私も、ごめん、唯……」
夕陽に目と、心を焼かれないうちに、私は足早にアパートへ向かった。
「桜ヶ丘高校にはね、今では幽霊がいるのよ。無人の音楽室で、ピアノを弾く幽霊」
私は和ちゃんに努めて明るく言った。
和ちゃんは、にこにこ笑いながら、カレーを煮込んでいた。
「へえ、ピアノは上手いの?」
敬語は桜が丘高校に置き忘れてしまったようだ。
今更それを拾ってきて、和ちゃんに渡すつもりは、私には毛頭ない。
「上手よ。私の折り紙付きね」
そうなんだ、と和ちゃんは笑った。
和ちゃんのエプロン姿は、とても可愛らしかった。
和ちゃんの作ったカレーは、とても美味しかった。
和ちゃんの笑顔は私の心を癒してくれるけれど、やはり今日も私は、唐突に彼女に言うのだ。
「ねえ、和ちゃん、違うのよ」
彼女のスプーンが止まった。彼女のカレーは、少し辛かった。
「あなたは女として私が好きなの。けれど、それは、本来男の子に対して抱く感情なの。
私は保護対象としてあなたが好きなの。けれど、それは、本来生徒に対して抱く感情なの」
今日も彼女は、笑って私に言うのだ。
「さわ子さんが私とキスをした時、さわ子さんはただの友達だったじゃない」
そうして、私は何も言えなくなったしまうのだ。
せめて飽きるまで、なんて彼女は言ったけれど、その時はきっと来ないのだろう。
いつだか私が彼女に保証した、"きっと"の時が訪れなかったように。
彼女は、この棺桶の中に横たえた、根拠のない優越感と、万能感を、この部屋の中でだけは思い出して、
彼女が子供だった時のように、私にキスをするのだ。
その優越感と万能感を、ちぐはぐな縫い目で私に縫いつけて、私にキスをさせるのだ。
棺桶の中に、私と彼女は二人きり、
死体は、大人の私と、子供の彼女。
キスをする。いつまでも、いつまでも、キスをする……
畢。
最終更新:2010年11月14日 23:14