「こんにちは、先生」
気分転換に家の近くを散歩していると、私は純ちゃんに会った。
あらまあ、奇遇ね、と私が返すと、彼女は笑った。
「ええ、そうですね。私、梓を待たせてますから、これで」
手にお菓子の入ったレジ袋を下げて、彼女は駆けて行った。
羨ましいと思った。
そんな自分を、憎らしいと思った。
「和ちゃん、たっだいまあ」
わざとらしい、陽気な声を上げて、ぼろっちい安アパートのドアを開ける。
細かい、きれいなギターの音が聞こえた。
「おかえりなさい」
和ちゃんが、椅子に足を組んで座って、ギターを弾いていた。
和ちゃんは私の顔を見て、笑った。
「勉強の息抜きに触ってるだけです。すぐにまた勉強に戻りますから」
彼女はそう言って、受験間近の今でも、日に一時間ほどギターを弾いている。
睡眠時間を削っているらしく、なんとなく濁った、疲れたような目をしている。
けれど、それよりも目を引くのは、彼女の左手の指だった。
「和ちゃん、また、指から血が出てる」
私が言うと、和ちゃんは、じっと自分の指先を見つめた。
そして、黒く濁った目で私を見て、呟いた。
「先生、お願い」
私は、抵抗しようとも思わなかった。
ただ、彼女に言われるまま、膝をついて、彼女が差し出した、血の滲んだ指を、舐めた。
それから、腕へ、肩へ、首筋へ……私の舌は和ちゃんの体を這上って行った。
口の手前で、それは止まった。いつも、ここで止まる。
「先生」
お願い、と彼女が呟くのを聞いて、ようやく、私の舌は、彼女の舌と出会った。
なんで、こんなことに、なったんだか……
「先生、どうでしょう」
私の家に泊まってから、和ちゃんは音楽室に、前よりも足繁く通うようになった。
ギターも随分と上達しているようで、私は少し不安になった。
「随分上手になったわよ。和ちゃん、一体どれくらい練習してるのかしら」
一日、二、三時間、と和ちゃんは言った。
つまり、彼女はそれだけ、睡眠時間を削っているのだろう。
彼女はそういう子だと、最近になって分かった。
今までしてきたことをやめるのを、極端に恐れる子だと、最近わかった。
「勉強は大丈夫なんですかあ。それに、先生も進路相談とかで大変なんじゃ?」
梓ちゃんは、もうとっくに、ばらばらになっている、と最近わかった。
とっくにごちゃごちゃに分解されていて、なんとか、そのピースをはめ込む台座を探している、と最近わかった。
「音楽教師だからね、結構暇、かな」
私と目が合うと、梓ちゃんは笑う、と最近わかった。
和ちゃんが見ていないところで、ぎいっと。
そんなことが、最近わかった。
音楽室には、まだ三人が集まっていて、体温と、吐き出された二酸化炭素のお陰で、冬でも少しは暖かかった。
一人減れば、きっと寒くなるだろうけど。
あの日、梓ちゃんは音楽室に来なかった。
そのかわり、和ちゃんが、轟音でギターを掻き鳴らしていた。
「あのねえ、和ちゃん、あまり音楽室、来ないほうが良いと思う」
私が言うと、和ちゃんは濁った目で、私を見つめた。
少し隈ができている。黒くて、奥が見えない目で、私を見つめた。
「なんで、ですか」
私が口を開く前に、和ちゃんはまくし立てた。
「下手だからですか、ギター、もっと上手くなれば、一緒にいてもいいですか、褒めてくれますか」
私は、背筋が凍りつきそうになるのを感じた。
赤く染まった指先を私に見せて、和ちゃんは言った。
「でも、無理です。だって、指が痛くてギターに触れないもの。
弦が赤くなって、指板にシミができてしまうもの」
そして、和ちゃんは、ぎいっと。ぎいっと笑った。
私は、すっかり変わってしまった和ちゃんの様子に、自分の中で全てが壊れるのを感じた。
踵、足首、膝、腿、腰、胸、顎……
だんだんと、足元から崩れていくのを感じた。
そして、目が崩れ落ちる一瞬前に、彼女が微笑んでいるのが見えた。
「先生」
彼女に名前を呼ばれて、私は目を伏せたまま、彼女の指先を舐めた……
なんでこんなことになったんだか、だなんて笑わせてくれる。
なんだ、私のせいじゃないか。
「先生」
あのときと同じように、和ちゃんが私の名前を呼ぶ。
足りないものは二人で補って、それでも足りないものから、目を逸らして、
私たちは、服を乱して重なった。
「大好き」
彼女の声が、頭の中に残った。
今までの彼女の言葉と重なって、大きな音が私を飲み込んだ。
「ただいま」
私の家でもない家の玄関で、私は無機質な声で言った。
あまりおおきな声を出すと、梓がばらばらになってしまうから。
やっと、思い出の台座にはめ込んだ梓の心が、ばらばらになってしまうから。
「おかえり」
舌っ足らずな発音で、梓が言った。
髪の毛をしっかりと結んで、へらっと笑いながら梓が言った。
「ねえ、聞いてください。一生懸命話すから、私の話、聞いてください」
誰に話しているつもりなのか、私には分からないけれど、梓が言った。
私の返事を聞かずに、梓は話しだした。
何度も、もう何度も聞いた話。
けれど、嫌な顔を見せたりはしない。
あまり大きな感情の揺れは、彼女を壊してしまうから。
「まだ話していないことがあるんです、ありますよね、多分ありますよ……」
大袈裟だって思いますか。
たかだか数年間しか一緒にいなかった先輩たちが、私を必要としないと分かったからって、
こんなふうになってしまうのは、大袈裟だって思いますか。
ああ、そんな顔をしないでください、私だって、私がちょっと変だってことくらい分かってます。
「あずにゃんさあ、最近和ちゃんと仲いいわけ?」
唯先輩がある日、私を呼び出したんです。私は嬉しかったんです。
「仲がいいというか、最近、和さんと話す機会は増えましたね」
ふうん、そうなんだ。先輩はそう言ったんです。私は嬉しくなりました。
やっぱり、唯先輩は、和さん自体には興味がないんです。
だって、気にしているのは、彼女の行動ではないんですから。
「このあいださ、和ちゃん、ちょっと変な感じになってたんだよ」
胸がざわめきました。もしかして、もしかして……
「なんか、最近あずにゃんと遊べてないって言ったら、怒ったみたいに走ってってさ。
なに、あずにゃん、和ちゃんとなんかあったの?」
ああ、やっぱり。唯先輩が心配しているのは、幼馴染が、いつも自分を心配してくれる、
成績優秀で、理想的な幼馴染が、卒業の近づいたこの時期になって、自分から離れるんじゃないか、という、ただそのことだけでした。
唯先輩が心配しているのは、和さんのことでも、私のことでもない。
自分のことなんです。
「まあ、とにかくさ、和ちゃんも受験が近づいてきてるんだから、あまり負担をかけないようにね」
私は、和さんを、憎い、と思いました……
「なんでよ」
何がですか。
「どうして、そこで、あずにゃんは和を嫌いになったのかしら」
分かっているくせに……そんなに驚かないでくださいよ。
「梓、あんた」
分かってます、私が、この話をするのが、もうそろそろ十回目だってこと……
ずるいんです、和さんはずるいんです。
まだ唯先輩に必要とされてるなんて、ずるいんです。
そういえば、幼馴染やら妹なんてものは、汎用性があるもので、
もしかしたら、これからずっと必要とされるのかもしれません。
結婚式、友人と喧嘩したとき、将来のことで悩んだとき……
いろんな状況で、唯先輩は、頼れる幼馴染というピースを欲しがるのかもしれません。
そんなの、ずるい。
「あら、梓ちゃん、ギターは?」
ある日、音楽室に行くと、和さんがギターを弾いていました。
十五万円のジャズマスターです。すらっとした、なだらかな曲線を宿した、ジャズマスターです。
オルタナティブや、シューゲイザーみたいな、限られた範囲の音楽に使われるギターです。
それを、いつでも唯先輩に必要とされる和さんが、使っているのです。
「別に、毎日持ってくるわけでもありませんよ。ねえ、和さん、ギター、」
一呼吸おいて、私は言いました。
「あんまり上手くなりませんね。一生懸命練習してますか?
もしかして、そんなに打ち込むものでもないだなんて、馬鹿にしてはいませんか?」
和さんは、見るからに動揺していました。けれど、すぐに優しく笑いました。
「ごめんね。聞き苦しかったかな」
和さんのギターは、ぜんぜん聞き苦しくなんかありませんでした。
そうじゃなくて、私が、私が見苦しいんです。
なんだかいたたまれなくって、私は音楽室を後にしました……
「……もう、いいよ、大丈夫」
突然、髪を解いて、梓が言った。大人びた表情で、愛おしそうに私を見つめた。
「本当に、大丈夫なの?」
答えは分かっているけれど、私は聞いた。彼女は、射通しそうなほど細い指を、私の胸に、そっと当てた。
「大丈夫だよ、大丈夫」
そうなんだ。わたしが笑みをこぼす前に、やはりいつも通りに、
梓は私の唇を、自分の唇で塞いだ。
大丈夫じゃ、ないじゃん。
その日も、私たち四人は音楽室に集まった。
心なしか濁った目をして勉強を続ける和さんと、いつも通り明るいさわ子先生と、
髪を下ろして、落ち着いた素振りを見せる梓と……
そのなかで、自分がどんなふうに映っているのか、私は分からない。
もしかしたら、あの日、ランニングが流行っている、だなんて下らない勘違いをせずに、いつも通り家にいたなら。
暗くなった街を、街頭の明かりを頼りに、公園まで走っていくなんてことを、しなかったなら。
もしかしたら、私はこの中にはいなかったのかもしれない。
ここに来ずに済んだのかもしれない。
「the raging sea that stole the only girl I loved.......」
今日も、いつも通りに先生はギターを弾く。
済んだ声で、何度も歌った歌を歌う。
それを聞きながら、和さんは微笑んで勉強を続け、梓はそんな和さんを眺め続ける。
時折、私と目が合うと、ぎいっと笑う。
梓の言葉を借りるなら、私たちは、唯先輩たちみたいにはなれなかった。
なんとかして、パズルを組み立てようと思ったけれど、誰かからピースを奪うのを極端に恐れて、
自分で自分をバラバラにして、みんなでピースを持ち寄った。
けれど、ピースが多すぎて、私たちはそのなかで溺れてしまった。
多分、下手な比喩表現だけれど、この音楽室は、そんな空間だ。
「上手、本当に、きれいな声」
和さんが優しい声で言った。
和さん、その左手の指が赤いのに、誰も気づいていない、と、そう思っているんですか?
「大したもんですよ、ギターの演奏だけは」
梓が弾んだ声で言った。
梓、あんたの目が、今も和さんのことばかり追っているのを、私が気づかないとでも思っているの?
「そう、照れるわね」
さわ子先生がはにかみながら言った。
先生、先生、あなたが、まだ最後のところでこの音楽室に馴染めていないのを、私は知っています。
こんなはずじゃなかったなんて、今でも思っているのを、私は知っています。
何度も同じことを繰り返すこの空間を、不気味に思い始めているのを知っています。
「純ちゃんは、どう、お気に召したかしら」
半ば投げやりな口調で先生が言った。
本当に、こんな筈じゃなかったのに。
未来も過去も切り離して、現在だけを繰り返せば、和ちゃんは、きっと、今まで通りになる筈だったのに。
そんなことを、先生は以前言っていた。
先生、私は、あなたもだんだん壊れてきているのを感じています。
それでも、私は、もう何十回と繰り返された、いつもの音楽室を再現するために、冷めた紅茶を飲んで、言った。
「綺麗ですよ。でも、梓の演奏のほうが私は好きですね」
いつも通りに繰り返したのに、梓はいつも通りに照れなかった。
射通しそうな視線で私を見つめて、私の頬に手を伸ばした。
「笑ってるね、純」
梓の手に触れて、それから、自分の頬を触った。
ぎいっと、私は笑っていた。
先生が、寂しそうな笑顔を浮かべていた。
畢。
最終更新:2010年12月06日 22:30