犠牲とするのは、必要な時間だけ。

居なくなってしまいたいと願う自分の体を、それでも守る私。

貪欲で意地汚い私の性根は、これだけ追い詰められても変わることはありませんでした。


「はぁ、はぁー……やだ、やだよ……っ」

上がった息のせいで、過呼吸になってしまいそうでした。

「唯、落ち着くの」

私を執着させているのは、きっとまだ捨てていない一縷の望み。

妹ももしかしたら、なんて笑い飛ばされてしまうような、一縷の望み。


私にとって、結局妹が全なのです。

取るに足らない自分自身を守るのは、それを確かめられていないからという不安からだけなのです。

だから、妹の口から全てを理解できるような言葉でも浴びせて欲しかったのです。

この想いと決別できるのなら、どんな言葉でも。

たとえ、どんなに辛辣でも、そうしなければ私はずっとこのままだから。

言われたらどうなってしまうか分かりません。

でも、それで普通の「お姉ちゃん」になれるのなら、私は、それで構わないのです。


「憂、憂……っ!」

「あ! 唯!」

無意識のうちに、駆け出していました。

動かない足を奮い立たせても、心は立ち直れません。

朦朧とした目を見開いても、心は曇ったままなのです。


でも、もういいのです。

これより私の心が荒んでしまっても、不幸な私の手から、妹が離れられるのなら。


階段を駆け上がり、廊下を駆け抜け、その扉の前へとたどり着きました。

「憂……」

乾いた喉では、飲むこんだ唾をなかなか押し込めませせん。

息が詰まりそうな緊迫感を、取っ手を捻って掻き消しました。

「……憂」

「あ……お姉ちゃん」

憂は、まるで何もなかったような振る舞いでした。

一瞬記憶を疑った私に分かったのは、目元の赤い跡だけでした。

「……どうしたの?」

顔は、笑えていませんでした。

きっと妹は、私以上に無理をしているのでしょう。

私は、次第に自分の顔が歪んでいくのが分かりました。

「……おねえちゃ、ん?」

自分へ侮蔑を向けているはずなのに、私はその顔を妹へと向けてしまっていました。


なにしてるの、すぐに謝らなくちゃダメだよ、私ったら。

私の憂を、これ以上悲しませてはいけないよ。


「あ、髪の毛曲っちゃってるよ」

無理をして笑って、妹は私の髪に触れました。

何も言えない私に触れるその手は、確かに震えていました。

「……はい、なおったよ」

「あ……」

諦めてしまえればどれほどよかったでしょう。

この優しい妹を、ただ妹として愛せればどれほど幸せだったのでしょう。

可能性のない希望なんか捨ててしまおうと、何度試みたか分かりせん。

でもその度に、妹の優しさに触れてしまうのです。

囚われた私の体を、さらに閉じ込められてしまうのです。


「……ねぇ、憂」

「……なぁに?」

僅かだけでも、怯えを感じられたその言葉に返せたのは、

「……ごめんね」

ただの、その一言だけでした。



──

憂は無理をした笑いで許してくれました。

戸惑う私を差し置いて、また私に優しさを浴びせかけるのです。

嫌だなんて、もう言えません。

その優しさの中は、私をまるで赤ん坊のように包みこんでしまうのです。

一度壊れかけた私の心では、今では抜け出すことすら出来なくなってしまいました。

そして私はほしいままに、さらに妹を求めてしまうのです。


「じゃあ、一つだけお願いがあるの」

妹は私の手を取って、小さな声でいいました。

俯いたままの妹の顔は、私には分かりません。

「……なあに?」

触れた手から、ようやく冷えた体が解かされていきました。

「明日は……一緒にいたいな」

握った手が、熱くなるのを感じました。

「……うん」

私は、妹のそばにいてはいけないのに。

「えへへ、ありがと」

近くにいたら、私のせいで汚してしまうのに。

「いいよ」

でも、断ることなんて出来ませんでした。

「うん」

その時、胸を過ぎった想いを振り払うように、私は妹の目を見つめました。


──

まだそう遅くないうちに布団へと潜りました。

どうにも心が落ち着かなくて、明瞭としない思考を無理やり寝かせようと目を閉じます。

布団の中に立ち込める湿気が僅かばかり不快でしたが、体を小さく丸めました。


自分のこの体を確かめないと不安だったのです。

私が私を保っていられるのは、きっとこの体があるから。

形もない精神だけの私だったならば、とっくに崩れ去ってていたでしょう。

せめて、一つの証拠だけ。

妹との記憶が染み込んだこの体は、なくしたくなかったのです。

なくなるはずなんてないけれど、確かめずにはいられませんでした。

明日になっても、妹が私を分かってくれるように。


降りてきた眠気に身を任せ、静かに深呼吸をしました。

ふと、忘れていたかのように思いました。

きっと、私は……。


 時計が鳴り出す前に目が覚めました。

日頃より早い目覚めは、むしろすっきりとしたものでした。

きっと、今日も妹は起こしに来るでしょう。

「……ふぅ」

一息吐き出して、布団を退かしました。

私が向ける言葉は、もう決まっています。


少しして、聞こえるスリッパの音。

扉が、ゆっくりと開きました。

「……おはよう、憂」

「あ……うん、おはよう」

妹が差し伸べてくれた手をとって、私はベットから立ち上がりました。


……
…………

その日は、ずっと手を繋いでいました。

妹が私の手を離さなかったのです。

昨日あれほどのことを言った私にも、妹は変わりませんでした。

「……あのね」

上手く話せなくなる私を、妹は気づきません。

「うん」

「昨日は、みんなで鍋するつもりだったんだ」

「え……」

より一層情けなくなる私を、妹は笑って安心させてくれました。

「お姉ちゃんも一緒にね、驚かせようと思ってたんだけど……」

「……ごめんね」

「ううん」

この声は、ずっと私を微睡ませてきた、そんな声。

「梓ちゃんたちに、後で謝らなくちゃね」

「……うん」

握った手はそのままで、妹が俯いた私を覗き込みました。

「お姉ちゃん?」

跳ね上がる心臓は、きっとこれからも変わらないのでしょう。

「……な、なに?」

「そんな顔しなくても平気だよ」

「……うん」

それでも良いと思ってしまったのは、もう仕方が無いのです。

「あ、埃ついてる」

そう言って、妹は私の頬に手を伸ばしました。

「だ、大丈夫」

咄嗟に自分で払おうとした私を、妹が止めました。

「じっとしてて」

「……」

「…はい」

ああ、確かこのやり取りは、いつか当たり前のように交わしていたものと同じ。

違うのは、私だけでいいのかな。

妹が見せたその白い小さな綿埃は、いつかのクリスマスを私に思い出させました。

あの時は、ただ妹の為だけに私はいて、ただただ満たされていたことを覚えています。

今ではもう、憂の笑顔は私には作れません。


「……ねえ憂」

「なあに?」

ありがとう。

やっと、その言葉を言えました。

言わせてくれたのは、きっと妹のお陰。

手を握っていてくれたから、自然と口から漏れました。

「どういたしまして」

恥ずかしそうに笑った妹の手を、今度は私が握り返しました。



──

「もう寝るの?」

「うん、だめ?」

私のベッドに腰掛けて、妹が首を傾げました。

「いいけど……」

私と一緒に寝たい、なんてそんなことを言い出したのです。

上手な言い訳も作れない私は、それでも胸は高鳴っていました。

「えへへ」


言い訳がないというのが、私の言い訳なのです。

妹が言ってくれたとき、心に何かが染み渡っていくような感覚を覚えました。

とても、嬉しかったのです。

私がどんなになっても、妹は私を突き放さずにいてくれること。

それを感じられただけで、とても救われた気がしたのです。

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

布団に入っても、私は目を閉じませんでした。

妹が瞳を下ろしてその顔を、見ていたかったのです。

ゆっくりと胸を上下させるその呼吸も、綺麗な瞳が閉じ込められているその瞼も、

私の名前を呼んでくれるその口も、全て目に留めておきたかったのです。

次第に妹の呼吸は寝息へと変わり、その音だけが私の耳に響きます。


眠った妹の手に触れました。

私は、ずっと妹のそばにいたいと、そう思ってしまったのです。

例え、それがただの姉妹でも私は構いません。

無垢な妹に笑ってもらえれば、私はそれだけで。


 ──
 ────

 それでもいつか言える日が来るのでしょうか。

 妹を傷つけてしまっただけの、この醜い感情を。

 言えるならば、妹の心に触れないように。

 そうしなければ、きっと優しい妹は受け入れてしまうから。

 だから、この気持ちを伝える時は一度だけ。

 それは、妹に好きな人が出来たあとの

 「いつか、きっとね」

 そして、白い頬に口づけをして、私は瞼を閉じました。

 ────
 ──



 ● ● ● ● ●

 平沢憂は私の妹。

 私が恋した女の子。

 それでも私は、お姉ちゃん。

 変わることはないけれど、それでいい。

 大好きなんて言えるのは、今のこの距離だけだから。

 平沢憂は私の妹。

 ● ● ● ● ●




 ― おしまい ―




最終更新:2010年12月17日 23:50