唯の頬に手を当てて、軽く叩きつつ、潜めた声をかける。

「唯、起きろ。大変だ、起きろ!」

数度声をかけた後、唯は気だるげに瞼を上げた。

「あ…りっちゃ~ん…」

唯は顔を覗き込む私に両腕を伸ばして微笑みかける。良心がずきりと痛んだ。

「おはよう、唯。でもな、それどころじゃないんだ。…感じないか?」

「え…?」

私の展開するただならぬ空気に、さしもの唯も違和感を覚えたらしい。そして…。

「あれ…冷たいよ…?……!?ぁ」

唯はやっと下半身の異常に気付いた。私はすかさず唯の口を押さえ、驚愕の叫びを妨げた。

「り、りっちゃん………わ、わたしぃ…」

唯の目には、早や涙が浮かんでいる。

私はゆっくりと、優しく微笑みかけた。

「わかってる。皆まで言うな、私は唯の味方だよ」

「りっちゃん…!りっ、りっちゃ…りぃちゃあ…」

言葉になっていない。だが、ここで泣き出されると計画がおじゃんだ。落ち着かせなければなるまい。

「わかってる。大丈夫だ、私に考えがある、だから泣かないで、騒がないで私の話を聞け。な?」

「う…うん…わかったよ、わかったよぉ…」

少しではあるが、どうにか落ち着いたようだ。しかし時間が潤沢にあるわけではない。

その時、唯があることに気付いた。

「あれ…?ここ、私の布団じゃない…りっちゃんの布団だよね…?」

落ち着け、と言ったとたんに思いのほか冷静になってしまった。ややこしい子である。まずはそこを説明しなければならないか…。

「夜中に、トイレに行っただろ?その時にな、唯は間違えて私の布団に入って寝ちゃったんだよ。

 だから私は代わりに唯の布団で寝てた。それで、ついさっきトイレに行こうとしてさ、目を覚ましたんだ。

 そしたら…唯の布団がめくれててな。多分足で蹴ったんだろうな。それで、この、おねしょ…に気付いたんだ」

私はそう説明した。いささか苦しいが…。

「…そうなんだ…。ごめんねりっちゃん、迷惑かけちゃったね…せっかくの修学旅行なのに…」

よかった信じた。

ここまで漕ぎ着けられれば後は難しくないはずだ。私はさらに続ける。

「澪とむぎに正直に話したほうが楽ではあるんだろうけど…それは嫌だろ?」

「……う、うん。やっぱり恥ずかしいよ…」

「そうだろうな。だから、これは唯と私だけの秘密にしよう。真相を知ってるのは唯と私だけだ。な?」

私がそう言うと、唯はやっと安殿表情を浮かべて微笑んだ。

「…うん。ありがとりっちゃん。…私、りっちゃん大好き!」

私も大好きだ、唯。でも、今そんなことを言うのはやめてくれ。心が痛いから…。

少し安心して余裕が出来たのか、唯はいつもの調子を取り戻しつつあるようで、私にこう尋ねた。

「で、でもりっちゃんどうするの?お布団を押入れに隠すの?」

「いや、さすがにそれは無理だろうな。澪が布団のチェックをするだろうし。

 もしそこをごまかせても、臭いできっとバレるよ」

「じゃ、じゃあ…」

「だから、正直に布団を濡らしたことは言おう。ただ、おしっこで濡らしたんじゃないってことにするんだ」

私がそう言うと、唯は小首をかしげながらこう訊いてきた。

「水をこぼしたことにするの?」

「いや、これを見る限り、そして嗅ぐ限り、水では駄目だ。お茶なら、色は隠せるが臭いは隠せない」

「じゃあ、どうするの?」

そこで私は、唯の布団に包まりながら考えた、最良の策を吐露した。

「唯、確か化粧水を持ってたよな?あれを貸してくれないか?」

「化粧水?なんで?」

唯のが持ってきていた化粧水、これが私の切り札だった。

それは妙に匂いがきつくて、正直私は非常に不快に思っていたのである。

だが、今回はそれが活躍してくれるはずなのだ。

私は私の考えをゆっくりと述べ始めた。

「まずだな、こういうシチュエーションなんだ。唯は起き抜けにペットボトルのお茶を飲もうとしたんだ。

 ところが手が滑って、お茶はすべてこぼしてしまった。

 慌てているうちにお茶は布団に染み込んだ。このままでは染みになってしまう、と唯は慌てたんだ」

「うん、うん」

唯は熱心に聞いている。私は続ける。

「困った唯は私を起こして、どうすればいいか相談する。

 私は、お茶の染みは化粧水で落とせるという話をどこかで聞いていたので、それを試すよう勧める」

「お茶の染みって化粧水で落ちるの?」

「さあな。でも、今回はそういうことにしておくんだ。

 そして私と唯は布団に化粧水を染み込ませて、お茶の染みを落とそうとする。

 ところが、まあ、私と唯のことだからな、落ちないことに焦って、エスカレートしてとうとうまるまる一瓶全部使ってしまう。

 唯の化粧水は匂いが強いから、これならおしっこの臭いがごまかせる。おしっこの色はお茶だってことにできる。

 澪や先生にはこっぴどく怒られるだろうけど、それでもおねしょをしたことは隠せるというわけだ。どうだ?」

私は、きっと唯なら二つ返事だと思っていた。ところが、だ。

「えー?それはやだなあ」

唯はそう漏らした。ここにきて自己主張をするとは思わなんだ。

驚いた私は即座に尋ねた。

「な、何でだよ!?私が頑張って考えたんだぞ!?どこが駄目なんだ!?」

私の問に唯はこう答えた。

「だってあの化粧水、高かったんだよ?まだあんまり使ってないし…」

よもやここへ来て物欲による主張を展開するとは。やはりこの娘、侮れぬ。

しかし、そんな理由で取り止めにされるわけにもいかない。私は食って掛かった。

「じゃ、じゃあどうするんだよ!?他にいい案でもあるのか!?」

唯は平然と答えた。

「色をごまかせて、においが強いものをこぼせばいいんでしょ?ジュースとかコーヒーでいいんじゃない?」

ああ、やはりこの娘は馬鹿なのだ。

「どこにジュースやコーヒーがあるんだよ!?私は持ってないぞ!?唯は持ってるのか!?」

「ううん。でもあるよ」

「どこにだよ!?」

「このホテルの自販機で売ってるよ。すぐ買ってこれるよ」

……盲点だった。


結局それから、私は自販機でコーヒーを2本買い求めた。唯はその隙にジャージとパンツを履き替えていた。

そうして湯呑みにコーヒーをあけてから、布団の上にそのコーヒーをぶちまけた。

布団の上を茶色の染みが広がっていく様は、中々に気味の悪いものだった。

それから私と唯は驚きの叫び声をあげ、その声に澪とむぎは目を覚ました。

この光景を見たときの澪の顔は、私の修学旅行の思い出の中でも上位に食い込むものである。

むぎは相変わらずにこにこしていた。

私は澪に

「唯も私も早く目が覚めたからコーヒーの一気飲み競争をしようとしたところ、思わず吹き出してしまった」

と告げた。とりあえず殴られた。

それから澪は先生に事の次第を報告に行き、程なくして山中女史と共に帰還した。

女史の寝起き顔はこの上なく凶悪だった。

しかしながら、その後はおおむね私の予想通りに話は進む。

私と唯は山中女史とともに宿の従業員に頭を下げ、布団のセットを洗濯してもらうことになった。

これで証拠らしい証拠はもはや無い。

私は勝った。運命に、勝利したのだ!


それからは、ほぼ予定通りに修学旅行二日目の日程が進められた。

朝食や、先生方からの諸連絡等を滞りなくこなす。

ただひとつだけ、思いもよらぬことがあった。

妙に十数分の時間が空いた私は、一人でぼんやりと土産物のコーナーを冷やかしていた。

そこで、レジにいた中年従業員と意気投合し、妙な話を聞いたのである。

「もう十何年前のことだったかねえ。あなたたちみたいに修学旅行に来た女の子が、飛び降り自殺をしたことがあったのよ。

 何でもその子はもともといじめられていたんだけど、かわいそうに、どういうわけかおねしょをしてしまったんだね。

 そのことでますますいじめがエスカレートするとでも思ったのかねえ、窓から飛んじゃったのよ。

 しかもその子、落ちている間に通風パイプに顔をぶつけて肉が削げて…発見された時には顔の右半分がなかったそうだよ。

 それからだね、たまにだけど、その子の幽霊を見るお客さんがいるんだ。

 そして、どうしてだかそのお客さんは決まっておねしょをするのよねえ。あっはっは、あなたはまあ大丈夫だったみたいね。よかったよかった!」

私は精一杯苦笑いをしてみせた。


一夜のうちに色々と厄介なことはあったものの、全ては丸く収まった。

図らずも山中女史からはますます疎まれるようにはなったが、反面、唯からは篤い信頼を得るに至った。

プラマイゼロ、といったところだろうか。

さて、これから待ちに待った修学旅行二日目、班ごとの自由行動だ!

友人達との最高の思い出を作るため、目一杯楽しんでやるぜ!

そう、あの幽霊の子の分もな…!

私が胸の中でそんなことを思っていると、いつの間にかむぎが近くにいた。

そして、私の耳元で。

「りっちゃんって…右のおしりに大きなほくろがあるんだね…」

と、囁いた。


おわり



最終更新:2010年12月12日 02:17