次の日。
ドラッグと寒さで体調を崩した梓は、夕方までずっと寝込んでいた。
唯がそばについて看病してくれていたのをぼんやりと覚えている。



何か漠然とした胸騒ぎが、梓を眠りから覚醒させたのは、もう暗い夕方の六時だった。
部屋の電気は消え、エアコンが静かに温風を提供している。
まだ朦朧とした意識の中で、梓はふと感じた違和感について考える。なんだろう。何かがおかしい。
何の変哲もない静かな夕方のはずだが…


…ちょっと待て。


少し、静かすぎやしないか??

その疑念が、曖昧だった梓の意識をいっぺんに呼び戻した。
慌てて起き上がり、周りを見渡す。


唯がいない。

部屋のどこにも見当たらない。風呂に入っているのかと思ったが、ユニットバスの扉を開けても肌寒い空間が広がっているだけだった。

そんな馬鹿な、唯が一人で出かけるということなど、今まで皆無だったではないか。

ベッドの脇のテーブルには、おかゆが置かれている。唯が作ったのだろう。しかし、おかゆを作っておいて、一体どこへ行ってしまったのだろうか。

ふと、おかゆの横に、開いたまま置かれた自分の携帯電話が目に入る。梓は、そんなところに携帯を置いた覚えはない。
何気なくディスプレイを見ると、メールの作成画面だった。何か、文字が打たれている。

『ごめんなさい。やっぱり我慢できなくなった。みんなに、会いにいきます』


「え…」
梓の胸に、黒い濁流のように焦りが到来する。
震える手で、慌ててラストURLに飛ぶ。梓の記憶が正しければ、今日の朝見た天気予報のページが最後のはずだ。
しかし、梓の予想を裏切ってか、それとも心のどこかで予期していた通りなのか、現れたページは、携帯に送ったあと一度も開いたことのない、あの事故の記事だった。

間違いない。
唯が、あの記事を見たのだ。唯先輩は、昨日、梓が言った懺悔の言葉を覚えていた。自分は、唯先輩に許されない隠し事をしようとしている。その証拠は携帯にあるという、あの言葉。
そうして、全てを思い出したかどうかは定かではないが、あの街に、自分の故郷に戻ろう、と。そう考えた。


相当慌てて飛び出していったのだろうか、レスポールも置いたままだ。ただ、梓の財布から、あの街に帰るために必要になりそうな電車の運賃だけが、抜き取られていた。
暖かい部屋の中でおかゆが完全に冷め切っているということは、出て行ってからかなりの時間が経過している。今から追いかけても間に合わない。今ごろは、車窓からこの街にお別れを告げているだろう。

裏切られた。昨日交わした約束は、あっさりと裏切られてしまった。
ショックは大きいが、唯を責めることなどできはしない。彼女は彼女の当初からの目的を果たしに、夢を叶えに行ったのだから。

だからこそ梓は、抑えようのない怒りをどこに向けていいのかわからない。
薬を飲もうとしたが、生活に最低限必要な分だけを残して、いわゆるドラッグと呼ばれる類のものは昨日全部唯が捨ててしまったのだった。


いつの間にか、泣きながらギターを弾いていた。ムスタングではなく。唯が置き忘れていったレスポール・スタンダード。
新品だが、もうかすかに唯の匂いが染み付いたギター。
唯がこれを買った日に、唯と二人で弾いた曲を、今梓は一人で奏でる。

嗚咽混じりの歌声が部屋に響き渡る。

一人が、こんなに寒いとは思わなかった。唯と出会うまでは、それに慣れきっていたから。
けど唯と出会って、こたつの中みたいに暖かい日常を経験して。
いざ、こたつを取っ払われた時、初めてその寒さや辛さが身にしみる。

梓はその晩、暗い部屋の中で、いつまでもいつまでも泣き続けていた。





自宅の二階。長年使われていなかったであろうにも関わらず、綺麗に手入れが行き届いたベッドの上で、平沢唯はくつろいでいた。
懐かしい自分の部屋。
事件の記事を読んだ拍子に、頭に閃光が舞い降りるように全ての記憶を取り戻した彼女は、何もかもを思い出すことができる。

憂や和と共に成長してきた、少女時代の記憶。
軽音部の仲間と過ごした、部室でのかけがえのない時間の記憶。
そして、地獄のように怖かったあの事故の記憶。

何故今まで二年以上もの間、忘れていたのかが不思議なほど、鮮明に思い出せる。


まったく昨日と今日は、忙しくて愉快な二日間だった。
昨日の夜、「ういー、ただいまー」と言って私が突然家に帰ってきた時の、腰を抜かして口をぽかんと開いた、憂の表情。まったく面白かったといったらありゃしない。
けど、次の瞬間には、くしゃくしゃの笑顔で「お姉ちゃん、おかえりなさい」って言ってくれた。嬉しかったなぁ。本当に嬉しかった。
唯はそんなことを考え、一人でくすくすと笑う。


それから憂と両親と四人で抱き合ってわんわん泣いたあと、和ちゃんと、りっちゃんと、澪ちゃんと、ムギちゃんと、さわ子先生も家に呼んで、またみんなでわんわん泣いた。

そして朝まで、飲めや歌えのフルコース。
宴会は今なお続いているようで、下の部屋からは、さわ子先生のくだらない一発ネタと、りっちゃんの大笑いが高らかに響いてくる。

ちなみに、二年前に死亡したと思われていた唯の帰還は、マスコミにはまだ知られていないらしかった。取材攻めにあってしまっては大変と、憂や両親が考慮した結果だった。

コンコン、というノックの音。
はーい、と返事をすると、キィ…と、ドアの軋む音とともに憂が部屋の中に入ってくる。

「お姉ちゃん、あったよ、昔のお姉ちゃんの通帳とカード」
「ありがとうういー。何円くらい貯金あるかな?」
「うーん、結構たまってると思うよ。三十万円くらいはあるかな」

「三十万円か、うん、ちょうどいいや」

「ちょうど?何に使うの?」
「ちょっとね。あのね憂、私、明日から、またちょっといなくなるから」
「え…」
憂の穏やかな表情が、一瞬にして崩れる。
無理もない。二年以上も離れ離れで、昨日やっと帰ってきた実の姉が、一日家族と過ごしただけでまたどこかに消える、と言っているのだから。

「お姉ちゃん…どこへ行こうっていうの。せっかく、戻ってこれたんだよ?一緒にいようよ。またお姉ちゃんがいなくなるなんて、私…」

憂が、みるみる涙目になっていく。きっと今下にいるみんなも、こんなことを言ったら憂とまったく同じ反応をするだろう。
ずき、と心が痛む。だけど…

「大丈夫だよ、憂。今度は、私はいなくなるわけじゃないからね。
憂やみんなが寂しくならないように、時々はこっちに戻ってくるつもり。絶対に、約束する」

「お姉ちゃん、じゃあ、何のために…」



「旅をする途中で、大切な人ができたんだ。憂や和ちゃんや、軽音部のみんなと同じくらい、大切な人が」





陰鬱な鈍色の空から、雨がしとしとと振り続いていた。
深い霧に街並みが包まれて、重く、深く、沈んでいる。
何もできない。する気が起きない。
体調不良と言い訳して会社に休みを貰っていた中野梓は、ベッドから起き上がれず、ただその雨景を眺めていた。

窓の外の鉛色の粒は、夕方くらいから段々、綿のような白い雪に変わっていった。遠くのビルから聞こえてくる、まだ少し時期の早いクリスマス・ソングが、途端に洒落た音色に変わったような錯覚に陥る。
夜になっても白の勢いは衰えることなく、しんしんと街に降り積もる。
摩天楼の煌びやかな光と、雪景色は混ざり合う。詩人がどこかで詩を詠んでいるような、美しい美しい夜。

一日中飲まず食わずでも、不思議と腹が減らない。自分の体が自分でなくなったようだ。ああ、寒い。心の傷が、ずきずきずきと疼き出す。
離れていった温もり。
ああ、なんて苦しいんだろう、なんて辛いんだろう。
このまま死んでしまいたい。唯先輩がいない街で生きていても、それはきっと虚しいだけだ。このまま…

ぎゅ、と。
雪を踏みしめる、足音が聞こえた。


梓はびくり、と、ベッドから跳ね起きる。枕元に置いてあったオーディオのリモコンが、はずみで下に落ちる。
突然、スピーカーから音楽が流れ出す。どうやら電源が入ってしまったらしい。
美しい、ピアノの旋律。聴くものの心をいきなり揺さぶるような前奏に続いて、透明感のある男の歌声が聞こえてくる。
これは、この優しいバラードは。



『Drifter』。


『交わしたはずのない 約束に縛られ
破り棄てようとすれば 後ろめたくなるのは何故だ』

ぎゅ。
その時点で予感めいたものは、多少あったのだ。
二階の住人は梓しかいないこのアパートの非常階段を、登る音。雪を踏みしめながら、一歩一歩、登る音。

『手巻きの腕時計で 永遠は計れない
虚しさを感じても 手放せない理由がこの胸にある』

『例え 鬱が夜更けに目覚めて
獣のように襲いかかろうとも
祈りをカラスが引き裂いて
流れ弾の雨が降り注ごうとも
この街の空の下 あなたが
いる限り僕は逃げない』

ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。
階段を登りきった足音は、ゆっくり、ゆっくり。梓の部屋に近づいてくる。

『人形の家には 人間は住めない
流氷のような街で 追いかけつたのは逃げ水』

梓はドアの前に立って、中から鍵を開ける。
絶対にそうだ。そうであってくれ。祈りを込めて、鍵を回す。

『いろんな人がいて いろんなことを言うよ
お金が全てだぜと 言い切れたなら きっと迷いも失せる』

ドアノブが回る。ドアが開く。
そこには……

茶色い髪をヘアピンでとめた少女が、雪を纏った白い天使のように微笑んで立っていた。


『みんな愛の歌に背つかれて
与えるより多く 奪ってしまうのだ』

「あーずにゃんっ、ただいま!」
ぎゅっ、と、天使の温かい体が梓を抱きしめる。
「唯先輩…」

『乾いた風が吹き荒れて
田園の風景を 砂漠にしたなら』

梓は何も、考えることができない。ただ彼女を抱きしめ返すことしか、できない。

『照りつける空の下 あなたは
この僕のそばにいるだろうか?』

「もうーあずにゃん、大袈裟だよー。一日二日離れてただけじゃん。泣かないで?」

「だって…ぐすっ、唯先輩が何も言わずに出ていくから、嫌われたのかと…もう私のところにいる気はないのかと…」

「世間をナメないでください、あずにゃん。私はちゃんと、約束を守る女なんだよ?」

「約束…?」

『例え 鬱が夜更けに目覚めて
獣のように 襲いかかろうとも
祈りをカラスが引き裂いて
流れ弾の雨が 降り注ごうとも』

「平沢唯の旅の終着点は、この街だって。Drifterの旅が終わるのは、この部屋だって、あずにゃんと約束したもん!」

『この街の空の下 あなたが
いる限り 僕は……』


「そう…でしたね。えへ。えへへへ」
「うむ。そしてギター代と、あ、行きの電車代もだけど、耳揃えて持ってきたのだ!えへへ、これでギー太二世は晴れて私のものーっ!!」
「なんですか…ギー太二世って」
「私のレスポールの名前だよ。あ、あずにゃんのはムスタングだから、『むったん』」とかかなぁ」
「ちょ…なんですかそれ、勝手に決めないでください!」

『きっと 素面な奴でいたいんだ
子供の泣く声が 踊り場に響く夜』

「それより寒い寒い!中に入れてよぉ、雪まみれでここまで来たんだから。電車は遅れるし、大変だったんだよぉ」
「そうですね…あったかいココアでも、一緒に飲みましょうか」

『冷蔵庫のドアを開いて
ボトルの水飲んで 誓いを立てるよ』

「飲んだら?」
「飲んだら?」

「…いっしょにギターでも、弾こっか」

『欲望が渦を巻く海原さえ
ムーン・リヴァーを渡るようなステップで
踏み越えて行こう あなたと』




『この僕の そばにいるだろう』

おしまい



最終更新:2010年12月08日 00:02